神学、そして学院の人気者
[947年、267日、午前]
神学の授業は、午前の半ばだった。
アヴィスは時間の計算を間違えた。講義室を探して廊下を二度曲がり、階段を上ったのに、扉の前で確認してみると、まだ三十分も残っていた。
講義室の中は空だった。
アヴィスは少しだけ立っていて、それからまた階段を下りた。
学院の奥に庭があった。
数日通っているうちに、少しずつ道にも慣れてきていた。庭は大きくなかった。石のベンチがいくつかと木々、中央には小さな噴水がある。この時間帯には、人はあまりいなかった。
アヴィスはベンチに座った。
鞄を膝の上に置き、今日の授業前に見直そうと思っていたメモを取り出した。
セリウス教授が、どんな授業をするのかは分からなかった。
神学概論の本を読んでみたが、祈りについての記述は思っていたより少なかった。聖国が閉鎖的だから、記録そのものが多くないのかもしれなかった。
準備はしてきた。
けれど、準備ができているのか、できていないのかは分からなかった。
噴水の音が静かに聞こえていた。
風が吹いた。
銀に近い白い髪が揺れた。アヴィスは手でそれを耳の後ろへ流し、またメモへ視線を落とした。
—
「あれ、この前の剣術の授業にいた人じゃないですか?」
顔を上げた。
男学生がふたり、庭の入口に立っていた。
剣術の授業で見た顔だった。
アヴィスを見つけると、ふたりは互いに短く目を合わせ、遠慮なく近づいてきた。
「そうですよね? 木剣を持つの、苦戦してた人」
アヴィスはうなずいた。
男学生たちはアヴィスの近くのベンチに腰を下ろした。
それから、アヴィスを上から下まで眺めた。
「髪の色、本当に珍しいですね」
ひとりがそう言って、手を伸ばした。
許可を求めるわけでもなかった。
ただ、アヴィスの髪にそっと触れた。
アヴィスは固まった。
強く嫌だと思ったわけではなかった。
「本当に柔らかい。おい、来てみろよ」
「何だよ」
隣にいた男学生が近づき、アヴィスの髪をそっと撫で下ろした。
「その色、生まれつきですか? 染めてるわけじゃなくて?」
「元からこの色です」
「本当に?」
「目も見ろよ。金色だ」
「本当だ」
男学生が身をかがめ、アヴィスの目をのぞき込んだ。
アヴィスは少しだけ後ろへ下がったが、ベンチの端だったので、それ以上は下がれなかった。
そのあいだに、庭へ入ってきた別の男学生がふたりを見つけて近づいてきた。
「何だ、何かあるのか?」
「こっち来てみろ」
新しく来た男学生もアヴィスを見ると、目を瞬かせた。
「誰?」
「アヴィスっていって、剣術の授業一緒に受けてる。髪と目の色が本当にきれいなんだよ」
「本当ですか?」
彼も特に迷うことなく、アヴィスの髪へ手を伸ばした。
アヴィスはすでに、両側から髪を触られていた。
どうしていいか分からなかった。
振り払うべきなのか、そのままにしておくべきなのか。
とりあえず、じっとしていた。
嫌な気分ではなかった。
「かわいいですね」
「本当に」
「どこの出身ですか?」
「……エルデル」
「エルデルに人間っているんですか?」
「……たまに」
男学生たちがあれこれ尋ねているあいだに、またひとり来た。
いつの間にか、アヴィスの周りには四、五人ほど集まっていた。
アヴィスはその中で短く答え、髪を触られればそのままにし、目をのぞき込まれそうになると少し後ろへ下がることを繰り返した。
「何歳ですか?」
「……」
「え?」
「ただ……よく分かりません」
男学生たちは互いに顔を見合わせた。
妙な答えだったが、アヴィスの表情があまりに淡々としていたので、それ以上は聞きづらい空気になった。
そのときだった。
「ねえ」
庭の入口から声がした。
女学生がふたり、入ってきていた。
歩くのは速く、目的のある足取りだった。男学生たちではなく、最初からアヴィスを見ていた。
「どいて。小さい子を囲んで何してるの」
女学生が男学生たちのあいだに割って入った。
男学生たちはきょとんとした顔で下がった。
女学生はアヴィスを上から下まで見た。
一度。
