第七話
「よしじゃあ、始めるぞー」
体育教師の拡声器でくぐもった大きな声が聞こえてきて、周りがぞろぞろとスタートラインにつく。俺も流されるように、その中に混じった。
「始めっ」
どうして彼らは、地獄へ通じる踏切をいとも簡単に開くのだろう。四十分の一程度の規模とはいえ、フルマラソンのようなもんなんだから、もっと演出としてためてくれないないかね。
俺は指示通りに、全力で走った。脚で地面を弾くように、そんで浮いた身体をできるだけ遠くへ運び、脚も前に伸ばしてまた弾く。──想像以上に、身体が前に進んだ。すごいなこれ。前で揺れる体育着があっという間に俺の視界の端っこ、やがて消えていく。
しかも、全力のつもりだったのに、まだ力を出せそうだった。もう少しだけ、脚を前にだしてみると、更に速度があがって、頬に吹きつける風の量が増える。俺が地面を蹴ることで、地球が回ってるんじゃないかってくらい、身体が軽い。
あっという間に校庭を一周した。体育教師が何か言っているのが聞こえる。
まだ力が出るのか。もう少し踏ん張ってみた。また景色が流れるのが速くなった。
一歩一歩が伸びる。身体が重くなった分、スピードのノリがいいのかもしれないな、なんて考えてはいるが、思っているほど冷静ではない。力がまだでるとは言っても、一応全力疾走に近い走りなのだ。
なにやらギャラリーが騒がしいのに気づいた。──そうか、俺はいつもそんな速くない部類なのに、どういうわけか今回は独走しているのだから、ムリもない。
あと一周、体育教師が「うぉぉ、いけえ!」というような台詞に近いことを言っていた。
「どう? すごいでしょ」
「どぉぉっ!?」
俺の中の時空が歪みそうなほどの失踪の最中、唐突に沙実が話しかけてきたので、俺はずっこけそうになった。いや、話しかけてくるのはまだ良いさ。でも、頭の上に乗っかって、目の前に逆さに顔を見せてくるのは反則だろう、マジで。
というか、声がでちまったよ。まぁ、こんな奮闘してるんだから、声くらい出ても不自然じゃないか。でもその登場の仕方は不自然すぎると思うんだ。
「って、前見えねえよ!」
「あ、そっか」
沙実は呑気にそう言って、俺の頭の上に退く。ちなみに、幻覚に近いもんだから、重さなんて無いのは言うまでもないか。それでも視界を遮るのはひどい。
でも、どんな姿勢で頭の上にいるんだか分からん。実は感触もあるので、少なくとも肩車じゃないのは分かるんだが──、もしかして正座してんのか? すごい見てみたい、頭に正座した少女を乗せて爆走する男ってものを。
気がつくと、またギャラリーが騒いでいる。
よく耳をすませて聞くと、
「もう一周すんのかよ!」
「やべぇええ!」
「ナメすぎだろ!」
なんてことを言っていて、俺はようやく理解した。
もう俺ゴールしてたのか。
急いで軌道を変えて、スタートラインまで駆けていく。
「お前、何でこんな走れんの隠してたんだよ!」
と、驚愕と喜色を顔いっぱいに浮かべた体育教師にどつかれつつ、タイムを訊いてみたら四分二十秒程度だった。
「まぁ、軽くやってこんなもんでしょ」
と、得意顔満面の沙実が隣にいた。俺は驚愕だの歓喜だのの声を上げなかった。
その日の部活が終了した。まだ日は見えるが、じきにその光は届かなくなるだろう。
「明日はどえりゃー筋肉痛に悩まされるぜ、きっと」
新山が生真面目な顔で言い、その隣で同じパートの平岡智恵が、
「でも、そんな走ったのに、ピンピンしてるよね。いつも部活終わりは鼻の頭乾いてるのに」
「俺は犬か」
「じゃあ、いつも皿が乾いてる」
「河童か、まだ犬の方が良いわ」
「しかし、あんだけ走れるのに、ほんとよく今まで隠してきたよなー」
新山が感慨深そうにつぶやいたのを、俺は複雑な心境で聞いた。とりあえず、あんな爆発的にタイムを伸ばしてしまったんじゃあ、数多の視線が俺を貫きまくるのは仕方がないので、甘受してやった。言い分としては、今まで手を抜いてきたけど今日から頑張ろう、というようなことを拵えた。──あとは陸上部の勧誘を上手いことかわすか。
「まあ、そこんところは深く掘り下げないでくれ」
「はぁ、倉敷に唯一勝ってる、って思ってたところだったのに」
平岡が溜息を吐いた。いや、君は楽器の技術はダントツだと思う。
そんな雑談をしながら荷物を引っさげて、部室を出たあたりで俺はふと、あのことを思い出した。
「あ、そういや、俺、先輩たちに呼び出されてるんだった」
