14.ライラー3
幸せになれるはずだった。
――君は強いから、一人でも生きて行けるだろう?
あざ笑うかのように残された一文に、涙が込み上げてきた。
人の目を盗むようにファルクと二人で旅客船に乗り、異国へ渡った。港町の宿屋で荷を解き、明日から始まる新しい人生への希望に胸を躍らせながら、二人で祝杯を上げた。
酒は強いほうだったから、酔いが回ったのは船酔いの影響だろうと思っていた。昼過ぎに目が覚めた時、ファルクと彼の荷物が消えているのに気付くまでは。
訳が分からなかった。何故、自分がこんな目に遭うのか。
一人で生きていけるだと? そんなこと、異国に一人置き去りにされる理由にはならない。
最初から、騙すつもりだったのか。それとも、この旅の間にファルクの情熱が冷めてしまうような行動を取ってしまったのか。
絶望し、涙を流し続けても、答えは出て来なかった。
泣いて泣いて、ようやく我に返った時には、日はとっくに沈んでいた。
全てをファルクに頼り切っていた為、私の所持金はさほど多くはない。
裏切られた、捨てられたと嘆いている場合ではない。とにかく、生きていく為の術を探さなければ。
涙で滲んだ置手紙を握り締める。
そこに書かれていた言葉通り、私は強かった。異国に一人取り残されても、生きていけるほどに。
幸い、そこは言葉の通じる異国だった。
街のギルドへ向かい、そこで用心棒の仕事を紹介して貰った。荒くれ者たちと渡り合い、商人の護衛として強盗や海賊と戦い、時に商会の一員として接客もする。これまでの人生経験が事ある毎に役に立ち、私はいつしか充実感を覚えるようになっていた。
私を用心棒として雇ったのはこの国でも豪商と言われるドネルという人物で、私は見た目と仕事ぶりが評価されて気に入られ、重用されるようになった。
詳しい事情は話さなかったが、私が祖国に帰り辛い立場だということを、ドネルは承知してくれていた。だから、商談で祖国へ渡る際には、私を護衛から外してくれていた。
そして、ファルクに裏切られてから三年後。ドネルは私に、護衛として祖国に渡ることを命じた。
「何があったか聞き出すつもりはないが、命を取られるというのでなければ、いつまでも過去を引きずって嫌がられていては困る」
ドネルにそう言われたら、従わない訳にはいかない。
船がステイフォート伯爵領の港町に入港する。そこは、三年の間に驚くほどの変貌を遂げていた。
大都会のように林立する建物。各社の支社が事務所を構え、往来には人が溢れ返り、荷がひっきりなしに積み下ろしされている。高級感のある宿屋から出てきた身形のいい一団が、談笑しながら大型の客船に乗船している。
私はドネルを予約していた宿に送り届けると、彼の到着を支所に伝えるべく人混みの中を歩いていた。
「ああ、領主様が視察にいらっしゃったぞ」
歓声が上がり、思わず振り返った。
ほんの少しだけ恰幅が良くなり、洗練された着こなしが板についたブライアンが、人垣の向こうにいる。馬車から降り立った彼は、気遣うように後ろを振り返ると、馬車の中に手を伸ばした。
「何と。今日は奥様とお嬢様もご一緒か」
感嘆の声を上げる人々の声に、頭を殴られたような気がした。
ブライアンの首にしがみ付いている、ようやく歩き始めたばかりの頃のように見えるまだ幼い女の子。その後ろから降りてきたのは、美しい貴婦人。以前とは考えられないほど自信に満ち、輝くような笑顔を浮かべているアンネローゼ様。
風の噂に、ステイフォート伯爵に子が生まれたことは聞いていた。けれど、これほどあからさまに幸せそうな家族の姿を見せつけられて、心にさざ波が立たない訳がない。
呆然としながら彼らの姿を食い入るように見つめていると、私の肩に手が置かれた。振り向くと、そこには見知った顔の男が立っていた。
「少し話をしよう」
私は向き直って手を振り払い、丁重に一礼をする。
「私は護衛です。雇い主の傍を勝手に離れる訳にはいかない」
そう告げると、彼は口元に笑みを浮かべた。
「ドネルの許可は取ってある。だから、行こう」
いつの間にか、私は数人の男に取り囲まれていた。
力ずくで抗うこともできる。騒ぎを起こしてブライアンに気付いて貰えれば、助けてくれるかも知れない。
……誰を誰が? 彼を裏切った私を、彼が助けてくれる?
