第十六話第四章
―――夕刻―――
退勤の時刻となり、通久は鞄を肩にかけてエントランスに向かった。外はすでに暮れかけ、窓の外には街灯が点りはじめている。
「お疲れさまでした、浜西さん。」受付嬢の声が背にかかる。振り返ると、昼間と変わらぬ笑顔を浮かべていた。だが、耳の奥で裂け目の残像が疼く。
「少し……お時間、いただけますか?」
不自然な笑みとともに差し出された声に、通久は反射的に頷いてしまった。周囲を見回すと、すでに社員たちは帰路につき、エントランスは静まり返っている。
「では、こちらへ。」導かれたのは応接室だった。重い扉が閉じられ、室内には二人きり。カーテンが半分閉ざされ、夕闇がわずかに差し込んでいる。
通久は喉を鳴らす。足元から冷気が這い上がるような感覚に、全身が粟立った。
「……さて」女はゆっくりと振り向いた。その瞬間、微笑が裂け、端から端まで開いた口が、通久の視界を覆った。
応接室の空気が一気に張り詰めた。女の微笑は裂けて、耳元まで伸び広がる。赤黒い口腔が覗き、舌が生き物のように蠢いていた。
「――ねえ」
声は囁くようで、だが鼓膜を爪で掻くような響きだった。
「私、綺麗?」
通久の背筋を氷柱のような寒気が駆け上がる。答えを間違えれば命を落とすと直感で悟った。だが口が乾き、声は出ない。女はゆらりと歩み寄る。ヒールの音が絨毯に沈むたび、壁が近づく。
「人の世界に溶け込むのも、もう飽きたの。……あんた、若くて、まだ染まってない匂いがする」裂けた口から吐息が漏れる。それは血と腐肉の匂いを混ぜ合わせたようで、通久の胃を掴んで捻りあげた。
「妖の側に来なさい。あんたなら、向こうでも長く遊べる」唇の端が耳を越え、皮膚が裂ける音すらした。
通久は足を踏み出したいのに、床に縫いとめられたように動けない。指先だけが震え、冷や汗が首筋を伝う。
「やめろ……」かすれた声が漏れる。
女は耳を澄ますように傾げ、裂け口をさらに吊り上げた。「やめない。あんたは選ばれた。狐の窓を覗いたろう?こちらの気配を嗅ぎ取る目を持った時点で、人と同じじゃいられないのよ」
ぞくり、と心臓が強く跳ねた。狐の窓――。
それを使った自分を、向こう側も見ていたのだ。玉藻の忠告が頭を貫いた。
女の腕が伸びる。爪は黒く変色し、鉤のように曲がっている。その影が通久の胸を掴まんと迫る。
「おいで」
「うわっ……!」
咄嗟に通久はビジネスバッグを胸の前に構えた。鈍い衝撃が響く。爪が革を引き裂こうと食い込む。だが次の瞬間――バッグの奥から光が弾けた。
「……っ!」女が一歩退いた。裂け口の奥で舌が飜える。
バッグが震えている。通久が恐る恐る視線を落とすと、書類の間から一枚の護符が浮かび上がるように光っていた。それは見覚えのある紙片だった。朝、玉藻が何も言わずにバッグへそっと滑り込ませていたもの。狐の文様が墨で描かれた小さな護符。
「まさか……」通久は声を失った。玉藻が予見していたのだ。
女は顔を歪めた。口裂けの端から黒い煙のようなものが立ち昇る。「……狐の加護、か。あの女狐め……」
低い唸りとともに部屋の空気が変わる。壁が揺れ、蛍光灯がちらつく。窓の外はまだ夕刻のはずなのに、闇が押し寄せていた。
「狐が守ってるなら、なおさら欲しい。狐の寵を受ける人間……向こうに引きずれば、きっといい玩具になる」
女の姿が膨張するように歪み、影が部屋いっぱいに広がる。裂け口がさらに大きく開き、頭が壁に届くほどに伸び上がった。
「さあ――来い!」
黒い腕が二本、三本と増えて伸び、通久を絡め取ろうと迫る。通久は必死にバッグを握り締めた。護符の光が彼を包むように揺らめくが、それでも影はじわじわと迫り、肩先に触れようとする。
「誰か……!」喉の奥から悲鳴が迸った。
――その時。
応接室のドアが外から勢いよく開かれた。光が差し込み、冷たい妖気を裂いた。
「そこまでよ!」
耳に馴染んだ声。玉藻だった。狐耳を半ば覗かせ、裾を翻しながら踏み込んでくる。瞳は金色に煌めき、ただの少女のそれではなかった。通久は呆然と彼女を見つめた。救いの光が、ようやく駆けつけたのだ。
玉藻が踏み込んだ瞬間、口裂け女は通久に伸ばしていた腕を止めた。金色の瞳に射すくめられ、硬直したように身を震わせる。だがやがてその表情はぐしゃりと崩れ、裂けた口元からか細い声が漏れた。