「ええ、何で? 説教?」
「いや、分からんけど……、とりあえず、俺はこっちに残るわ」
俺は踵を返して、まだ反省会が終わってざわついているところへ再入室。
「あー、そ。じゃあ俺は退散しておくぜ」
新山は安定の帰宅──、おそらく、こいつの即刻帰宅願望は部活髄一だと思われる。
離れていく俺と新山の中間にいい具合にいる平岡は、少し逡巡したあと、俺についてきた。
「だって、家に帰っても暇だし」
そう言い訳がましく言いながら。
それでも、平岡が他の女子部員と絡んでいないのは珍しいな。いつもなら、パートの集まりから離れて、木管の女子連中に突撃していくのに。
まぁ今日はそういう気分なのか、とあっさり考えていると、ふと後輩と目が合った。
「ん?」
利発そうな印象の女子だが、なんという名前だったか、確か上崎といったかな。
「あっ、な、なんでもないです」
「そうかい」
慌てて視線を逸らされた。そろそろ、顔と名前ぐらいは一致してきて欲しいもんだな、と俺は簡素に思っただけで、特に言及はしなかった。
少し彼女と距離を置いたところにきて、平岡はちらちらとその後輩を見やりながら、
「なんかさ」
「ん?」
何やら少し緊張した物言いだったので、悩み相談かと思い身構えたが、平岡は俺を真っ向から捉えてじっと見ると、感嘆したように言った。
「倉敷、すごい顔が良くなったよね」
「はぁ?」
「だって、あの子見たでしょ? 倉敷と目があって、少しはっとしたように肩を上げて、顔を少し紅くしちゃってたでしょ?」
「……そんな風には見えなかったけどな」
「ちょっとしか見てないからだよ」
「そうか?」
こくこくと頷く平岡。まぁ、そんな風に言われて気分を害する奴もいるまい、俺は心の内で小躍りしながら、しかしこれも沙実による影響力の賜物なんだろうと推定していた。昨日、先輩達からいろいろ言われたのも、そこに原因があるに違いない。着ぐるみの中が美形だと、外側もそれに釣られて多少は良くなるのか。
それから過ぎたる中間テストの結果やれ、誰それの交際状況やれを聞いていると、やがて、高島先輩がやってきて、
「あ、倉敷もう大丈夫?」
と訊いてきた。
「大丈夫ですよ、っていうか、待ってましたよ」
「そうだよね。なのに、広木が『しまった、逃げられた!』とかなんとか言って、猛ダッシュで出ていったんだけど、もう校門出ちゃったかな」
高島先輩はちらちら窓の外を見やりながら、携帯電話を耳に当てている。相変わらず、あの部長は早とちりだな。まぁ、忘れてた俺にも責任はあるか、一厘くらい。
そんな状況になって、平岡が声をひそめて話しかけてきた。
「うち、ここから離れたほうがいいかな」
「何でだよ」
「え……、なんかそこはかとなくアウェイじゃない?」
「よく分からんけど、どけって言われたらどけばいいんじゃない」
「……じゃあそうしよう」
平岡がそう決心した丁度その時、高島先輩のもつ携帯がつながったらしく、唐突に広木先輩の声が聞こえてきて言う事には、
「新山だったああぁっ!」
いかにも、人影がみえたので頑張って追いついたら別人だった、というような悲痛さを帯びた叫びだったが、高島先輩は呆れたように、
「……倉敷はこっちにいるから、さっさともどってきて」
とだけ言って、無情に通話を切ってしまった。
「新山って大分前にここ出ましたよ……、どこまで行ったんですか、あの人は」
「校門どころじゃなかったか……、でもまぁ、ここの部長はそういう人じゃないとダメなんだよ、悩みもなにもないからね」
なるほど、確かに厳しい場面を壁で喩えていうなら、あの人何も考えず壁ぶっ壊して進みそうだからな。上るとかいう選択肢も浮かばないでな。それで、目の前の高島先輩がそういう人の歯止め役というか、方向調整係というものなのだろう。良い幹部の組み合わせだとつくづく思う。
「この代に、そんなのいんのかね」
俺は、なんという考えもなしに独り言として言った。もう夏休みも終われば、先輩方が引退して俺らの代になるわけだから、そろそろこの部の運営を牛耳る奴を決めていかないと。
なんてこともない独り言だったのに、平岡が返してくれた。
「んー、悠歌あたりは?」
ボブカットの溌剌とした小柄な姿が脳裏に現れる。
「柏か。あいつは天然だよなぁ。責任感はあるから、やってくれそうだけど、背負いこみすぎると、サポートしようがなくなるかもしれないな」
「ふぅん……、あ、下田は?」
