38 黒猫、隠密スキル『七化(常の形・18歳)』発動
「まだ一週間もあるんだ。今からそんなにそわそわしていたら疲れるよ」
「だって、一生に一度しかないデヴュタントですよ。緊張しますよ」
「気持ちは分かるけど」
「あ、そうです。うっかり忘れていましたけど、ファーストダンスのお相手はどなたですか? お母様が後でお兄様に聞いてみなさいって言ってました。お兄様が話をつけてくれてるからって」
あれ? 夏兄様の頬が引き攣りました。どうしたのでしょうか?
「ダンスの相手は刀矢殿に頼んでいるから心配ないよ。蒼真には婚約者がいないから頼めないしね」
「そうなのですね。ありがとうございます、お兄様」
そういえば、堕天使とはかれこれ一年以上は会っていないと思います。
別荘に行った時の堕天使の態度には戸惑いもありましたが、いつの頃からか我が家に顔を出さなくなっていました。
何かあったのでしょうか?
――いいえ、違いますね。
堕天使と会おうが会うまいが、私には何の問題もありません。はい。
それはそうと。
先の春で無事に学園を卒業し、私も今年で十八歳になります。
この国では十八で成人貴族の仲間入りとなるので、遂に私も子どものフリをしなくていいのです。
くぅ~、赤ちゃんから学生までやり切りました!
思い返せば長かったような短かったような。
というわけで、成人貴族のお披露目となる王宮舞踏会が近づいています。
卒業間近になってくると、クラスでは舞踏会の話題で盛り上がりました。その舞踏会で結婚相手と出会う可能性も十分あることから、フリーの女子たちは乙女の瞳をして未来に思いを馳せて語り合っていたものです。
前世では、そんな機会もないまま終わりましたからね。
どんな出会いが待っているのかと思うとドキドキで夜も眠れないのです。
お父様のように家族を大切にしてくれて、夏兄様のように情が深い優しい男性と巡り合えたら最高ですね!
「お兄様、どなたが独身か教えてくださいね。絶対ですよ」
「あぁ、はいはい、任せておきなさい」
「――どうして棒読みなのですか」
「気のせいだよ気のせい」
「約束ですよ」
「分かっているよ」
「はい!」
※ ※ ※
いよいよ、待ちに待った舞踏会の日がやってきました。
今日のドレスは、お母様がこの色になさいなと推しに推して勧めてくれた上品な光沢のある今春色で仕立てました。
デザインはお任せだったのですが、ちょっと気にしていた幼すぎる印象はなく、それでいてとても可愛く仕上がっていたのでお気に入りです。
ウエスト部分をキュッと絞った細身のデザインで、ダンスの邪魔にならないように、フリル部分はくるぶしを隠すくらいの丈に収まっています。
一緒に注文したヒールは光沢のある黒曜石のような色味で、足首部分に留め紐があるエレガントな仕上がりに。髪飾りやネックレス、イヤリングの統一されたデザインも可愛くて、気分は上々です!
「こんばんは、皆様。今夜のエスコートはお任せください」
「よろしく頼む、刀矢君」
「はい」
「よろしくお願いします」
「ああ」
馬車が到着すると、早速刀矢様が挨拶に来てくださいました。
近衛騎士服でびしっとキメていらっしゃいます。
刀矢様とはここで一旦お別れです。
舞踏会が始まったらファーストダンスのために迎えに来てくださるそうです。
お。夏兄様が清花様を連れて戻ってきました。今夜一緒にデヴュタントとなる清花様をエスコートするためです。婚約者は、殿方の家族と一緒に入場するのがこの国の仕来りなのだとか。
「ご機嫌よう、清花様」
「ご機嫌よう、冬瑠様。うふふ。素敵なドレスですわね」
「清花様も素敵ですよ。お兄様が贈ったドレスですよね!」
へへぇ。夏兄様、清花様に似合う色をチョイスするなんて見事ですね。
清花様が夏兄様と見つめ合いながら頬を染めています。
こんなにラブラブなんて羨ましい限りですよ。
「さぁ、みんな行こうか」
入り口でデヴュタントの白い花飾りをもらって、いよいよ会場入りです。
我が家の家名が声高々に読み上げられると、かなりの視線が集中しています。
舞踏会ってこんな雰囲気なのですね。たじたじですが……。
清花様のように私も一緒に入場してもらえる殿方と早く出会いたいですね。
あ、ヴァレット伯爵家の名が読み上げられました。
刀矢様が父君たちと一緒に入場されています。
第七師団長を経て近衛騎士団長に就任された父君も近衛騎士服での登場でした。引退された前団長様の面影がある凛々しいお顔立ちをされています。
実力主義の近衛騎士団の団長に親子で任せられるなんて凄い血筋ですね。
