23
鏡の前で何度も回った。いつものTシャツとジーンズではなく、小さな花柄のチュニックに春色のカーディガンを羽織った私は、なんだか私じゃないみたい。
高校に合格したあと、初音と買いに行った服。すごくお気に入りだったのに、ずっとクローゼットの奥で眠っていた。
「あら、かわいい」
洗濯物を持って来てくれたお母さんが、鏡の中の私を見て微笑む。
「どこか出かけるの?」
「うん。ちょっと……」
「気をつけてね」
お母さんは何も聞かない。だけどいつも私のことを、気にかけてくれているのを知っている。
お母さん、ごめんね? いっぱい心配かけちゃって、ごめんなさい。
「お母さん」
「ん? なあに」
「今度、私が作ったパン、食べてね?」
私が言ったら、お母さんは嬉しそうに笑ってくれた。
坂道をのぼって「こむぎや」に行くと、いつもの定位置にベビーカーが置かれ、こむぎちゃんが眠っていた。
春のあたたかい陽だまりの中で、こむぎちゃんは桜色のベビー服を着ていた。
「あ、これ」
「どう、ステキでしょ? 私の大事な姪っ子からのプレゼント」
祥子さんに「大事な」と言ってもらえて、嬉しいけれど照れくさい。
「志乃ちゃんもその服、すごく似合ってる」
「……ありがとう」
なんだか恥ずかしくてうつむいてしまう。そんな私を見て、祥子さんはいつもみたいに明るく笑う。
「おーい、できたぞー」
「はーい」
伝助さんの作った焼き立てパンを祥子さんが運ぶ。私も手伝おうとしたら「志乃ちゃんは、今日お休みなんだからいいの」と断られた。
店の前に人影が見えた。今日一番のお客さんが入ってくる。
「いらっしゃいませ」
そう言った私の前にお金を置いて
「いつものあります?」
って、康太くんが笑った。
坂道の途中にある小さな公園は、桜がちょうど見ごろだった。
近所の子どもたちのはしゃぎ声を聞きながら、私は康太くんと満開の桜の下を歩く。
「あ、なんかこの感じ」
隣を歩く康太くんが言う。
「前にもあった気がする」
私は笑って康太くんに答える。
「あったよ。一年前。桜の下を、康太くんと歩いた」
あの頃の私と、今日の私。ほんの少しでも成長してるといいな……。
「これも……持ってるの」
私はバッグの中から栞を取り出す。桜の花びらを押し花にして作った、手作りの小さな栞。
「康太くんにもらった花びら」
「うわ、そんなのまだ持ってたん? なんかめっちゃ恥ずかしいんですけど」
康太くんが照れたように笑っている。
「だって、嬉しかったんだもん」
落ち込んでいたとき、康太くんが私にくれた。言葉がなくても、康太くんの気持ちが伝わって、すごく嬉しかった。
だから私も伝えたい。たくさんたくさん……「ありがとう」って。
春のやわらかな風が吹く。淡い色の花びらが、ふわりと私たちの上から落ちてくる。
「あ、ちょっと待って」
康太くんの手が私の髪に触れる。
「ほら、桜」
私の髪にのった花びらを、康太くんがそっと指でつまむ。そしてそれを目の高さで私に見せて、そのままぱっと手をひらいた。
ひらひらと一枚の花びらが、私の目の前を舞い落ちる。
「一年後も、こうやって会いたいな……」
ふとつぶやくような康太くんの声。
「あ、ほんとは明日も明後日も、会いたいんだけど……志乃ちゃんに」
顔を上げたら、照れくさそうに笑っている康太くんが見えた。私はそんな康太くんに言う。
「私も……会いたい」
明日も明後日も、康太くんに会いたい。そして来年の春も、こうやって康太くんと並んで歩けたらいいな……。
「今度の日曜日……また会える?」
勇気を出して私が聞くと、春風に吹かれながら康太くんが答えた。
「『こむぎや』に、迎えに行くよ」
顔を見合わせて、どちらともなく笑う。康太くんが差し出した手に、私の手を絡ませる。
つないだ手から、伝わった。
康太くんの気持ちが、私の気持ちが……ちゃんと伝わった。
ぽかぽかした坂道を、康太くんと手をつないでのぼった。
「私ね、また勉強したいなって思うの」
隣にいる康太くんが、私の言葉を聞いている。
「もう一度、やれることからやってみたい。その先はどうなるのか、今はまだ、よくわからないけど……」
「あせることない。ゆっくりやればいいよ」
顔を上げて康太くんを見る。
「って、祥子さんなら言うね」
そんなことを言って笑う康太くんの向こうに、桜の花。
そういえば去年の春、「お花見なんて、何年もしてない」って言った、祥子さんの言葉を思い出した。
「この桜、祥子さんと伝助さんにも見せてあげたいな……それから、こむぎちゃんにも」
「じゃあ、見せてあげようよ。俺たちが店番してればいいじゃん?」
康太くんが私の顔をのぞきこんで言う。
「そうだね」
「そうそう、ついでにバイト代ももらってさ」
いたずらっぽく笑って、康太くんは私の手をぎゅっと握った。
坂道の上に「こむぎや」さんが見えてきた。
甘くてやさしい、私の大好きな場所。
一歩一歩進む私の足取りは、まだ本当にゆっくりだけど、そんな歩幅に合わせてくれる康太くんが隣にいる。
いつかスキップしながらこの坂道をのぼれるまで、もう少しだけ見守っていてね?
自動ドアから出てきたお客さんを見送るように、こむぎちゃんを抱いた祥子さんも外へ出てきた。
そして私たちの姿を見つけると、ちょっと驚いた顔をしたあと、すぐに笑って手を振ってくれた。
そんな祥子さんに、私も手を振り返す。
花開く、いつもの坂道。
空は青く、空気はあたたかく、風はやさしく吹いていた。