「……どうして、邪魔するの……? 私……ずっと、ずっと……誰にも気づいてもらえなかったのに。」ひび割れた声は怨嗟に聞こえたが、その響きの奥には少女のような切なさが混じっていた。
「生まれてから、ずっと顔を隠してきた。人の前に出ても、私なんかいないものみたいにすり抜けられて……。話しかけても、振り向いてもらえなくて……。私が笑っても、泣いても、誰一人として見ようとしなかった」裂けた口が震え、そこから透明な滴がこぼれ落ちた。それは血でも妖気でもなく、純粋な涙だった。
「……だから……だからね、あなたが、私を“見た”とき……本当に心臓が飛び出すくらい嬉しかったの。あぁ、やっと……やっと私を見つけてくれる人がいたんだって」声が嗚咽に変わる。両手で顔を覆おうとするが、裂けた口が隠しきれず、涙がぽろぽろとこぼれては指の隙間から落ちる。
「怖がられるのはわかってる……。でも、逃げないで、ちゃんと私の顔を見てくれた……その時、思っちゃったの。“もう絶対に離さない”って。こんな私を見てくれたのは、あなただけだから。だから……必死になってしまったの」その告白は執着でありながら、あまりに人間らしい渇望だった。誰かに気づかれたい、見つけられたいという、孤独に押しつぶされてきた心の叫び。
玉藻はそっと歩み寄り、涙に濡れたその顔を見つめる。裂け口は恐ろしく歪んでいるはずなのに、震える瞳には幼さすら宿っていた。
「……そう。あなたはただ、寂しかったのですね」
口裂け女は力なく頷いた。
「寂しくて……怖くて……。誰かに“ここにいるよ”って言ってほしかった。だから、もう無理やりでもいいから、私を見てほしいって……」
玉藻は小さくため息をつき、その肩に手を置いた。
「気持ちはわかります。けれど、無理やりでは傷つけるだけ。……通久様は、逃げずにあなたを見た。それが答えです。」
通久もやっとの思いで言葉を絞り出した。
「……怖かった。でも……ちゃんと、あなたを“見た”んだ」
口裂け女はさらに涙を流し、膝をついた。裂け口を震わせながらも、その顔にはどこか乙女らしい安堵の影が浮かんでいた。
玉藻は泣きじゃくる口裂け女の肩を、そっと抱くように撫でた。
「……あなたの涙、私にはよく分かります。私もかつて、人に恐れられ、心を寄せてもらえなかったことがあるから」
金色の瞳は柔らかく、しかし真剣に女を見つめる。
「けれどね……認めてもらうことは、力で掴むものではないのです。見てくれる人は、必ずいる。その時まで信じて待つことが、あなたに必要だったのではないでしょうか」
口裂け女はしゃくり上げながら顔を上げた。
「……でも、私は、どうしても……。誰かに、今すぐにでも、いてほしかった……」
「分かります。その焦りも、寂しさも」玉藻は微笑を含んだ声で続ける。「でも、通久様は逃げなかったでしょう? 怖がっても、最後まであなたを“見た”。それは大切な証。あなたは確かに存在している。見てもらえた、その記憶を抱いて生きていけばいい。」
女の涙はまだ止まらないが、その表情にはわずかに穏やかな色が差していた。
「……私、いてもいいのかな……?」
「もちろんです」玉藻は即座に答えた。「誰かに見てもらえなかった時間が長くても、あなたの存在は消えていません。今日、こうして声を聞いてもらえた。それで十分でしょう?」
口裂け女は震える唇を閉じ、通久を見やった。彼もまた、恐怖に強張った顔をしながら、しっかりと頷いていた。
「……私は、忘れないよ。あなたのこと。」
その言葉に、女の大きな瞳から最後の涙が一粒、静かにこぼれ落ちた。
「……ありがとう」
呟くと、彼女の身体を包む黒い靄がふわりと薄れていった。裂けた口元はまだ残っている。だがその姿は以前ほどの恐怖を帯びておらず、寂しげな乙女の顔に見えた。
「これ以上は、迷惑をかけない……。でも、どうか忘れないで。私は、確かにここにいたって。」女は背を向け、扉の方へと歩き出す。歩みは軽くはなかったが、先ほどのような執念は感じられなかった。
玉藻は静かに頭を下げる。
「ええ。あなたが歩んだ孤独も、確かにここに刻まれました。どうか安らかに」扉が静かに開き、次の瞬間、口裂け女の姿はすっと消えた。まるで夜霧が陽光に溶けるように。
応接室に残されたのは、玉藻と通久だけ。だが空気は先ほどの冷たさを失い、わずかに温もりを取り戻していた。