きっと刀矢様も実績を積んでいかれて、後の団長様かもしれません。学園での成績も抜きんでていたそうですから。
「(冬)」
「(はい、お兄様)」
何か話があるのか、夏兄様が私を小声でそっと呼んだ時、会場のざわめきが大きくなったのです。
「(清花様、何かありましたの?)」
「(クロイツヴァルト様御一家が入場されたのですわ)」
あぁ、どこへ行っても目立つというわけですか。
はいはい、そうですか。
「(分かっているだろうけど、絶対、絶対、身分が上の方に反論はいけないよ。それと、口を挟むのも厳禁だからね?)」
「(心得ています)」
「(くれぐれも、くれぐれも子どもの頃みたいな失態はご法度だよ)」
うっ……殿下と絢音様の前で思わず堕天使の足を踏んだことですよね……。
「(はい、お兄様。絶対そんな失態はしません)」
「(いいね。絶対だよ)」
「(はい)」
今夜の夏兄様は、やけに念を押してきます。
まぁ……前歴があるので言い訳はできませんが、もう立派な大人なのです。同じ過ちを繰り返すのは恥ですからね。しっかりと胸に刻んでいます。
さぁ、開会の時刻が迫ってきました。
続々と国中の貴族が集まった会場は、熱気が渦巻いています。
ざわざわと雑談が行われている会場内に、楽団からテンポの良い短い音楽が流れてきました。
レコードがある時代でも、王宮舞踏会は楽団の生演奏でダンスを踊るようです。
聞くところによれば、レコードの音楽で夜会を開く家もあったりと様々だとか。
ちなみに我が家は楽団にお願いしているのです。我が家の夜会が二週間後に予定されています。
音楽が終了すると、王族方の入場が告げられました。
しんと静まり返った会場に入場される王族方を、頭を垂れてお出迎えです。
初めて拝聴する国王陛下のお声。
陛下の挨拶が終わると、いよいよ舞踏会が始まりました。
「先に陛下方へご挨拶に伺おう」
「ええ」
陛下の所へ行くのですか! うぇぇ……緊張してきました。
緊張のあまり右足と右手が同時に出そうになりましたよ。
「うふふ。先ほど手と足がおかしな動きをしましたわよ?」
「うっ……気のせいですわ」
「くくっ。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
「は~い」
父たちの後について行き、遂に陛下と王妃様との謁見です。
「今宵はよく来てくれた」
「陛下方におかれましては、ご機嫌麗しゅう」
「そちらの可愛らしい方が、冬瑠様ね?」
「お初にお目にかかります。アーレント侯爵が娘、冬瑠アーレントと申します。どうぞお見知りおきくださいませ」
ひぃぃ~~。早速ご挨拶しました。かなり緊張します!
「面を上げてくれ」
近くで拝見した御二方は、威厳と気品に溢れています。
でも、御二方とも優しい笑顔で迎えてくださっていました。
すると驚いたことに、畏れ多くも王妃様が私の右頬を包み込むように手を添えられたのです。
そして、私が幾度となく情報を運んで来たことで陛下をはじめ、玖郎殿下や多くの民が救われたと、もったいなくも陛下と王妃様から感謝のお言葉をいただき、傍におられた両殿下からも再度お言葉をいただきました。
……ですが、ひとり息子の人生を身内に狂わされた王妃様のお気持ちは計り知れません――。
「宴を楽しんで行ってくれ」
デヴュタントの祝いのお言葉もいただいた後、謁見の時間も終わりました。
それを見計らったように、父のもとへいろんな方が挨拶に訪れて来ています。
私もデヴュタントのお祝いをしてもらいながら、次期侯爵夫人となる清花様の紹介も一緒に終わりました。
「清花、早速踊りに行こうか」
「はい」
「冬ちゃん、ヴァレット様が迎えに来てくださるまで一緒にいましょうね」
「はい、お母様」
生涯に一度のファーストダンスの時間が迫ってきました!
ダンスフロアの様子をうかがってみれば、楽団の音楽に合わせてふわふわとドレスの花が咲き乱れています。殿方たちの貴族服の飾りも様々で、女性たちのドレスも色とりどり。
あ、同級生たちが何人か踊っています。婚約者がいる子息たちもそうですが、フリーの令嬢も楽しそうに踊っています。
刀矢様が迎えに来てくださったら、私もみんなの様に踊るのですね。
でもその前に。
「お母様、先に喉を潤してきます。緊張で喉がカラカラです」
「あらあら。緊張しなくても冬ちゃんなら大丈夫よ。ダンスは太鼓判をもらってるでしょう?」
そうなのです。刺繍とか料理は苦手なのですが、ダンスは得意なのです。
――何かと乱入してきた堕天使が相手での練習になりましたけどね。嫌味を繰り返す堕天使を見返すために頑張りましたよ。
見てなさい、堕天使。私の実力を披露してやりますから!
