第五話
翌朝、目が覚めた。やけに、意識が重いと思ったら、そういえば昨日から居候を養い始めたんだった。何だか頭の重量まで二人分になったような気分だ。
俺は身体を起こすと、いつもどおり、学校に行く支度を始めた。
そういえば、昨日朝食の分を買ってくるのを忘れていた。目玉焼き程度なら作れるが、肝心の飯が無いのだからしょうがない。目玉焼きだけ喰っていくなら、生卵を呑んだ方が早い気がする。でも別にタンパク質を死ぬほど求めてるわけじゃないし、そんな頓着することでもないからコンビニで何か買っていくか。
俺は最低限の支度だけで家を出た。時間的に丁度良い。
自転車を飛ばしていき、いつも騒がしい国道に差し掛かる。相も変わらず赤が長い信号に停められるので、俺は携帯を取り出して、とあるSNSを覗く。全くいつもどおりじゃないか。せめて、この信号に引っかからずにいけるくらいのことはして欲しいもんだ。
青信号になった。それからは信号に停められることなく学校に着く。着いた瞬間に、朝飯を買うのを忘れたことに気がついて、校門近くで引き返し近くのコンビニへ。買いたかったおにぎりが売り切れだったので、妥協してカレーパンを買い、片手運転でそれを頬張りながらまた校門へ入っていく。
こうして過ごしていると、至極まっとうな暮らしだとは思う。丁寧に日記を書いていけば、こんな出来事など無尽蔵にあるから、あっという間に字で埋め尽くされることだろう。でも、それを読んでいて楽しいか、という疑問がある。単純に将来読み直してみて、あの頃は楽しかったな、と思って終わるような日記で良いのか、と思うところがある。それが一日や一週間なら良いが、半年もすれば否応なしにその虚無感は頭角を現すだろう。気付かなければ良かったのに、と後悔はしたさ。しかし、そんなことはいつかは気付くもので、どちらかというと気付かないで何も知らずに呑呑と過ごす方がまずいだろう。そう思いつつも、俺はその喪失感に似た感覚を処理できなかった。この、二つの矛盾が俺を苛め続けた。
俺は教室に入った。誰もいない。そりゃそうだ。普通の人がのんびりと準備して、マンガを読んで風呂に入ってトイレの中で携帯いじって、行こうかなという気が起こって家を出たら丁度よく着くような時間に俺は起床して、何もせず家を出ているのだからな。何故もっとゆっくりしないのかって、そんなのらりくらりしていても、注意してくれる家族が居ないからに他ならない。
ちなみに、敢えて今まで述べなかったが、現在、うららかに桜が乱れ散り、吹奏楽の定期演奏会が無事終わり、新入生のかちこち具合がいい加減緩和されて来た、五月の下旬である。
だから、きっと叔父以外の誰かに、そのマンネリな現状を嘆いたら、「五月病じゃねえか」
なんて風に決め付けられるわけである。実際、可能性は捨て切れないが。
俺は空っぽの教室で、席に腰を下ろした。
静かだな。いつまでもこうなら良いのに、と俺はぶっきらぼうに思った瞬間、突如、ぐあんと頭の中で銅鐸が鳴らされたような衝撃が迸った。
……あぁ、そうだった──。
「おはよう……、ってあれ、もう学校?」
沙実はすっと俺の目の前にその姿を現すと、眠たげな表情で教室内を見渡した。さながらSF映画によくあるホログラムのようだ。どういう原理だか知らないが、俺の視覚をいじくって見えるようにしているだけで、喋ってる原理も同様。
俺は、萎えた気分を隠さずに、
「何で、俺は起きてて身体も起きてるのに、そっちは起きてないんだよ」
「私はあなたに下宿してるだけだから、私は私、そういうところはあなたとは関係ないの」
「はぁ、本格的に住み着いたって感じなのか……、それなら、いちいち起きるときにそんなドガンとやらないで欲しいな……」
「ごめんね、あまり慣れてないから」
「催眠術といい寝起きといい、結構未熟なところが多いんだな」
嫌味ではなく確認するように俺は言ったが、聞こえていないように沙実はくるりと俺に向き直って、乱雑に置かれている椅子に座った。
