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第十三話

「──申し訳ないけど、無理だ、言えない」

 俺はきっぱりと言ってしまった。もっと、親切に嘘をつけば良かったのに、そうでなければ、もっと優しく言ってやれば良かったのに。そんな批判が俺の脳内をよぎった。

 だが、俺は敢えてこの言葉を選んだ。

 猛烈な勢いの風が、俺と笠原の間を吹き抜けて行ったかのようだった。

 突然、平たい爆発音のようなものがして、思わずそちらを見やると平岡が机を思い切り平手で叩いて立ち上がっていた。

「何でよ! そこまでともちゃんが言ってるのに!」

 ありったけの怒気を孕んだ怒号だった。

「うちにも話して! 大丈夫だよ、絶対に真剣に考えてあげるから!」

 その叫びにゼウスの叱咤に似たものを感じた。何故だか、自分に向けられた言葉な気がしない。目も言葉も俺に向かってきているのに、空の容器に声を投げ入れているように思える。何故だろう──。

 俺は何とか反駁しようと口を開きかけたが、突如、意識の根幹を掠め取られるような感覚に襲われ、目の前が蝕まれる様に現実味を無くしていき、生気が昇天していくように、そうでなければ、重力を突如無くしたかのように、視界が失われていった。

 真っ黒か真っ白か分からない空間で、ただ一つ残った声が反響する。

「──」

 なんと言っているか聞こえない。頭蓋骨に溶け込む響きをそのまま聞いているような感覚だった。曖昧とした空間の中を泳ぐような心地がする。

 永劫とも思える刹那の空白の後、ハンドルを慌てて戻したかのように、俺は我に帰った。

 肋骨あたりの鈍痛と共に、身体が床に転がっている。これはきっと倒れたんだな、と咄嗟に思った。随分と呑気だ、自分。

 女子二人は血相を変えて、駆け寄ってきた。至極当然な反応だな。そんな評価を呑々と下している俺の方が、常軌を逸していると言えるだろう。

「大丈夫!?」

 笠原はちょっとつついたら決壊しそうな程に、涙を貯めた目をしていた。平岡も血の気の失せた顔で、唇を噛んで俺を見据えている。

「あぁ、大丈夫……」

 手を借りながら、俺は立ち上がった。痛み以外はどこも異常が無い。素数も、三十七くらいまでなら一瞬で数えられる。何が起こってぶっ倒れたんだか分からない。まだ視界がややグラつくものの、驚く程に気分は落ち着いていた。

「んっと……、その、ごめん……」

 平岡がしおらしく謝ってきた。

 どうして謝る必要があるのか。平岡に視線を投げかけてからそう言いかけたが、俺の眼球はすぐに石化したように動かなくなった。

 平岡の肩越しに沙実が立っているのが見えたからだ。初めて目視した時と同じ風に、どこか不思議そうな瞳で、俺をじっと見ている。

 やがて、果てしなく深い穴に落とすような声で、沙実はそっと言った。

「保健室に行って」

 少し逡巡してから、今の失神はこいつの仕業だったのかと悟った。さっきのは立派な口実になる、見事な倒れっぷりだった──。

 俺はこめかみに手をあてて言った。

「──やっぱりキツそうだ、保健室行ってくるわ」

 すると、笠原は言葉を一瞬詰まらせて、

「え……、じゃ、じゃあ一緒にいくよ」

「いや、大丈夫、──笠原、先生に言っておいてくれ」

「う、うん……」

 二人は気まずそうに視線を交わした。何が何だか分からないような表情をしているが、人が目の前でぶっ倒れて、数秒後にケロっとして起き上がるという状況に出くわしても、平然としている方がおかしい。

 俺は気の毒に思いながらも振り返りもせず、少しも悪いところの無い身体を引きずるように部室を立ち去った。


 ところが、保健室の先生は癖のある人で、

「ええ? 体調が悪いって?」

「……一応、そうです、さっきも少し失神して……」

「ならさっさと帰んなさい」

「えっ! 少し休んでいくだけで良いんですけど!」

「ここは休憩室じゃなくて、保健室なの。本気で体調が悪いなら、さっさと帰って病院に行きなさい」

 そんなこと言ったら、保健室の存在理由が無くなるんじゃないか。

「どうしてもだめですか」

「ダメ」

 そういうわけで、俺は早退に必要な紙きれを持たされて追い出されてしまった。きっと、色々と口実をつけてサボりに来る奴が多いんだろうな。俺もその一人と言えるかも知れないが。

 紙切れを教科担当に出したり、荷物を取りにいく必要があるので、小走りに教室へ急ぐ。

 引き戸を開けると、クラスの半分以上の視線が俺に降り注いだ。その視線の中に、笠原のものも混じっていると思うと、あたかもこの部屋が毒ガスで充満しているような心持ちになり、一刻も早く用を済ませ退出しなければならないような気が起こった。

「おう、雨だから気をつけろ」

 話が分かる教師だったので、あっさりと手続きは終わった。クラスの大半は、もう板書に集中して顔を伏せている。

 俺は鞄を持ち上げて、教室を出て行こうと扉に向かいかけて本当になんとなく、振り返ってしまった。

 果たして笠原と目があった。そのぼんやりとしていた瞳が、はっきりとした光を帯びた。

 ごめん、と心の中で謝って、俺は背中を向けた。


 家路は土砂降りだった。屋根のある場所に入っても、端に近ければ跳ねる水滴で制服が侵食されていく。俺は傘もカッパも用いずに、そのまま自転車で豪雨の中を駆けた。こうすることで、放置してきてしまった笠原と平岡への罪を洗い流してくれる気がしたからだ。

