第六話
放課後。
一週間前まで、あんなからからして微妙に暖かかった気候が、今ではじっとりとして過度に暖かいというアンバランスな有様で、今日はずっと除湿してくれと心中で懇願しながら過ごしていた。
俺は盛大にげっそりとして、教室を出る。新山はさっさと部活に行ってしまって、笠原は提出物がどうとかで、どこかに行ってしまった。
今日の授業中、沙実はせわしなく教室内を歩きまわっていた。
日本史の時間に、先生が持ってる教科書をじっと眺めたあと、付近の生徒のノートを見やり、俺のノートに目を落としたあと、
「狭山って人と比べると、字ヘタだね」
皮肉だと思ってないように言ってきた。
「あいつと比べるなって。あいつ、このクラスで一番字上手いんだぞ」
「へえ。じゃあさ、あの字覚えてきたから、ちょっと字書いてみて」
沙実がそういったので書いてみると、どういうわけだかペンを持っている感覚がなくなって、艶やかな線がしなやかに伸び、流れるように払い、美しく曲がって、釘を打ったようにぴたりと止まり、書いてる俺でさえ舌を巻くような字ができあがった。そして、生き物のように文を創り上げていく、──凄いことには凄いが、このひょろっとした字の連続が突然キリっとした字の群れに変わっているのを見ると、滑稽で仕方がない。
「──沙実、これはないと思う。不自然だ」
「そう? ……わかった」
あっさりと沙実が頷いた瞬間、またもとの俺の字に戻った。──能力を俺に提供するのは、スイッチでオンオフとするように選択が可能らしい。俺の知識は漏洩しまくりなのにな。
そういうわけで、どうでもいい部分が謎に上手い字で強調されている、至極不自然なノートができた。修正しても良かったが、億劫なので記念にとっておこう、ということで、今厳密に俺のロッカーの中に保存されている。
ちなみに、英語の宿題の問五については、担当に「解けないのも無理はない」と言われたもんだから、教室中がざわめいたんだが、俺がざわめいたのは別な部面、問題を解くだけでなく、それが他の連中には解けっこない、とまで見抜いたことである。
まるでバグ技を使って、レベルが一気に一〇〇に上がったかのような変貌ぶりだ。
「もっと自慢すれば良いのに」
俺のその消極的な姿勢に、沙美が首を傾げて言う。
「いや、あまりおおっぴらにするもんじゃないから良いんだよ」
「ふぅん。この世の法則とか性質はわかるけど、人間の性格だけは分かんないや」
俺もこの自制を説明しろと言われたって、きっとできない。分からないのはお互い様だ。
──さて、何故俺がげっそりしているかというと、別段授業が暇だったからではない。というか、記憶力も集中力も格段に上がったようで、全く苦に感じなかった。
それよりも、これからの部活というものに、ひどく重圧を感じているところにある。遠くにあると感じていたものが、いつの間にか目の前にあったものだから、心の準備ができてない。しかも、せめて誰かと一緒に行きたかったのに頼れる奴らは皆散ってしまった。
引っ張られるように階段を上る。どうして、どこの学校も音楽系の教室は校舎の上にありがちなのかね。一階にあったとしたら、上の階に響きまくりで凄い勢いでクレームが来そうだからか。
浮くような思いで部室に入ると、懐かしい匂いが鼻に滑りこんできた。まるで、今までのブランクを埋め合わせ、無かったかのように感じる雰囲気だ。
幾人か、俺の存在に気づいて何かしら挨拶してきた。
「よう」
「よっす」
「あ、倉敷だ、久しぶり」
「あぁ、そうだな」
「こんにちはー」
「こんちは」
俺はかかる挨拶に、少しぎこちなく応じていく。
彼らの対応というのは、俺の記憶に相違ないものである。というのは、いつもの部員というわけで、つまりは、全くを以ていつもどおりの部活である。俺が居なくても部活は回ってる、あまり俺の不在というものはあまり大きな問題ではない。そういう意味では、いつもどおりではないのは俺の方ということになる。早く取り戻さないと。
「あ、倉敷」
ふいに声を掛けられ、俺は弾かれるように振り向く。
声の主はお馴染みのトートバッグを携えた、副部長の高島絵里先輩だった。
「あ、こんちは」
「こんにちはー。今日は大丈夫なの?」
「大丈夫です、でなきゃ来てませんよ」
「そりゃ、そうね」