「経験が少ないの、経験が。でもね、一応私って有望視されてるみたい」
「へぇ、どんなところで」
「何だか私たちの種族って、世の中の景気みたいに能力値の周期みたいなものがあるんだけど、最近はそれがインフレ気味っぽくて強い人がバシバシ生まれたんだけど、私はその頂点で生まれたんだって。バブルの最盛期ってところかな」
「本当か……?」
「ホントだよ」
とてもそうは思えないが。まぁ、これからに期待ってことなのか。
俺は改めて、目の前にある沙実をじっくり見てみた。
何だか、一見は育ちの良い女子高生といった感じだ。少し大人びた顔立ちといい、素直に流れる髪といい、耳をすんなり通る喋り方といい、上品さがにじみ出ているようである。だがいかんせん、しゃべることと印象が一致しない。話の内容の方が、いささか子どもじみているのだ。
まぁ、肉体を作り出してこの世に置いている訳だし、そのあたりの調節は難しいのか。でも、この奥ゆかしい雰囲気は好きだし、爛漫な口調も心地が良い。──人間的に見れば、俺としては申し分ないのだが。
「部活って、今日もあるの?」
沙実が近くにある美術部の奴の机に書きなぐってある落書きを一瞥し、やがて俺に視線を投げかけて訊いてきた。
「あるよ。今日から復帰だな」
「へぇ、楽しみー」
その言葉からふんわりとワクワク感がにじみ出ている。なんだか意外だ。
「楽しみなのか」
「うん。死んだ人の六割が、学生時代は部活をしておいて良かった、って言ってたもん」
あの世でのアンケートなんて凄まじく興味をそそらせる話題だが、やけに六割という数字がリアルそうで現実味が無い。四割は無回答が占めているのか?
と、そんなことよりも、とりあえず俺は宿題をやらなければ。
いつも、こうして宿題は朝に回してやっている。どうせ、時間があるんだったら、そちらに回して家ではやりたいことをやっている方が、まだずっとマシだろうと、継続している習慣である。宿題忘れなんてことは減ったが、たまにやりきれずに、対応しきれないことがあるのは、仕方のないことだ。
「宿題?」
沙実が覗き込んできた。
「あぁ」
「英語だね」
「分かるのか」
「うん。というか、人間が使う言語なら普通に理解できるよ。そうでなきゃ、こっちでやってけないもん」
そうか、何もこの世っていうのは日本だけじゃないからな。
「ってことは、この宿題もすっかり分かるってわけか」
「うん。だって国語の問題でしょ」
俺は「そんなわけ……」と、反駁しかけて、それからよくよく考える。たしかに国語で勉強してるのは日本語だからな。英語圏での国語の授業は英語でやるのは当たり前、他も然り。なるほどな。
なんだか妙に納得して、宿題に向かった。
──あれ。
おかしい、こんな簡単な英文だったか、これ。
英語が語りかけてくれるように、すらすらとイメージが頭に入ってくる。堅苦しいと思い込んでいた英文が柔らかく、意志を持った言語として脳内に再生されていくようだ。
俺はペンを動かしながら、俺がそうして連ねていく文字を眺めている沙実の顔をじろりと見やる。
「どういうことだ、これ」
「うん? えーっと、一応私の自我はあなたに下宿してる状態だけど、能力的には共存してる状態なの。私の能力は、あなたが当たり前に使えるし、あなたの知識は、私が当たり前に使える。ほら、漫画でよくある、フュージョンして強くなる、みたいな」
それって、俺の読んだ漫画の知識じゃねえか。
でも、まぁなんとなく分かった。つまり、こいつを取り込んで俺はパワーアップしたってわけだろう。なんか単純過ぎて面白みが無いようにすら思えるが、そこは贅沢をいってどうする。下手に願望なんぞ抱いたりしたら、また別な『半壊の者』でも来かねない──また少女が来るとは限らないしな、おっさんの脚を口に突っ込まれるなんて、絶対にごめんだ。
でも、いつもは大してできないのに、いきなりできるようになるのは、流石に不自然すぎる。俺は、えらく流暢に書かれた解答の英文を見つめてそう思った。──いや、これは完璧な答え過ぎる。少し欠陥があったほうが俺らしい。
