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第6話 はじめて読む論文

 終礼のチャイムが鳴り終わる。


 放課後。


 教室のざわめきが、ゆるやかに(うす)まっていく。


 七海(ななみ)はこのあと、また夢咲(ゆめか)美月(みつき)に「護衛(ごえい)」され、商店街を抜け、保育園に向かう。


夢咲「七海、行くよー」


 夢咲がいつもの調子で、声をかける。


 七海は、机の中にある教科書を取ろうとした。そのとき、指先がA4の紙の角に触れる。


 不審(ふしん)に思いつつ、引き出す。見慣れない、10ページほどの紙の束。論文だった。英語の細かい文字が並んでいる。表紙の右上には、黄色い付箋(ふせん)が貼られていた。


『おせっかい。でも、よかったら』


 書かれているのは、それだけ。だが七海には、その字が誰のものか、すぐにわかった。生物の答案用紙で、みたことがあったから。


——御影(みかげ)くんだ!


 七海の心臓が小さく跳ねる。


 夢咲(ゆめか)たちにみつからないよう、七海はその論文を、そっと(かばん)(すべ)り込ませた。


(One’s Better Half: Romantic Partners Function as Social Signals.)


——英語の論文。どうして、私に?


 七海(ななみ)は表情を整えて、顔を上げる。顔が、少し赤く染まっている。


美月「七海?」


 美月(みつき)が首をかしげる。こういうことに敏感なのは、普段なら、ありがたい。けれど、いまは困る。七海は笑ってみせ


七海「うん、行こ」



 商店街の道のり。


 夢咲(ゆめか)美月(みつき)は、いつものように七海の左右を歩き、七海を守る。


 ()げたてコロッケの匂い、野菜売り場のシャッという袋の音。そこに、ガチャガチャのカプセルが転がる音が混じる。


夢咲「あの焼き鳥、今度、食べてみようよー」


美月「あ、あそこの雑貨屋、新作のヘアピン出してたよ」


 商店街の終わりで、3人が足をとめる。


美月「ここからは一人で行ける?」


七海「いける。ありがとう」


夢咲「変なのいたら、すぐ、戻っておいで!」


 七海(ななみ)はうなずく。七海は、大切なふたりと別れ、人波をコソコソと抜けていく。



 夕方の保育園前は、お(むか)えで、にぎやか。七海が受付で名前を告げていると、妹の美香(みか)がパタパタと走ってきて、七海の腕に飛びつく。


美香「ねえね!」


七海「さ、帰ろう!」


 スーパーで手早く買い物を終え、アパートに入る。六畳の空気が、ひんやりしていた。


 いつもなら、郵便物を確認しながら、チラシの要・不要を選別する。だが今日の七海は、郵便物を確認しない。特売のチラシも、探さない。


 七海は、(かばん)から「あの論文」を取り出した。使い込まれた英和辞典と、ノートも取り出す。


 論文の表紙をめくる。


 冒頭には太い見出しと、見慣れない単語の列。


 付箋に書かれた『おせっかい。でも、よかったら』が、七海の背中を押した。


 七海は、単語を拾って意味を組み立てていく。


(romantic partners / function / as / social signals)


“魅力的なパートナーは、社会的なシグナルとして機能する”


 タイトルだけでは、意味が、わからない。とにかく、先に進む。


 男性参加者、魅力度の評価、他者の視線、誇示、自慢。


 七海はノートに、日本語で、「論文の断片」を走り書きする。


 その断片が、徐々に、はっきりとした「文」になっていく。


七海「男性は、魅力的な女性を、『高級腕時計や高級車と同じように』、自分の社会的地位を『自慢するためのモノ』として(あつか)う」


 七海の中のどこか、固く閉ざされていた箱の鍵穴に、ぴたりとはまった。


——ああ、これだ


 七海(ななみ)が男性を「こわい」と感じるようになったのは、いつからだろう。


 知らない男性に「モデルさんみたいだね」と後ろから肩をつかまれたとき?