先輩は少し愉しむように言った。
「何か変わった事ありましたか?」
「変わった事? 江ノ島が赤点疑惑浮上したことくらいかな」
「えぇ、またですか。江ノ島先輩受験大丈夫なんですか?」
「まあ、なんだか何だでうまくやりそうな気がする……。あ、ところで、明日の部活後って空いてる?」
「部活後ですか、──特に用事も無いから大丈夫ですよ、多分」
俺は暗くなった廊下を思い浮かべながら答えた。部活後、と聞くと、ふっとそのイメージが現れる。この一年間で刷り込まれた印象なのだろうが。
「じゃあ──」
と、高島先輩が口を開きかけた折、
「あれ? 倉敷お前痩せた?」
なんて、文脈も流れも関係なしに首を突っ込んでくるといったら、あの人しかいない。
部長の広木慎太先輩、──「一応」、この吹奏楽部の部長。
しかし、前例の無い台詞を言われたので俺は少し戸惑いながら、
「そうですか?」
「あぁ、なんかキリっとしてる。どうしたん? 彫刻師のところにでもお邪魔してたんか?」
「俺は木像じゃないです、何もしてませんよ」
「ふーん、何か彫り直されてるような気がするんだけど、そう思わない?」
と、広木先輩がふいに高島先輩に話を振ったので俺も視線を向けたら、
「えっ?」
と彼女は目を丸くして、俺と目を合わせた。なんだか、沙実の目とは対照的に、焔が照っているように明るい瞳だな、と何の気も無しに思ったが、高島先輩は唐突に視線を広木先輩に逸らし、
「何か、心なしか爽やかに……」
「爽やかっていうか、なんというかあれだよ、いつものハニワ性が薄まったというか」
「ハニワ性ってなんですか! あんな空洞だったんですか、俺は!」
すると、高島先輩が納得したように、
「あー、確かに」
「えっ! 分かるんですか!」
「ま、まぁ、けなしてるわけじゃないんだからいいじゃん、褒めてるの、褒め褒め」
壮絶に気になる。ハニワ性って、どんな性質ですか。というか、今までその性質は黙認されてきていたんですか。
「そういや、倉敷、明日の部活後、ちょっと良いかい」
言うだけ言っておいて、広木先輩はすっと真面目な顔に戻ると、そう訊いてきた。俺は、若干復讐の意を込めて言う。
「それ、今高島先輩から訊かれましたよ」
「マジか!」
「っていうか、その最中に先輩が突っ込んできたんじゃないですか」
「そんな人をブレーキ効かなくなったバイクみたいに言うなよ……」
「言ってないです」
渋面で傷ついた顔をするので、俺は極力感情を込めずにフォローした。すごい面倒臭いな、この人。
「まぁ、とにかく、用があるって事だから覚えといて」
でもすぐさまもとの表情に戻ると、手をひらひらさせて広木先輩は言って、俺のもとから去っていった。
あくる日。
「今日の体育持久走だってよ──」
という噂がちらほらと聞こえてきていたが、本当に持久走らしい
一般的に運動部ですら嫌悪するというのに、文化部で歓迎するものなど居るはずがない。俺は当然のごとく煩雑な気分を携え、黙々と校庭へと移動していた。
「何でそんな嫌なの?」
と、昨日の部活から沈黙を守ってきた沙実が唐突に話しかけてきたので、思わず声を上げそうになったが、なんとか平静を保って声なき声で応える。
「何でって、お前そりゃ普通に──、ってお前には分からんか」
「分かるよ、だって、走ってあなたの家に行ったんだから」
そういや、俺のこと「あなた」って呼んでんだっけ。よく考えると、非日常的な二人称代名詞だな。あまり俺のことを言われている気がしない。
そんなことよりも、
「走ってきてたのか」
「別にそんな辛くなかったけどなー」
「嫌な理由、結局分かってねえじゃねえか。お前とは体の仕組みが違うんだよ。なんてったって異世界製の体なんだろ?」
もっともせっかくもらったその体は、一日で捨てられちまったが。
そんな風に思ったら、沙実は不思議そうな調子で、
「捨ててないよ」
「え? あれって、無くなったんじゃないのか?」
「ううん。あるよ、あなたの体の中に」
「──どういう意味だ」
ふいに、腹の中に文鎮を置かれたような感覚に襲われる。
「そのまんまだよ。着ぐるみみたいに、あなたの体に私の体があるの」
「……冗談」
「ほんとだよー、今夜体重量ってみれば分かるよ。軽く三桁はいってると思う」
は? 百キロ?