二度。
それから後ろにいたもうひとりの女学生を振り返った。
「見て」
「……うん」
「私の言った通りでしょ?」
「……うん」
アヴィスには、ふたりが何を言っているのか分からなかった。
女学生のひとりが男学生たちの中からアヴィスを引き寄せた。
そして、許可を求めるわけでもなく、アヴィスの髪をそっと撫で下ろしはじめた。
手を離さなかった。
「これ見て」
「分かってる。私にも見えてる」
もうひとりの女学生も近づいてきた。
アヴィスの髪へ、また別の手が伸びた。
「この色、何?」
「陽に透けると本当にきれいじゃない?」
「目も」
女学生のひとりが、アヴィスの顔のほうへ身を寄せた。
アヴィスはどこを見ればいいのか分からず、ただ正面を見た。
「金色じゃない。本当に」
「きれい……」
女学生たちは互いを見て、アヴィスを見て、また互いを見た。
何かをこらえているような顔だった。
さっきまで男学生たちにどけと言っていた女学生たちが、今は自分たちも許可なく触っていた。
アヴィスはそれを指摘するべきなのかと思ったが、あまりにも自然に進んでいたので、言葉が出てこなかった。
「名前は?」
「……アヴィス」
「アヴィス」
女学生のひとりが、その名を静かに繰り返した。
それから、もう我慢できないというように、両手でアヴィスの頬を軽く包んだ。
「かわいい……」
「ねえ、今何してるの」
「分からない。手が勝手に」
アヴィスは頬を包まれたまま、目を瞬かせた。
どうしていいか分からなかった。
振り払うのも変で、そのままでいるのも落ち着かなかった。
女学生は手を離した。
すると今度は、アヴィスの手を取り、自分の手と並べて比べた。
「手も小さい」
「本当だ」
「指も見て」
押しやられていた男学生たちが、また入り込もうとした。
「俺たちが先に声をかけたんですけど」
「それで?」
「……」
「どいて」
男学生たちはまた押し戻された。
アヴィスは女学生と男学生のあいだで、あちらへ引かれ、こちらへ引かれながら、ただそこにいた。
どうしていいか分からなかった。
嫌ではない。
けれど、落ち着かなかった。
トリカがこうするなら慣れている。
でも知らない人たちにされると、落ち着かなかった。
「何の授業を受けるの?」
「……神学です」
「神学? あそこ、人いるの?」
「……私もよく分かりません」
女学生たちは一瞬止まり、それから笑い出した。
「かわいい。どうしよう……」
「明日もここに来る?」
「……分かりません」
「絶対来て」
アヴィスは何と答えればいいのか分からず、じっとしていた。
そのとき、どこかで鐘が鳴った。
授業の始まりを知らせる音だった。
アヴィスはその音を聞き、鞄を取った。
「授業に行かないと」
「もう?」
「……はい」
アヴィスは人の輪を抜け出した。
後ろから、明日も来てという声が聞こえた。
アヴィスは短くうなずき、足を速めた。
庭を出ながら、ひとつ息を吐いた。
静かなほうがよかった。
—
神学の講義室は、本館のいちばん奥にあった。
扉を開けた。
小さな部屋だった。
マナ理論の講義室の十分の一にも満たない広さだった。
丸い机がひとつと、椅子がいくつか。
窓辺から光が差し込んでいた。
そして学生は三人だった。
アヴィスを含めて。
アヴィスは少しだけ足を止めた。
ふたりの学生がアヴィスを見た。
ひとりは少し年上に見える人間の男で、もうひとりはエルフの女だった。
どちらも静かな顔をしていた。
アヴィスはそっと席についた。
三人だった。
マナ理論は、講義室の半分以上が埋まっていた。
剣術は、庭がいっぱいだった。
けれど、ここは三人だった。
アヴィスは部屋の中を一度見回し、それから机の上へ視線を落とした。
机の上には何もなかった。
本も、資料もない。
ただの机だった。
しばらくして、セリウスが入ってきた。
部屋の中を一度見回し、机の前に立って、三人を順に見た。
言葉はなかった。
ただ、見ていた。
その目の前で、アヴィスは自然と姿勢を正した。
セリウスは椅子を引いて座った。