そういうわけで、問五をわざと空白にした。どうせ、みんなが解らないとしたらこのあたりだろう。
宿題もさっさと片付いたので、俺はのんびりと沙実と雑談をし始めた。
知識は共通でも、意識というか、魂は俺と沙実のとそれぞれあるし、沙実に伝えたい事柄と俺が内心だけで思いたいこと、というのはきちんと区別できるので、感覚的にはまともに会話をしているかのようだ。
「よっす」
ふいに、声がかかって俺はぎょっとした。
「よ、よう」
声の来た方向に目を向けると、新山だった。部活仲間で、大柄ではあるが筋肉質ではない、かといってのっぽという訳でもない中庸な体型の、先輩曰く『五回殴ったら減税の対象になりそうな』優しそうな顔が特徴的な奴だ。
俺は一瞬、慌てはしたものの、今までの会話はすべて脳内で行われていたもので、口には決して出していないから聞こえてないだろうし、沙実の姿だって、こいつには見えていない。そう分かっててはいるものの、そわそわするのは仕方がないことと理解して欲しい。
新山はわりと鈍感な奴なので、そんな俺の様子には全く気づくことがない。その代わり、沙実が座っている椅子を思い切り机に突っ込んで通路を空け、自分の席に荷物を置きに行った。
「わっ」
当然の成り行きとして、沙実の体は椅子から乖離し、空気椅子をしているような体裁になった。──あくまで、座ってる「ふり」をしていただけなのでこうなるのだが、そんな非現実的な光景に俺は思わず吹き出した。
「ん?」
沙実が顔を赤くして、咄嗟に立ち上がったのは良いとして、良くないのは俺が吹き出したことを新山が気づいてしまったことだ。
俺は、何事か、という顔をする新山に、
「い、いや、今のは新作のくしゃみだ」
と弁明したら、彼は思い切り顔を歪めた。
「めっちゃ、鼻が痛くなりそうだな」
「いや、痛いし」
俺は鼻を押さえてみせる。
すると、新山は軽快に笑って見せてから、あまり整理されていない鞄を探り始めた。とりあえず、誤魔化せたことに安堵していると、新山は教科書を携えて俺の方へ近寄ってくる。
「なぁ、英語の宿題やった?」
「──問五以外なら」
「なんだよ、そこが訊きたかったのに!」
新山は露骨にがっかりする。まぁ、答えは俺の脳内にはあるんだけどな。
そんな自信に後押しされて調子に乗った俺は、
「そういうことは俺に訊くんじゃねえよ、訊くなら──」
しまった。話を他の奴に逸らすような展開になっちまった。責任転嫁のテンプレートは、他に人間が居ないと使えないのに、なんと愚かなことを。
俺はそれでも冷静に、会話が途絶えて静かになった教室をぐるりと見回し──途中、沙実と目があって、「えっ?」とひどく驚いた表情をしたので、また吹き出しそうになった──、最終的に教室の扉に視線が行き着き、
「あ、おはよう……」
そこには笠原が、今丁度来ました、というなりで立っていた。
俺はすかさず、くるりと新山に向き直り、
「笠原に訊けよ!」
「何だよ今の間は! 笠原来なかったら、永遠にきょろきょろしてるつもりだったのか!」
鋭く突っ込まれた。そうだな、来なかったらトイレにでも逃げていただろうな。
やがて、そんな馬鹿げた話はあっという間にお流れになって、気を取りなおしたように新山は、
「まぁいいや。笠原、あのさー、英語の宿題やった?」
「うん、問五以外なら……」
「駄目だった!」
「いや、これは実際分からないって」
「そうだな、じゃあここは手を組むのはどうだ」
「あぁ、三人寄れば文殊のなんとかってやつか」
「三人一緒にわかりませんなら、心強いだろ」
「ちょっとは、あがこうよ……」
刻々と、俺の日常は陽の目を見つつあった。俺が沙美と遭遇する前まではこんな生活をしていたのを思い出す。夏休みがようやく明けたような気分だ。
俺は三人して英語の教科書を机に広げているちょっとした間隙に、ちらりと沙実の方を見やった。──何故か、空気椅子の練習をしている。安心しろ、もうそんなことで恥をかくことは二度と無い。