第6話 はじめて読む論文
終礼のチャイムが鳴り終わる。
放課後。
教室のざわめきが、ゆるやかに薄まっていく。
七海はこのあと、また夢咲と美月に「護衛」され、商店街を抜け、保育園に向かう。
夢咲「七海、行くよー」
夢咲がいつもの調子で、声をかける。
七海は、机の中にある教科書を取ろうとした。そのとき、指先がA4の紙の角に触れる。
不審に思いつつ、引き出す。見慣れない、10ページほどの紙の束。論文だった。英語の細かい文字が並んでいる。表紙の右上には、黄色い付箋が貼られていた。
『おせっかい。でも、よかったら』
書かれているのは、それだけ。だが七海には、その字が誰のものか、すぐにわかった。生物の答案用紙で、みたことがあったから。
——御影くんだ!
七海の心臓が小さく跳ねる。
夢咲たちにみつからないよう、七海はその論文を、そっと鞄へ滑り込ませた。
(One’s Better Half: Romantic Partners Function as Social Signals.)
——英語の論文。どうして、私に?
七海は表情を整えて、顔を上げる。顔が、少し赤く染まっている。
美月「七海?」
美月が首をかしげる。こういうことに敏感なのは、普段なら、ありがたい。けれど、いまは困る。七海は笑ってみせ
七海「うん、行こ」
◇
商店街の道のり。
夢咲と美月は、いつものように七海の左右を歩き、七海を守る。
揚げたてコロッケの匂い、野菜売り場のシャッという袋の音。そこに、ガチャガチャのカプセルが転がる音が混じる。
夢咲「あの焼き鳥、今度、食べてみようよー」
美月「あ、あそこの雑貨屋、新作のヘアピン出してたよ」
商店街の終わりで、3人が足をとめる。
美月「ここからは一人で行ける?」
七海「いける。ありがとう」
夢咲「変なのいたら、すぐ、戻っておいで!」
七海はうなずく。七海は、大切なふたりと別れ、人波をコソコソと抜けていく。
◇
夕方の保育園前は、お迎えで、にぎやか。七海が受付で名前を告げていると、妹の美香がパタパタと走ってきて、七海の腕に飛びつく。
美香「ねえね!」
七海「さ、帰ろう!」
スーパーで手早く買い物を終え、アパートに入る。六畳の空気が、ひんやりしていた。
いつもなら、郵便物を確認しながら、チラシの要・不要を選別する。だが今日の七海は、郵便物を確認しない。特売のチラシも、探さない。
七海は、鞄から「あの論文」を取り出した。使い込まれた英和辞典と、ノートも取り出す。
論文の表紙をめくる。
冒頭には太い見出しと、見慣れない単語の列。
付箋に書かれた『おせっかい。でも、よかったら』が、七海の背中を押した。
七海は、単語を拾って意味を組み立てていく。
(romantic partners / function / as / social signals)
“魅力的なパートナーは、社会的なシグナルとして機能する”
タイトルだけでは、意味が、わからない。とにかく、先に進む。
男性参加者、魅力度の評価、他者の視線、誇示、自慢。
七海はノートに、日本語で、「論文の断片」を走り書きする。
その断片が、徐々に、はっきりとした「文」になっていく。
七海「男性は、魅力的な女性を、『高級腕時計や高級車と同じように』、自分の社会的地位を『自慢するためのモノ』として扱う」
七海の中のどこか、固く閉ざされていた箱の鍵穴に、ぴたりとはまった。
——ああ、これだ
七海が男性を「こわい」と感じるようになったのは、いつからだろう。
知らない男性に「モデルさんみたいだね」と後ろから肩をつかまれたとき?
勝手に撮影された自分の写真が、アダルトサイトで販売されているのを知ったとき?
告白してきた相手が、告白の理由を「仲間に自慢できるから」と言ったとき?
思い出す光景のどれもが、男性からの「いやらしい視線」でいっぱいだった。
「七海」をみているのに、「七海」をみていない。そこにある「強すぎる関心」は、少しも、「七海の内面」には向かっていなかった。
顔、髪、胸、尻、太もも、足、腕、肌、スカート、リボン、靴下——
確かに、七海には、自分が男性から「モノ」として値踏みされている感覚があった。
そして七海は、わかった。
自分が怯えていたのは、自分が、ほんとうに、「モノにされてしまう未来」だ。高級腕時計や高級車のように、他の誰かに「自慢するためだけのモノ」に変えられてしまうことだ。
七海の指先が、論文の端をふるわせる。視界がにじみ、文字が溶けていく。
美香「ねえね、ないてるの?」
ひかえめな足音で近づいてきた妹の美香が、ティッシュを1枚、差し出した。
小さな手で、まっすぐ。
七海「だいじょうぶ。ちょっと、わかったことがあって」
これ以上、言葉にすると、涙がこぼれそう。七海は、しばらく黙り込んだ。
美香「ねえね、プリンたべよ?」
美香が、冷蔵庫からプリンのカップを持ってくる。七海は小さく笑って、「こくり」とうなずく。
七海のことを「モノではなく、人間としてみる優しさ」も、こうして存在する。七海の気持ちが、ひと段落した。
七海は、論文を、冒頭から読みなおした。
夢咲と美月が、七海の体調を気にし、顔色の微妙な変化にまで気づいてくれること。商店街で、男性からの視線を遮ってくれること。「好きな人、できた?」「なんの本読んでるの?」「どこのスーパー使ってるの?」と、人間としての七海に、いつも関心を向けてくれること。
——自分は、夢咲と美月に、救われている。
そして、亡くなった父が、いかに七海にとって大切な存在だったか。七海を、決して、「モノ」としてみない、唯一の男性。七海は、改めてそう理解する。
今度は、暖かい涙が止まらなくなる。
頬から顎へ、涙がスローモーションのように伝って落ちていく。
七海は、机から、黄色い付箋を取り出す。そこに
『おせっかい、嬉しかった』
と書き、その付箋を論文の端に貼り付ける。
——明日、御影くんに、返そう
論文を返す。
その一瞬だけでも、七海は、御影にとって「モノとしての七海」ではなく、「人間としての七海」でありたいと、強く、強く、願った。
七海は論文を閉じ、深く息を吸う。灰色にみえていた世界が、少しずつ、変わっていく。
——御影くんのこと、知りたい。
第6話、やっと論文の登場です。ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。
さて。
論文は、統計的な事実を扱います。しかし統計的事実は、あくまで、平均的な傾向を示すにすぎません。とはいえ平均的な傾向は、物事を考えるときの足場となっていくのです。
引き続き、よろしくお願い致します。
参考文献;
・Winegard, B., Winegard, B., Reynolds, T., Geary, D. C., & Baumeister, R. F. (2017). One’s Better Half: Romantic Partners Function as Social Signals. Evolutionary Psychological Science, 3, 294–305.