俺は思わず立ち止まって、自分の身体を見下ろした。
「えええええ! 嘘だろ! そんな感じ全くねえよ!」
「うん、あなたが生活できてるのは、ほとんど私の体の筋力のお陰だもの。そうでなきゃ、とっくに脚を悪くしてるよ」
俺の動揺なんて全く知らないように沙実は言う。
「じゃ、じゃあ何で俺の思ったとおりに動かせるんだ!?」
「下宿してるって言ったけど、別に支配してるわけじゃないよ。だから今は、あなたが自分でその体を動かしたいって思ってて、私は別に動かしたいって思ってるわけじゃないから、あなたが動かしてるってこと。もし二人とも動かしたいって思ったときは、あなたの意志の方が優先されるから安心してね」
──そうなのか。
しかし、この説明を聞いているとなんとなく、いつしか沙実にこの身体を委ねることになる、と示唆されているように思えてならないな。
「でも体重三桁のガタイを支えるってすごいな……」
「まぁ、大体作られたものだしね。この世の人間だって、すぐに穴が空いちゃうような服は作らないでしょ?」
すると、この世の人間はすぐに穴が空いてしまう服のようなもんだ、と暗に揶揄しているようにも受け取れる。それでも俺は意地悪な解釈をしたが沙実には顕さず、心中で消化した。
うちの学校の体育は、大体準備体操が終わった時点でチャイムが鳴るような時間に始まるのが原則で、なかなか面倒くさい。今日は、集まりが悪くていつもより遅れ気味だったので、若干ハイテンポな準備体操だった。
距離は千五百メートル。なにやら、先月の体力テストでの持久走のタイムが悪かったから、その報いらしい。せめて、体力向上とかいう建前でも作ればいいのに。
しかし、着ぐるみの様に俺の身体の中に沙実の身体が入っているとは思えない、というか、むしろ入る前より軽くなった気がする。ほんとに十分の一トン以上あるのか、この体は。
「なぁ、一緒に走らない?」
と、新山が訊いてきた。俺は、ちらりとそのニタニタする顔を見やってから、
「とかいって、一緒に走った試しがないよな」
「お決まりだな」
新山は盛大に笑った。俺は笑う気にはなれなかった。
千五百メートルは長いようで、実際そんなに時間がかからないし、コースも大して広くないので、全体を三グループに分けて測定する。俺は運悪く一番最初だ。
俺たちはスタート地点にずらりと並んで、合図を待つ。これから過酷を通りすぎるのだと思うと、なんだか落ち着かない。
そんな時、沙実が脇に現れて話しかけてきた。
「ねー、遠慮しないで走っちゃっていいよ」
「……本気で?」
「うん、全力疾走ね」
普通に断りかけたがさっきまでの会話を振り返り考えて、その強力なバックアップに期待してもいいか、という結論を下し、
「──死にそうになったら、覚えてろよ」
俺は呪詛のように、その言語を体内に響かせた。