でも今はそっちの緊張ではなく。
「謁見とご挨拶で喉が渇きました」
「だったら軽食コーナーはあちらにあるわよ。あまり遅くならないようにね」
「はい、お母様」
王宮だけあって、軽食も凄いのでしょうか。
人混みをすり抜けた先にあったものは。おぉ、やっぱり!
軽食コーナーには、目移りしてしまうくらい美味しそうな食べ物がずらりと並んでいました。
あ、このひと口ケーキ美味しそうです。あ、このフルーツサンド美味しそう。
あ、この焼きチーズがトッピングされたクラッカー美味しそう。
グラスに盛ってくれるソフトクリームが美味しそう!
これは、ウィスキーボンボンでしょうか? あ、美味しそうなショコラ発見!
あのクレームブリュレも美味しそう! アップルパイも食べてみたい!
はっ⁉
美味しそうな軽食たちに気を取られて忘れるところでした!
私は食べに来たのではないのです。
とにかく喉を潤して、大事なファーストダンスに備えないと。
レモンソーダ水を飲んでから――その前にちょっと夜風にあたりたいですね。
なんだかじわじわと緊張してきました。
母の傍をうかがってみたら、まだ刀矢様は来ていなかったので足早に王宮庭園へ向かいました。会場の喧騒から離れると、少し落ち着いてきたようです。
大丈夫、大丈夫、ダンスは得意だから大丈夫。
自分に暗示をかけてぇ。深呼吸。
へ?
背の高い生垣の向こうから不穏な会話が――。
「さっき確認した黒髪よ。これで一刺しするだけで貴女の役目は終わり」
「……はい……」
「失敗すれば分かっているわよね。貴女の両親がどんな目に遭うか心しなさい」
「どうかっ」
「今は成功を第一に考えなさい」
「……畏まりました――」
一刺し?
黒髪って、もしかしなくても私たちの事――。
でもどうしたら……。
今私がここで問い詰めても、人質の命が危険に晒されるのは明白です。
そうですね。私一人で突っ走っても碌なことにならないと思うので、お父様たちに知らせないと。
三人のうち誰かの命が狙われていると考えて間違いないはずです。
その場からそっと足を忍ばせて立ち去り、会場へ戻ってお父様に伝えようと思いましたが、挨拶に訪れている人たちの応対に忙しそうです。
だったら夏兄様に相談しないと。
あ、夏兄様と清花様発見!
うぅ。じれったいですね。
早くダンスが終わらないかと二人に視線を送っていると――。
どんっ!
え?
「きゃぁぁ!」
背中に何かがぶつかったと思ったら、突然近くから悲鳴が上がったのです。
まさか、狙われたのは私⁈
さっきの人が襲いに来たのですか⁈
慌てて振り返ったら、一人のご令嬢が床に倒れこんでいました。
もしかして、間違えて刺されたのでしょうか‼
と思ったのですが――。
なんだか雰囲気が違います。
「何をなさいますの!」
そのご令嬢が私を睨んで叫んだように見えました。
気のせいかと思ったのですが、全く見覚えのないそのご令嬢の両脇にいた二人のご令嬢も私を睨んできたのです。
一体何事でしょうか?
「奏香様に無礼を働いて、ただで済むとでも思っていて!」
「突然暴力を振るうなんて、なんて野蛮な方かしら」
「っ、痛いですわ……足を挫いたようですわ……」
あれ? この鼻にかかったような声を、いつかどこかで聞いたことが――。
「奏香様っ、ああ、おいたわしい」
「ちょっと貴女。何をぼさっとしていますの。この責任をどうお取りになるつもりでして?」
「そうですわ。パウルス公爵家のご令嬢に狼藉を働いたのですのよ。不敬罪に問われても仕方ないことですわよね!」
目立って仕方ないダンスフロアの近くだったことが災いし、謂れのない事で口々に私を責めていらっしゃる所為で、周りの方々の視線が私に集中しているのが分かります。
「何か誤解をなさって――」
「よくもぬけぬけと。言い逃れする気ですの!」
誤解を解こうと試みましたが、相手は聞く耳を持たれません。
足を挫いたと仰る公爵令嬢様は立ち上がることができないのか、床に座り込んだまま睨みつけてこられます。
両脇のお二人は立て板に水のように捲し立ててこれられるので、口を挟もうにも私の声を遮ってしまって喋ることもできません。
こんな事をしている場合じゃないのに困りました。一体どうしたら……。
”冬にとって良くない人間がいたんだ”。
”私が何かしてしまったのですか?”。
”いいや。そういうわけじゃないけどね”。
ふと、あの時の夏兄様の話を思い出しました。
もしかして、目の前のこの人の事だったのでしょうか?
