第7話 火のないところに立つ煙
時は過去に戻って、数ヶ月前の4月。1学期のはじめ。
北川高校の空気には、まだ新しい靴や鞄の匂いと、遠慮がちな笑い声が混じっていた。
クラスで最初に目立ったのは、ふたりの女子だった。
楢崎 夢咲と矢入 美月。
ふたりは、幼馴染なのだという。染めた明るい髪色に、爪には小さなラメが光る。ピアスにアクセ、ゆるく制服も着崩していた。
彼女たちの笑い声はよく通り、廊下まで届いた。「中学のころからギャル」だと自己紹介し、担任を苦笑させた。その無邪気な明るさは、同時に、クラスメートの意識をざわつかせた。
人間は、しばしば「火のないところに、煙を立てる」。誰かの「かもしれない」が、次の休み時間には「らしいよ」に変わる。それが放課後には「だった」に着地する。
夢咲の遅刻は「夜遊びだった」に、美月が購買の列に割り込まれた日は「彼氏と喧嘩してた」に。
火のないところに立つ煙が、灰となって、夢咲と美月のまわりに積もっていた。
一方、七海には、学年を超えて男子たちからの注目が集まっていた。告白されたり、軽くストーカーされたりしていた。
それがきっかけで、七海は、これまでと同じように、学校中の女子から「うとまれる」ようになった。
「先輩の彼氏を奪ったらしい」「こわい人と付き合ってるらしい」「子どもがいるらしい」といった具合。夢咲と美月とは違う形で、七海の周辺にも、モウモウと煙が立っていた。
——しかし、そこに、火などなかった。
◇
4月末の身体測定。
夢咲は、列の最後尾で、保険係の生徒に「ありがとー、助かる」と礼を言っていた。美月は列が蛇行すると、並びをなおしていた。
それでも、夢咲と美月に向けられるクラスメートたちの視線は、冷たかった。「化粧、濃くない?」「あのふたり、尻軽でしょ」「中学でも問題児だったって」。そんなささやきが、七海の耳元をかすめていた。
◇
5月の係決め。
学級委員、図書委員、美化委員などと書かれた「マグネットの札」が黒板に貼られ、誰もが顔を見合わせる。沈黙が続く中
夢咲「じゃあ、ポスター描くの得意だから広報委員やるよ」
美月「私、夢咲と一緒に、デザインやりたい」
教室の空気は、一瞬、和らぐ。
けれど、すぐに誰かが笑い混じりに「また目立つほうへ行くんだ」「そんななりで、点数稼ぎかよ」と。和らいだ空気は、すぐにしぼんだ。
◇
ある日の昼休み。
七海は一人、教室の隅で弁当箱を開く。アルミのふたに映る蛍光灯の白が、少し心細い。
ふと窓の外を見ると、渡り廊下のベンチに、夢咲と美月が肩を寄せて座っていた。
ひとつのおにぎりを半分に割って、分け合い、笑っていた。遠くから、窓越しでも伝わる、彼女たちの暖かい笑いは、子どもの頃からきっと変わらないのだろう。
でも。そこを通りすぎる女子たちが、わざとらしく夢咲たちから、視線をそらした。
煙は、その日も立っていた。
——火は、どこにもないのに。
◇
放課後のホームルーム。
プリントの束を、担任が配っていた。プリントが七海の机に届くのは、いつも最後だ。グループチャットの告知がまた、そのプリントの1枚として配られていた。
担任「グルチャ、まだ入ってない人は、だれかに招待してもらってね」
七海は、経済的な事情から、スマホを持っていない。LINEの交換に応じられない七海は、いやでも、その事実をクラスメートに知られていた。
前の席の女子が、振り向く。七海の机の上、QRコードの書かれたプリントを「ちらり」とみて、何も言わずに正面を向いた。
七海は首を振るでも、頷くでもなく、ただ、翌週の予定をノートに書き写した。
◇
その翌週。避難訓練の日。
校舎の階段に、音の割れた警報が響く。列を乱す声がいくつか上がり、笑い声が混じる。夢咲はふざけた男子のリュックをぐい、と前に押し出し
夢咲「ほら、進むよ。防災関連は、ガチでやっとけ。いざってとき、死ぬぞ」
美月は、しゃがみ込んでいた女子に「大丈夫?」と優しく声をかけていた。教師に事情を話し、避難訓練の最中、その女子を保健室に連れていった。
そんな、「ほんとうの夢咲と美月」をみていたのは、ごく少数だった。多くは、ふたりの頭上に上がる煙ばかりを気にしていた。
◇
6月、校外学習。行き先は、市内の科学館だった。
バスの座席は自由。列の前から「仲良し同士」で埋まった。夢咲と美月は、最後部にふたり、一緒に腰を下ろした。
七海は、バスの乗車口近くで所在なく立ち尽くしていた。そして最後の最後、七海は、補助イスを倒して、ひとりで座った。
科学館の広いホール。
クラスは3、4人ごとのグループに分かれて館内を回るよう、指示されていた。グループ毎に、後で「学習したこと」をポスターにし、発表せよとのことだった。
A〜Gグループまで。それぞれのグループに、個人の名前を書き込む時間。
夢咲と美月の名前が書かれていたグループには、他の生徒の名前はなかった。最低でも、3人でグループを作るよう言われていたのに。
七海は、そのグループに、迷いなく「藤咲 七海」と名前を書いた。
書き終わって
七海「私も、いい?」
夢咲は、少し驚いてみせ、次いで笑った。
夢咲「もちろん。助かるー」