私は首を一つ横に振ると、握り締めていた腰の剣の柄から手を放した。
その男は、ルークといった。モリス商会の重役で、アンネローゼ様の従兄だ。ステイフォート伯爵家の屋敷を頻繁に訪れていた人物で、従僕としてブライアンに同行していた際にも何度か顔を合わせたことがある。ただ、こうやって面と向かって話をするのは初めてだった。
この港町にあるモリス商会の支所らしき建物の一室に通され、私とルークは向かい合って座った。
彼は普段の爽やかな印象の表情からは想像できない悪人めいた笑みを浮かべながら、懐から一通の手紙を取り出して差し出してきた。それを見た瞬間、私は驚きの余り声も出なかった。
それは、私がブライアンに書き残していったはずの置手紙だった。
「残念ながら、ブライアンはその手紙を読んではいないよ」
私は、全身から汗が噴き出すのを感じた。何故、ルークがこの手紙を持っているのか。第一発見者であるはずのブライアンが、何故この手紙を読まずに、この男に渡したりなどしたのか。
そして、彼の口から語られたのは、周到に練られた計画だった。私は、自分が彼の掌の上で踊らされていたことを初めて知った。
全て、彼の仕業だった。ファルクはルークの指示で、私をブライアンから引き離す為に誘惑した。彼は、私のことなど全く愛してなどいなかったのだ。
そして、私が残した置手紙は、ブライアンの手に渡る前に、私達が去った別宅にやってきたルークの手に渡った。彼は、何も言わずに消えた私のことを、他の男と逃げたのだとブライアンに吹き込んだ。
例え置手紙を読んでいたとしても、ブライアンは傷付いただろう。けれど、その手紙すらなかったことで、きっとブライアンは周囲から言われる通り、私が彼に愛想を尽かして別の男と駆け落ちしたという話を鵜呑みにするしかなかった。
騙された、謀られた。いくら私が憎いからと言って、ここまでするか……!
「アンネローゼは優しいからね」
怒りに拳を震わせる私に、ルークは突然不可解なことを言った。
「彼女は、君が不幸になることを望む子じゃない。寧ろ、君が不幸になったら、それを気に病むだろう。だから、あの程度にしておいたんだ。私としては、もっとずっと厳しい罰を考えていたのだけれどね。例えば、言葉が通じない国に置き去りにしても良かった。身ぐるみ剥いで、人身売買の闇業者に売り飛ばしても良かったんだよ」
その目を見てゾッとした。この男は本気だ。例え、今からでもそれをやろうと思えばやる。そんな薄ら寒い光を湛えていた。
「でも、アンネローゼに確かめたら、やっぱり君に幸せになって欲しいと言うんだ。だから、私も協力するしかなかったんだよ」
薄ら笑いを浮かべたルークは、小さく顎をしゃくった。傍にいた男が歩いて行ってドアが開くと、そこには一人の青年が立っていた。
「姉さん」
そう小さく呟いたのは弟だった。
弟は、官吏の制服を身に纏っていた。ルークに促されて私の隣に腰掛けた弟は、まるで反抗的な子供に言い聞かせるように私に語った。
ルークの支援を受けて学校を卒業し、無事官吏に合格できたこと。妹も、モリス商会系列の会社に就職できたこと。今は二人で、充分両親と生活できていること。
ドネルに雇われた時、私は彼に、故郷にいる家族に送金したいと申し出た。彼は応じてくれたが、私が出来る範囲ではとても弟の学費を賄うことはできない額しか用立てることはできなかった。だから、まさか弟が官吏になることができたとは思いもよらなかった。手紙で弟がそういった事情を書いて寄越さなかったのは、ルークに口止めされていたからだという。
モリス商会は今や平民にとって花形の就職先で、そう簡単に雇ってもらうことができない。つまり、弟だけではなく、妹もルークに助けられたのだ。
私は、自分の人生の不幸をアンネローゼ様に責任転嫁して恨み続け、彼女を深く傷つけ続けていたというのに。
「君は、今の生活に何か不満はあるかい?」
そう問われてこれまでの三年間を振り返ってみても、何の不満も思い浮かばなかった。
ドネルは、女だからと私を差別することも、厭らしい目で見ることもなく、実力を評価してくれる。同僚たちも気さくでいいヤツらばかりだ。時に意見が対立して腹立たしい思いをすることはあっても、以前のように黒々しい感情に飲み込まれるような感覚を味わうようなことはなかった。
「ドネルとは、もう十年来の付き合いでね」
ルークは、ドネルの名前を親しげに口にした。
私がドネルに雇われたことさえ、全てルークの思惑通りだったのだと知り、私は完全に降参した。
きっと、アンネローゼ様が私に不幸になって欲しいと願っていたなら、私はどんな目に遭っていたか分からない。どれほど私が強くても、生きていられなかったかも知れない苦境に立たされていたことだろう。
「君が新しい人生を生き、新しい幸せを見つけるというのなら、これからも温かく見守るよ。けれど、ブライアンとアンネローゼの前に現れて、せっかく寄り添った二人の心を乱すようなことがあれば、私は君を決して許さない」
にこやかに微笑みながらも、人を殺せそうな視線で、ルークは私に念を押した。
そんなことを言われなくとも、私はもうとっくにブライアンとのことは諦めていた。例え手紙を読んでくれていたとしても、私が彼を捨てて別の男の手を取ったことには変わりはない。
例えそれが、誰かの策略であったとしても、私はあの時、人生を変えたいと本気で願い、自分の意志でファルクの手を取ったのだから。
私はブライアンやアンネローゼ様達と顔を合わせないよう、大人しく宿屋に籠って日々を過ごし、商談を終えたドネルと共に異国へ戻る船に乗った。
これから、私は新しい幸せを探すつもりでいる。
潮風を浴びながら、私は妙に清々しい気分で大きく息を吸い込んだ。