机の上には何も置かなかった。
本も、紙もない。
ただ座った。
「神学を学びに来た理由は何ですか」
最初の言葉は、授業ではなく質問だった。
人間の男が先に答えた。
聖国と交易をする家の者なので、文化を理解したいのだと言った。
エルフの女は、古代聖国の文献に興味があると言った。
セリウスはうなずき、アヴィスを見た。
アヴィスは少し考えた。
「……祈りを知りたいからです」
「祈り」
セリウスはアヴィスをしばらく見た。
その目が少しだけ変わったが、何かを言うことはなかった。
「そうですか」
そして、ゆっくり言った。
「神に願うとは、どういうことだと思いますか」
部屋の中が静かになった。
人間の男が先に答えた。
神に仕える行為だと言った。
エルフの女は、神と通じる方法だと言った。
アヴィスはその答えを聞きながら、自分の答えを考えた。
神に願うということ。
自分は神に願ったことがなかった。
けれど、自然のマナを引き寄せるときの感覚が浮かんだ。
無理に引っ張るのではなく、ただ流れているものを受け入れることに近かった。
すでにそこにあるものを呼ぶこと。
強いるのではなく、お願いすること。
神に願うというのも、そういうものではないのだろうか。
自分の中にあるものではなく、すでにそこにあるものへ手を伸ばすこと。
「……分かりません」
アヴィスが言った。
セリウスがアヴィスを見た。
「引っ張って使うものではない気がします。もうそこにあるものを、受け入れることに近い気がして。でも、それが正しいのかは分かりません」
部屋の中が、しばらく静かになった。
セリウスはアヴィスを見ていたが、やがてゆっくり視線を窓の外へ移した。
「正しいかもしれません」
それだけ言った。
授業は、そのように進んでいった。
セリウスが問いを投げかけ、三人が答え、セリウスが短く受け止める。
講義ではなかった。
対話だった。
けれど、その対話が終わるたびに、何かが少しずつ変わっていくような気がした。
積み上がるわけでも、結論が出るわけでもない。
それでも、どこかが少しずつ開いていくような感じだった。
授業が終わるころ、セリウスが言った。
「来週も同じ時間です」
それで終わりだった。
アヴィスは席を立った。
ほかのふたりの学生も荷物をまとめて出ていった。
セリウスは窓辺に座ったままだった。
アヴィスは少しだけセリウスを見た。
「……先生」
セリウスが振り返った。
「祈りと自然のマナを引き寄せることは、本当に似ているんですか?」
セリウスはしばらく黙っていた。
「分かりません」
短い答えだった。
けれど不思議と、それは嘘には聞こえなかった。
「ですが」
セリウスはゆっくり言葉を続けた。
「似て見えるのなら、理由はあるのでしょう」
アヴィスはその言葉をしばらく胸の中で持ってから、うなずき、講義室を出た。
宿へ戻る足取りは、少し軽かった。
—
宿へ戻ると、トリカとカルゼンがいた。
トリカは長椅子に座っていたが、アヴィスを見るなり立ち上がった。
「おかえり。どうだった? 神学の授業、どうだった?」
「……大丈夫でした」
アヴィスは鞄を下ろし、トリカの隣に座った。
少しのあいだ、何も言わなかった。
トリカがアヴィスの顔をのぞき込んだ。
「どうしたの? 何かあった?」
「……いいえ」
アヴィスはしばらく考え、それから静かに言った。
「触ってくれますか? 髪……」
トリカが固まった。
カルゼンも本から目を上げた。
トリカがアヴィスを見た。
アヴィスは視線を下げていた。
突然で、しかもアヴィスのほうから言った言葉だった。
「……どうして?」
「ただ……」
カルゼンも一瞬、何かを理解したような顔をしたが、静かにまた本へ視線を戻した。
トリカが静かに笑った。
「うん、うん」
そして手を上げ、アヴィスの髪をゆっくり撫で下ろした。
そっと、慎重に。
いつものトリカの手つきで。
アヴィスは目を伏せたまま、じっとしていた。
心地よさそうだった。
部屋の中が静かになった。
窓の外では、ラグノスの夕暮れが降りていた。