 視界が雨で霞んで、突然横道から現れた自転車に危うく激突しかけた。何とか回避して、また漕ぎ始めるのに一苦労だった。いちいち、通りすがりの人から好奇の視線を食らう。俺は文鎮でも入ったかのように重い脚で、ひたすらそれから逃げるように進んでいった。

 家に到着すると自転車は適当に停めて、押し入るように中へ入った。

 俺はそこで思考停止して玄関に佇む。まるで、雨の酷さに参って思わず他人の家に入ってしまったような体裁だ。身体にまとわりついた水が、じわじわと俺の足元に溜まりを作っていく。雨に打たれすぎて、肌が凍りついているようだった。

 大分疲れた。意図せずとも息が大きくなり、肺がしめつけられるような感覚がする。下手したら体中に滴る雨水に負けて、そのまま倒れこんでしまいそうだった。

 俺はしばらくしてから、安堵したように息を吐く。

 それに呼応するように、家の奥から沙実が歩み出てきた。相変わらず夜空の様に真っ暗な瞳をしている。

「──久しぶりだな」

「うん……、私はずっとあなたを見ていたけどね」

 皮肉な程に、沙実のまとう制服は綺麗だった。このうんざりするほどの多湿と中途半端な気温の中なのに、衣替えという概念が無く冬服のままである彼女だが、見た目はそれほど暑苦しくも思われない。──俺の中の存在だから、当たり前か。

「……少し、休ませてくれ」

 予想以上にしんどいことに気づいた俺は、そう言うと玄関の段差に腰を掛け、勢いで仰向けに寝転がった。軽く埃が舞い上がる。近いうちにまた掃除をしないと──。

 沙実は何も言わずに近寄ってきて真横に座り、いつもより重めではあるが根底にはいつもの明朗さが残った声で言った。

「そういうことなんだよ」

「そういうこと?」

 俺は喘ぐように聞き返した。

「それが、本来のあなたの実力。こんな雨の中、肉体の限界を無視して全速力で走ったから、疲れ果てちゃってるの」

「……なるほど、いつもよりも脚が動かないと思ったら、そういうことか」

「そう、あなたのいつもは、私と一緒に居るいつもだもん」

「どういう訳だ、昨日は、というか今朝だって、俺はこのくらいのスピードで走って平気だったのに、今はこんなに疲れてるんだよ」

「だから、そういうことなんだよ」

 俺は目をつむる。息は大分整った。体中を伝う水の冷たさが非常に不快だ。

「だから、そういうことって、どういうことだよ」

「……あなたが、智恵っていう子に責められたとき、私は感じたの……」

 平岡に、怒鳴られたときか。

「あの怒気は間違いなくあなたに向けられていたのに、何に向けられていたのか理解していなかったの……。つまり、どういう事か分かる?」

「──分からねえよ」

「あなたの中で、空洞化が、完成しそう」

 空洞化。俺は脳内でその言語を反芻した。そう、確かゼウスが最後に口走った言葉だ、朧気ながら覚えている。確か、『お前に空洞化が始まりつつある、そのままでは昇華できない』と言っていた。

 空洞化ってなんだよ。昇華ってなんだよ。その時は、分からなかった。同時に、分かりたくなかったので、忘れたふりをしておいた。そして、本当に忘れていた。今、完全に思い出された。

 その過程を一瞬で思い起こして俺は呟くように言った。

「空洞化ってなんだよ」

「あなたの自我が消滅しつつあるの。だから、何も考えてない状態が多くなったり、自分に言われていることなのに、何だか他人が言われてるような気分になったりする──、今日のあなたみたいにね」

 教室で笠原にぼうっとしていると指摘され、平岡の怒りが俺を筒抜けていったような感覚──。

 そんな馬鹿な。俺は、トークショーでの冗談話でも聞いている気分だった。

 現実味のない動揺の中で、俺は訊く。

「そ、それが俺の身体が弱くなったことと何の関係があるんだよ」

「──空洞化っていうのは、私があなたへの干渉を頻繁にして、あなたがそれに対して満足できてないから、私の力があなたの身体を素通りして精神に蓄積されていくことで起こるの。つまり、あなたの自我に私の自我がだんだんと溜まっていくっていうことなんだけど、分かる?」

「……へぇ」

 俺は素っ気無く返事をした。俺の身の上なのに、どういう訳か実感がない。実感がないということが、まさにその空洞化に於いての実感という、訳の解らん状況なんだが、しかし恐れなど全く感じなかった。どうせどうにかなる、とさえ思っていたりするかも知れない。

「空洞化が進むと、私とあなたの関係の中では自然と私の存在が優位になってくる。このままだと、私はあなたの存在を押し殺しちゃう──、だから、今はスイッチを切っているような状態にしてるの。そうすれば、侵攻は免れるから」

「なるほど……」

 沙実の力が俺の精神に食い込んで、俺というものを圧殺しようとしている。だから、その力の供給をストップしているということらしい。

 それきり沈黙が場に席巻した。沙実をちらりと見やると、何か言いたげな表情をしていた。だが、何を言い出すわけでもない。俺はただ黙って何か福音になるようなことを言ってくれるのを待っていた。



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