 勝手に撮影された自分の写真が、アダルトサイトで販売されているのを知ったとき?

 告白してきた相手が、告白の理由を「仲間に自慢できるから」と言ったとき?


 思い出す光景のどれもが、男性からの「いやらしい視線」でいっぱいだった。


「七海」をみているのに、「七海」をみていない。そこにある「強すぎる関心」は、少しも、「七海の内面」には向かっていなかった。


 顔、髪、胸、尻、太もも、足、腕、肌、スカート、リボン、靴下——


 確かに、七海には、自分が男性から「モノ」として値踏(ねぶ)みされている感覚があった。


 そして七海は、わかった。


 自分が怯えていたのは、自分が、ほんとうに、「モノにされてしまう未来」だ。高級腕時計や高級車のように、他の誰かに「自慢するためだけのモノ」に変えられてしまうことだ。


 七海(ななみ)の指先が、論文の(はし)をふるわせる。視界がにじみ、文字が溶けていく。


美香「ねえね、ないてるの?」


 ひかえめな足音で近づいてきた妹の美香が、ティッシュを1枚、差し出した。


 小さな手で、まっすぐ。


七海「だいじょうぶ。ちょっと、わかったことがあって」


 これ以上、言葉にすると、涙がこぼれそう。七海は、しばらく黙り込んだ。


美香「ねえね、プリンたべよ?」


 美香が、冷蔵庫からプリンのカップを持ってくる。七海は小さく笑って、「こくり」とうなずく。


 七海のことを「モノではなく、人間としてみる優しさ」も、こうして存在する。七海の気持ちが、ひと段落した。


 七海は、論文を、冒頭から読みなおした。


 夢咲(ゆめか)美月(みつき)が、七海の体調を気にし、顔色の微妙な変化にまで気づいてくれること。商店街で、男性からの視線を(さえぎ)ってくれること。「好きな人、できた?」「なんの本読んでるの?」「どこのスーパー使ってるの?」と、人間としての七海に、いつも関心を向けてくれること。


——自分は、夢咲と美月に、救われている。


 そして、亡くなった父が、いかに七海にとって大切な存在だったか。七海を、決して、「モノ」としてみない、唯一の男性。七海は、改めてそう理解する。


 今度は、暖かい涙が止まらなくなる。


 (ほほ)から(あご)へ、涙がスローモーションのように伝って落ちていく。


 七海は、机から、黄色い付箋を取り出す。そこに


『おせっかい、嬉しかった』


 と書き、その付箋を論文の端に貼り付ける。


——明日、御影(みかげ)くんに、返そう


 論文を返す。


 その一瞬だけでも、七海は、御影(みかげ)にとって「モノとしての七海」ではなく、「人間としての七海」でありたいと、強く、強く、願った。


 七海は論文を閉じ、深く息を吸う。灰色にみえていた世界が、少しずつ、変わっていく。


——御影くんのこと、知りたい。

第6話、やっと論文の登場です。ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。


少しでも、読めるところがあったなら、是非とも☆評価をお願いしたいです。執筆の励みになると同時に、明日もまた頑張っていこうという気持ちになります。


さて。


論文は、統計的な事実を扱います。しかし統計的事実は、あくまで、平均的な傾向を示すにすぎません。とはいえ平均的な傾向は、物事を考えるときの足場となっていくのです。


引き続き、よろしくお願い致します。


参考文献;

・Winegard, B., Winegard, B., Reynolds, T., Geary, D. C., & Baumeister, R. F. (2017). One’s Better Half: Romantic Partners Function as Social Signals. Evolutionary Psychological Science, 3, 294–305.

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― 新着の感想 ―
“論文”が七海にどんな変化を与えるのか楽しみです。
6話まで読ませていただきました。 繊細で好きな描写もたくさんありました。 お話の続きもかなり気になっています。 書籍化作家様へ私なんかの意見を伝える必要ないと思いますが、個人的に感じたことを挙げさせ…
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