第十二話
それから数日が過ぎると六月になった。一応、衣替えの時期ということになっているのだが、そのあたりの区分が曖昧で、暑いと感じる人から夏服に変われ、といったような具合の衣替えになっている。俺は当然、即夏服にした。といっても、半袖を持っていないので長袖のワイシャツを腕まくりするだけなのだが。
そして、それと同時に梅雨入り。今朝も、一年間貯めこんでおいたのか、というくらい容赦ない雨が降り注いでいる。
俺はむさ苦しいカッパを脱いでろくに水切りもせず、自転車のカゴへ乱雑に投げ込むと、小走りに教室へ向かった。
もう大半のクラスメイトがいる。俺一人の早朝ではない。始業開始ギリギリの時間だ。
「あ、今来たのか。ひでぇ雨だから休むのかと思った」
新山が笑ってそう言った。俺はこしらえておいた言い訳を披露する。
「いや、排水口にチャリキー落としてな」
「…………嘘だろ」
新山が少し考えたあとピシャリと言い放つのを見て、俺は軽快に笑いとばしてやった。こんな豪奢な雨の日に排水口に物を落としたら、助かりはしまい。つまりそういうことだ。
直後にチャイムが鳴って、担任が入室してきたので、俺はそさくさと席へ戻った。
あれ以来、沙実は姿を現さなかった。いつもこの位の時間に起きだしてくるはずが、そんな気配すらも見せない。それがここのところ毎日だ。
やはり、ゼウスが激昂していたのは沙実に対してだったのかと思う。あんな勢いで怒られたら、俺だって雨とか関係なしに家でひきこもりそうなもんだ。
どうにか慰めてやりたいものだが、姿も意識も見えなければどうしようもないし、何しろあの時ゼウスが何を言っていたのか覚えていない。でも出来がどうだとか言ってたから、やはり俺が弱かったのが要因なんだろう。実力差がおかしいくらいあったから、実際かどうかは知らないが。
しかし、現れてくれないとなんだか退屈だ。彼女が授業中、しきりに歩きまわっているのを見るのが、なかなか楽しいので暇つぶしになるのだが──。
午前中、俺はぼんやりと授業を受けた。沙実とコミュニケーションができなくなったとはいえ、能力はまだ残っている。問題を聞いたとたんパッと解答がでる、上の空でも授業の大体を理解できるし暗記できるし、体育もいつも以上の活躍。
全く申し分ない出来なのに、神にあれほど怒られるとは。厳しすぎる。
ふと気がつくと、目の前で手のひらが左右に揺れていた。
「どうしたの?」
笠原が不思議そうに俺を見ている。どことなく不安そうな面持ちだ。
気づいたらもう昼休みだった。周りはガヤガヤと飯食ってるというのに、俺だけ一人、ぽつんと席について呆然としていたらしい、心配になるのも当然だ。
「ん、別にどうも……」
「目、開けたまま寝てるのかと思った」
そこまで俺って疲れてるような顔してんのか?
なんて思ったが、表情には出さず、
「ちょっと考え事をね」
「そう? ……何か寂しそうな顔してるけど」
「……そうか?」
問いただすようにその瞳を視ると、笠原は驚いたように目を見開き、すぐさま明後日の方向に逸らした。
「そ、そうでもないかも……」
その微妙な反応が気になるが、それよりも気になることが。
「その弁当はどうしたん」
いつしかの朝、混沌箱から救出されたのとはまた違う、小さくて綺麗な弁当箱が手にぶら下がっているのを見て、俺は訊ねたが、
「え、あの、……倉敷君と、一緒に食べようかなーって……」
「え!」
俺はかの弁当の行く末を聞きたかったんだ。意図していたものと全然違う解答だったからビビったじゃないか。
いや、でもうれしいからいいや。
「ん、いいよ」
ちらりと先生の教え方に対する批評を饒舌に語る新山の背中を見てから言った。
笠原の希望で、部室で食べることになった。
普段は授業で使うことには使うが、教室ではないので昼休みは勿論誰もいない。基本的に使用は自由だ。
扉を開けると、平岡智恵が楽器の手入れをしていたが、俺達に気づくと片手をあげて、
「やっほ」
「あ、智恵ちゃん」
「よう」
俺達は応えて、適当な席に座った。
俺が弁当の蓋を開けた時、平岡は楽器ケースの蓋を閉めながら口を開く。
「珍しいね、二人してここに来るなんて」
俺が何か言うのよりも早く笠原が、
「うん、教室が騒がしかったから来ちゃった」
と言うのを聞いて、平岡は窺うように俺を見た。俺は素知らぬ振りでウインナーを口に放り込む。
「へぇ……、でも何で倉敷がいるの?」
「ちょっと色々と話したかったから」
俺は口に湧いた嫌な感触を水筒のお茶を一口飲んで流してから、訊ねた。
「何を?」
「最近倉敷君、また元気無くなってきたから、ちょっと心配になって」
「元気無いって……?」
「んーと……、何だか毎日手探りで生きてますっ、って感じな……」
「分かりづらいな」