俺はあの筋肉質で神経質そうな顔を浮かべた。
「あいつはなっても副だな、部活の顔っていうところから見ても、少し人を寄せ付けないところがあるな。でもこの部活に珍しい運動系な奴だから、新選組っぽく、部長の傍らで睨みを効かせてくれたほうが締まりがでて良いだろう」
「うー、じゃあ祥子は?」
白谷祥子は、少し地味目で頭の回転が早く音楽経験が高い。
「白谷はなっても学指揮だろうな、技術面では遠里の方が上だけど、指導では絶対に白谷のが上手いからな」
平岡は話を聞くうちにだんだんと目を丸くしていって、
「なんだかんだで、見当ついてんじゃん」
「いや、一番の問題である部長がまだな……」
俺は働かない頭を傾けて、暗い窓を見つめた。何で、英文はぽんぽんと訳せるのに、こういうところはぱっと考えが沸かないんだろうかね。まぁ、沙実と出会うずっと前から考えてきたことだからかもなしれない──、沙実もこの世の人間の内情はよく分からない、と言ってたしな。
ふと気がつくと、高島先輩がじっと俺を見ていた。
「え、っと、どうしました?」
俺の視線をぎょっとしたように受け止めると、先輩はしどろもどろに言う。
「あ、あのさ、倉敷……、部長やんない?」
「え?」
俺は目を見開いた。うつろだった意識が、一気にしゃっきりとして、今まで、半透明だった脳内の部長という文字が、ネオンのように煌きはじめ、そして、先輩との距離が一気に縮まったような錯覚を覚える。
「いや、……というか、そういう話をしようと思って、残っててもらったんだけど」
「え! えぇ、俺全くそんなん視野に入れてなかったんですけど!」
「だと思ったから、今言ったの。──去年、うちらは七月くらいに言われたんだけど、それはある程度方針が決まってたし、先輩と意見が一致してたから良かったけど、今年はそういうわけにもいかなそうだからさ」
──なるほどね。俺は心中でうなった。
とその瞬間、思い切り扉が開いて、広木先輩が躍り現れ、しかし大層疲れているのか、そのまま膝をついて座り込んでしまった。
「意外と早かったね」
高島先輩は彼を一瞥して心の無い言葉で労う。確かに早かった。さっきの電話から五分くらいしか経ってない。
すると、広木先輩は汗を張り付けまくった得意げな顔をこちらに向けると、言い放った。
「なんせ電話した場所が、この校舎の一階だったからな!」
「だったら、めっちゃ遅い!」
一分もあれば上ってこれるのに、どうして五分以上もかかりますか。
「しかも、それにしちゃめっちゃ疲れてませんか」
たった階段いくらかだけなのに、どうしてそこまで疲れますか。千五百メートルでもそんな疲れませんぜ。
そんな声が聞こえていないのか、無視しているだけなんだか、広木先輩は俺を発見すると、立ち上がってよたよたと近づいてきながら訊いてきた。
「あー、いたいた、倉敷、お前さあ、部長になる気、ない?」
息が上がっているので、途切れ途切れな言葉になっている。
「それ今、高島先輩から聞きましたよ」
「それを、見越して、訊いて、るんだよ」
荒い息の中、言葉を紡ぐように言う。なんだか、遺言を聞いているような気分だ。
「……ええ」
俺は、どう応えたらいいのか分からず、天井を仰いだ。どうしてこうも、部長という言葉をビーチボールの様に軽々と扱えるのか──、ってそりゃあ現時点で役に就いてるからか。でも、俺には刺つきの鉄球並に気を使う言葉だから、そんな易々と投げ返せませんって。
「まぁ、そんなすぐ結論なんて出せるわけないから、ね。うちらの推薦ってことで、考えておいて」
高島先輩が、取り繕うように微笑して言ったのに、俺は暫定的にだが肩の荷が下りた気分になった。
すぐ横で広木先輩が、ぜぇぜぇ息を吐いて、
「任せた、ぜ……」
と言って、ぽてっと床に伏したが、どうしよう、踏みつけて良いのだろうか。そして、彼は一体何がしたかったのだろうか。
「じゃあ、話はこれだけだから、引き止めちゃってごめんね」
高島先輩はそれだけ言って、腹ばいになる広木先輩の襟首をぐいと掴んで、ずるずると運んでいった。
「──あ、そんな……」
でもすごい重そうに運ぶんでいる。ピラミッドの積石もあんな風に運んでいったのかね。
残された俺は、隣を見やると平岡も丁度俺を見ようとしていて目が合った。
俺が言うのよりも早く、平岡は口を開く。
「みんなもそう考えてると思うよ」
やけににこにこしていた。俺は驚く気力をなくし、同調するように笑みを浮かべた。