要するにこれはつまり、意図的に私を犯人にしたいのですよね。
えぇ? 私なんかを陥れて何の得があるのか想像もつきません。
「謝罪の一言もないなんて何様のつもりですの!」
えっと、ちょっと思ったのですが。
こんなに騒いでいても、周りの人は公爵令嬢様を助け起こそうとする人がいないのです。レディが倒れていたら、周りの殿方なり、壁際に控えている騎士様なりが助け起こしてもよさそうなのですが、誰一人来ません。
こちらに結構な数の視線が集まっているのですが、誰もが様子をうかがうばかりなのです――。
うぅむ。もしかして、公爵家と侯爵家の問題なので下手に口を挟めないという事でしょうか?
社交界とは、貴族社会とは、本当に世知辛いのですね……。
「ちょっと! 聞いていますの!」
余計なことを考えていたら怒られました。
でもです。こちらの言い分は一切聞いてくれないこの状況をどうしろと。
「婚約の申し入れを断られたからですのね!」
え?
「身の程知らずにもクロイツヴァルト公爵家に婚約の申し入れをして断られたものだから、奏香様に嫉妬しての事でしょう!」
「間違いありませんわ。奏香様がクロイツヴァルト様と婚約するのが妬ましいのですわ!」
堕天使がこの人と婚約するのですか?
そうだったのですね。
堕天使が我が家に来なくなったのはこのため?
夏兄様と友達なのだから我が家を訪れても不都合はないはず――もしかして、私がフリーだから誤解されないように控えていた。きっとそうなのでしょうね。
でも何故、我が家が婚約を断られたことになっているのでしょうか?
もしかして、お父様たちが勝手に‼
「その腹いせに狼藉を働くなんて恥を知りなさい!」
という事は――あれ?
辻褄が合いませんね。
堕天使との婚約が決まっているなら、どうして私を陥れる必要が?
――今、ふと思い出しました。
この声、やっぱり聞いたことがあります。
校舎裏であの伯爵家の男と話していた相手だったような。
「どうしたんだ、冬」
「あ、お兄様」
「冬瑠様、何がございましたの?」
「それが――」
「部外者は引っ込んでなさい!」
またしても私の声を遮ってきました。
どうあっても、公爵令嬢様は私を陥れたいようです。
「我が妹が何をしたと仰りたいので?」
「見て分かりませんの? 貴方の目は節穴ですわね。そこの無礼者が私に乱暴を振るいましたのよ。殿方に拳を向けるような粗野な方ですものね。野蛮極まりない輩ですわ。私は足まで挫いたのですわよ。どう責任を取るつもりでして?」
――夏兄様が侮辱されたのはいただけませんね。
殿方に拳を向ける――確かに軽はずみでした。
堕天使と校庭で取っ組み合いをしたあの事でしょうね。あれは結構な数の生徒に目撃されましたから。
非常に堕天使に対して腹が立ちますが、軽率だった責任は私にあります。
だからと言って、このまま泣き寝入りはどうかと思うのですよ。
「先ほどから私の言い分は何一つ――」
「お黙りなさい! この期に及んで口答えまでする気ですの!」
とそこへ、硬い表情をした年若い男性が人垣の中から出てこられました。
その人物に気づいた取り巻き令嬢の一人が驚いた顔をしています。
「身内の無礼をお許しください。この謝罪はまた後ほど」
「承知した」
夏兄様が謝罪を受け入れると、その男性が硬い表情のまま夏兄様と私に目礼した後、この場から令嬢を引きずって立ち去って行きました。
それに遅れて、別の場所から現れた父くらいの歳の男性が同じように謝罪され、もう一人の取り巻き令嬢を引っ張って立ち去られたのです。
床に座り込んだまま、この場にひとり残された公爵令嬢様は何が起こったのだと言わんばかりに目を白黒させています。
「何をしている」
そのひと声が聞こえてきただけで、今まで傍観していた周りからもざわめきが起こりました。
――この声は、紛れもなく堕天使です――。
諸悪の根源の登場ですよ‼