俺は苦笑いして言った。──手探りなのは誰だってそうだろう、と言いかけたが、思いとどめておくだけにしておいた。
平岡はふいに俺に視線を向けて、
「また家庭事情が複雑になり始めたとか?」
「いやいやいや、もううちは至って平和ですよ、はい」
つい全力で否定してしまう。当時の俺の、咄嗟の思いつきだったというのに、そんな大事だと思われているとは。
「そう、なら良いんだけど」
平岡は、そっけなく言った。しかし、そうは言いつつも不安げな部面が垣間見られる表情を、俺は怪訝に思う。
「何か問題でもあるのか?」
「んー、いやあ、ねぇ」
平岡は困ったように笠原へ視線を送った。それに呼応するように、
「……あの頃、倉敷君怖かったから」
それを聞いて、俺は背中にネズミを落とされたようにぞっとした。何故だか、彼女たちを欺いていたことがバレていたような気がしたからだ。欺いたわけじゃない、と思えば思うほど、悪魔に睨まれたような緊張が増してくる。
「え、そんなだったか? 別に、そんな大した事情でも無かったんだけどな」
だが、俺は想像以上に平生の装いで応じた。外装はまともでも、内装は動揺しまくりでは意味が無いことは分かっているが。
すると、笠原は手をぶんぶんと振って、
「あっ、えっと、家の事情で部活休んでた時じゃなくて、むしろそれより前だよ」
「あー、中間テスト明けあたりのことだよ」
と、平岡が同調した。
俺は面食らった。──それは沙実と一切関わりがなかった時期じゃないか。一人で悶々と、変わらない毎日を眺めていた頃の俺じゃないか。
努めて冷静な口調で俺は訊く。
「怖かったって、どういう状態?」
「──考える人の像が考え始めて二十日目入りました! って感じ」
「うーん……、なんとなくそんな感じ」
平岡の喩えに笠原が同意する。俺はドライアイの人がよくやるように、目を思い切りつむった。──分からん。どうしてこの部活は、こんな訳の分からん喩えが流行ってるんだ。
「つまり、どういうことだよ」
「つまんなそう、だったかな」
弁当箱を重ねながら笠原が呟くように言った。ありふれた表現だが、その形容はひどく身近なものに感じる。
「つまらなそう……か」
平岡も納得したように、
「んー、そうだねー、何かよく分からないけど、近寄り難い雰囲気があったというか」
つまるところ、多忙で劇的なように思える平凡な生活の連続に気づき、悪循環して塞ぎこんでいって、叔父の家に赴く直前までの頃の俺は、非常に病んでいるようにみえたと。俺としては、いろんな事に対して集中力が全く無くなってしまったので、叔父のもとに行ったんだが、まさかそんな外見的に表れていたとは──。
「それでその時の状態に、また今、なっていると」
「うん……、何かあったの?」
笠原がおずおずと答えた。平岡も問いただすように、じっと俺を見ている。
心当たりは腐るほどあるし、現在進行形で俺の後ろ側に佇んでいる──が、今回ばかりは打ち明けてもどうにもなるまい。まだ今があの世と無関係の頃だったなら或いは──。
「……別に、何も無い。疲れだよ、疲れ」
俺は頬骨を上げて手を振り、おどけて言ってみせる。そう言ってから、流石にこれは辛辣すぎる返答だろうと自分で思った。もっとまともな解答はでないのか、と優秀になったはずの頭脳を責めたかった。
すると、そうして作った道化の雰囲気を切り裂くように、笠原がぽつんと言った。
「……何でダメなの?」
俺は気管が塞がっていくような感覚に見舞われた。
「ダメって……?」
「前の時、倉敷君がそんな風だったのを見て、何もしてあげなかった……。いろいろと調べてみても、何に悩んでるのかも分からなかったから、そのうちにもどるのかな、なんて思ってたから……、でも、部活来なくなっちゃった時から、倉敷君が日に日につらそうな目になっていくのに気づいて、何だかもう取り返しのつかないところに行っちゃったのかな、って思って、もううちには何もできない、って気づいて、凄い悲しくなって……」
笠原は喋っていくごとに、顔をどんどん伏せていった。俺は背中に銃口を当てられたかのように硬直して、そんな彼女を見ている。勢いこんでつっかえ、その度に陥る沈黙に俺は打ちのめされた。ぞわぞわと押し寄せる困惑と自責の念が、俺の思考の循環を止めてしまった。
俺は逃げ出すように平岡へ視線を向ける。平岡はまた俺のとは違ういたたまれなさを顔に滲ませていた。
「そんなの、もうやだから……、──ねぇ、何かあったの?」
視線を元に戻すと、限界まで潤んだ瞳が俺をまっすぐ貫いていた。
言いたいよ。言ってやりたいさ。できることなら全部ぶちまけて、この暴雨の中全力疾走で家に帰りたい、洗いざらい真実を吐露し尽くして、この脳味噌を沙実もろとも壁に叩きつけてやりたいさ。
でも、君にはどうすることもできない。
まさしく俺は、既に取り返しのつかないところにいるんだから。




