第十六話第三章
朝日がカーテンの隙間から差し込む。まぶしさに目を細めながら、通久は布団の中で身を起こした。
「……ん……」
眠気を振り払いつつ耳を澄ませると、キッチンからカタカタと食器の音が聞こえる。
「え?」
寝ぼけ眼でリビングに出ると、そこにはエプロンを身にまとった玉藻の姿があった。
「通久様、おはようございます」振り返った彼女の頬はほんのり桜色に染まり、黒髪が肩に落ちる。その姿は、まるでどこかの新妻のようにも見えた。
「た、玉藻……その格好……」
「はい。私、通久様に恩返しをしようと考えました。まずは日々の暮らしを整えることから始めるべきかと。」そう言って彼女は再びフライパンに向き合い、卵を割る。ぎこちない手つきながら、真剣そのものだ。
「いや、その……ありがたいけど、無理しなくても」
「無理などしておりません。これくらい、きっとすぐに上達いたします」
玉藻の言葉は力強く、彼女なりの決意が込められていた。昨夜悩みながら眠った通久は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
――私が彼女を守るだけじゃない。玉藻も私を支えようとしてくれている。
そのことが、これから迎える日々を少しだけ心強く思わせた。
それから一週間。新しい日々はあっという間に過ぎ、ついに初出勤の朝が訪れた。スーツに袖を通し、鏡の前でネクタイを整える通久は、胸の奥が高鳴っているのを抑えきれなかった。
「……よし」靴を履き、鞄を手にしたところで、背後から静かな声が響く。
「通久様」振り返ると、玉藻が廊下に立っていた。黒髪をきちんと結び、真剣な眼差しを向けている。その気配は普段の柔らかさとは違い、妖としての厳かな響きを帯びていた。
「今日から新たな道を歩まれるあなた様に、一つ忠告を差し上げます」
「忠告?」
玉藻は一歩進み、両手を胸の前で組んだ。
「妖には、わたくしのように人と寄り添うものもいれば、恨みや妬みを抱え、不幸をもたらすものもおります。日常の中で異変を感じることがあれば――“狐の窓”を作り、覗き込んでください。」
「狐の窓……?」通久が眉をひそめると、玉藻は自らの指を軽やかに組み合わせ、指で小さな枠をつくってみせる。
「こうして指で窓を形づくり、片目で覗くのです。そうすれば、普段の目では見えぬものが見えるでしょう。」
通久は真剣に頷いた。だが、玉藻はすぐに続ける。
「ただし――除きすぎてはなりません。窓から見るということは、向こうもこちらを覗き返すということ。長く視線を交わすほど、境は近づき、危うくなるのです。」その声音には確かな警告の色があった。
通久は深く息をつき、頷いた。「わかった。必要なときだけ……だな」
「はい。どうかご用心を」
玉藻は微笑みを戻し、そっと彼の袖を直した。通久は小さな緊張と大きな責任を胸に、初出勤の一歩を踏み出した。
朝の空気はまだ冷たく、吐く息が白く溶けてゆく。通久は玄関で深く一礼し、玉藻の見送りを受けて外へ出た。
「じゃあ、行ってきます。」
「どうかご無事で……」玉藻の声が背に残り、彼は小さな緊張を胸に歩き出す。
町並みは見慣れた景色だった。石畳の歩道、開店準備をする商店、通学路を駆けていく制服姿の学生。いつもと同じ朝のはずなのに、今日は世界が少し違って見えた。新しい社会人としての一歩を踏み出すこと、その責任が足取りを重くも軽くもさせている。
最寄り駅に着くと、ホームには通勤客がひしめいていた。肩を寄せ合う群衆に混じり、通久は吊革を握る。揺れる電車の窓に映る自分の姿は、見慣れた学生の頃とは違う。黒いスーツに身を包み、固く結んだネクタイ。自分でも少し大人びて見えた。
電車はやがて都会の中心へと滑り込み、車内から吐き出された人波の中で、通久は会社のビルへと足を運んだ。ガラス張りの正面玄関は朝日に反射し、眩しく輝いている。
受付には一人の女性が立っていた。清楚な制服に身を包み、微笑を浮かべて来客を迎える姿は、一見してごく普通に見える。
「おはようございます。本日からご入社の浜西様ですね?」
「はい。よろしくお願いします」澄んだ声に導かれ、通久は案内を受けてエレベーターに乗った。
――だが。
ほんの一瞬、胸の奥に妙なざわめきが走った。
(今の人……笑みの端が、少し……)
玉藻の忠告が脳裏をよぎる。狐の窓。
昼休憩を迎える頃だった。オフィスの空気は慌ただしいが、業務説明を終えた通久はふと窓際に立ち、深呼吸をした。名刺の扱い方、社内システムの使い方、報告・連絡・相談の徹底。すべてが新鮮で、頭は熱を帯びている。だが、それ以上に胸を占めるのは朝の受付嬢の顔だった。
「……試してみるか」通久は人目を避け、両手で小さな窓を作る。指の隙間から片目で覗くと――そこに広がる世界は、ぞくりとするほど歪んでいた。
受付のカウンターの向こう。そこに立つ女性の顔が、裂けていた。口元が耳元まで割れ、血のような赤が覗いている。それでも彼女は平然と笑みを浮かべ、社員たちを迎え入れている。
心臓が大きく脈打つ。思わず窓を閉じ、息を詰める。
(あれが……口裂け女……)
通久は顔を取り繕い、何事もなかったかのように一日を過ごした。パソコンの操作説明を受け、先輩社員と打ち合わせをし、名刺を配られ、昼を共に食べる。すべてが新鮮で、すべてが緊張の連続だった。だが、意識の端には常に、受付に立つ女の裂けた口元が貼り付いて離れなかった。