美月は、視線を七海から名簿へ、名簿から周囲へと滑らせ、それから肩をすくめた。
美月「わたしたちと一緒にいると、他の女子から嫌われるよ?」
七海は、首を横に振った。小さいけれど、よく届く、芯のある声で
七海「女子から好かれたことなんてない」
短い沈黙。夢咲たちが、視線を交わした。夢咲が噴き出した。
愛咲「なにそれ、こわ! いいね!」
美月は口角だけで笑い、
美月「あなた、肝、すわってるのね」
それから、この3人で展示を見て回った。
夢咲は体験型の装置に真っ先に手を伸ばし、プラズマボールに触れた。そして「髪、立ってる?」と笑って七海に聞く。
美月は説明パネルを丁寧に読み、要点を七海に伝えた。七海は、色々と質問をしつつ、それをノートに書き留めた。
鉱物のコーナーで、夢咲が七海の袖を引く。
夢咲「これ、いい。七海、あんた、ほんとに『いい奴』だから、ぜったい似合う」
七海は、首を傾げた。
七海「鉱石が、似合う?」
夢咲「うん。こういう、『光』が中にあるやつ」
美月「それ、蛍光鉱物だって。紫外線当てると光る」
夢咲「きっと七海には、紫外線が出てる彼氏が必要だな!」
七海は小さく笑った。そのときの七海には、夢咲が言っている意味がわからなかった。
◇
科学館での、昼食の時間。3人は、屋上のテラスにいた。
夢咲「七海、卵焼き、ひとつもらっていい?」
七海「いいよ」
美月「代わりに、うちのハンバーグあげる」
この「おかず交換」が、七海には、とても嬉しかった。七海にとって、これが初めての「おかず交換」だった。
風で紙ナプキンが転がり、3人でそれを追いかけて笑った。
その笑い声に、他のテーブルにいたグループから、一瞬だけ視線が集まった。
煙は、まだ立っている。けれど、七海、夢咲と美月、この3人の間には、煙ではなく、確かな火が灯り始めていた。
まだ小さいけれど、暖かい「ほんとうの火」が。
◇
午後のワークショップ。グループごとに、科学館で学習したことを、ポスターにまとめる。
夢咲はペンを握ると、迷いなく線を引いていく。美月は、七海のノートをみながら、夢咲に、ポスターの中身を短い言葉で提案していた。
七海にはやることがなく、手持ち無沙汰になった。
美月「ここは、私たちに任せていいから。七海は、遠くからみてどうか、確認よろしく」
夢咲「七海。気にすんなよ。私らは、こういうの、大好物なんだ!」
◇
帰りのバスは、行きのバスよりも大型だった。それで、席数に余裕があった。
七海は、通路をはさんで夢咲の隣に座った。美月は後ろの席からふたりの肩越しに話しかけた。
窓の外には、住宅街の屋根が流れていた。
美月「さっきのプラネタリウム。寝てたでしょ、夢咲」
夢咲「星の気持ちになってた」
美月「それを世間では寝てたって言うんだよ」
七海は小さく笑う。
その笑いのあと、ふと七海は、窓に映る自分の顔を見た。そこには、見慣れない表情があった。「ほんとうに嬉しそうな笑顔」が。
学校に戻るとすぐ、引率の教員から「解散」の号令があった。
昇降口で靴を履き替えながら、夢咲が七海の肩を軽く小突いた。
夢咲「帰り、駅まで一緒に行こ。あんたがよく、チャラいのにからまれてるの、知ってるし。変なのいたら、うちらが前に出るからさ」
美月「商店街を抜けるところまでは、ガラの良くない連中も多いからね。そこからは七海、どっか行かなきゃなんでしょ?」
夢咲と美月は、すでに七海の事情をある程度、把握していた。これまで、話したこともなかったのに。
七海は小さくうなずいた。嬉しかった。
◇
その翌週、1年B組の「小さな政治」を固める事件が起きた。
クラスの掲示板には、文化祭の準備に向けたアンケートが貼り出されていた。
夢咲と美月は、広報委員として、試しのポスターを数枚、作ってきていた。黒板にマグネットで貼られたそのポスターは、どれも素人とは思えない出来だった。
生徒A「ギャルのくせに、やるじゃん」
その発言に、七海の視線がすっと上がり、黒曜石みたいに光る。
七海は、ガタと音を立て、立ち上がる。クラスメートたちの目線が、七海に集中した。
それから七海は、周囲にそれとわかるよう、あからさまに首をかたむけてみせ
七海「くせに?」
沈黙。
七海「謝って」
生徒A「なに?」
七海「『ギャルのくせに』って、なに?」
七海は、微笑んでいた。
誰もみたことのないほど整った七海の微笑みは、相手から体温を奪った。そこには、一切の甘さが、感じられなかった。相手に、退路などなかった。
長い沈黙。
生徒A「悪かったよ」
七海「きちんと、謝りなさい」
生徒A「申し訳……ありませんでした……」
火がなければ、煙は続かない。「ほんとうの火」は、煙に負けたりしない。
七海、夢咲と美月。3人の火は大きくなり、少しずつ、クラスの空気を暖めていった。
春に開幕した「小さな政治」争いは、こうして、夏までには決着していた。
◇
いつものように、商店街を抜けたところで別れるとき
夢咲「LINEなくてもさ、家電にかけるから」
美月「グルチャで連絡あったら、私も家電にかけるから心配しないで」
七海は「うん」とだけ答えた。
七海はそうして、生まれてはじめて「友だちと呼べそうな他人」に、自宅の電話番号を教えた。