第2話 自由に空も飛べるはず
夜が明けた。
俺を狙っていた狼たちは、炎を見るやいなや木々の奥へと消えていった。
野生動物が火を恐れるというのは本当のようだ。
命は助かった。
助かったのだが、だからといって状況が良くなったわけではない。
俺――山田大輔、三十八歳。
異世界転生初日の夜を、狼に襲われながら森で過ごし、どうにか朝を迎えた男である。
普通ならここで、朝日を浴びて「生きているって素晴らしい」とか思うのかもしれない。
だが、俺が最初に思ったのはそれではなかった。
尻が寒い。
夜風どころか朝の空気まで、俺の尻に直接挨拶してきている。
「……これはひどいな」
改めて自分のズボンを確認する。
尻の穴を中心に、ズボンが丸く焼け焦げていた。
正確には、丸いというより、爆心地みたいになっている。
幸運だったと言うか、不幸中の幸いなのは、火が出たにもかかわらず俺の尻は火傷ひとつしていないということだ。
おそらくだが、魔法に対して耐性があるらしい。
さすがに自分の尻から出した炎で火傷するようでは、魔法使いとしてやっていけないということだろうか。
いや、そもそも尻から魔法が出る時点で、魔法使いとしてやっていけるのかという問題はある。
そこは考えないことにした。
考えたら負けだ。
問題は服の方だ。
こちらはまったく耐えきれていない。
ズボンがすべて焼け落ちてボロボロになるのは回避できたようだが、尻が空気に触れてスースーするのはいただけない。
右腕も狼に引っかかれたところがズキズキする。
血は止まっているようだが、痛いものは痛い。
つまり今の俺は、腕を怪我していて、金もなく、食べ物もなく、水もなく、尻が出ている。
異世界転生のスタートとしては、かなり下の方ではないだろうか。
せめて最初の村くらい、目の前にあっても良かったと思う。
だが、見渡す限り木、木、木。
どこを見ても森である。
「とにかく、明るいうちにここを抜けないと」
夜の森は危険だ。
それはもう、身をもって知った。
昨日の時点で狼に囲まれたのだから、今日の夜も同じことが起きない保証はない。
むしろ、尻から火を出す変な生き物として森の狼ネットワークに共有されている可能性すらある。
そんなネットワークがあるかは知らないが。
だが、俺を見た狼が「昨日の尻が燃えるやつだ」と仲間を連れて復讐にやってきたら、今度こそ終わる。
俺は歩き出した。
なるべく尻の穴が見えないように、腰を少し落としながら歩く。
誰も見ていない森の中で何を気にしているのかと思うかもしれないが、これは尊厳の問題である。
人間は、誰も見ていないところでも守るべき一線がある。
ただし、歩きにくい。
めちゃくちゃ歩きにくい。
しばらく歩いたが、森から抜け出せる気配はまったくなかった。
右を見ても木。
左を見ても木。
前を見ても木。
振り返っても木。
異世界の森は、遠慮というものを知らない。
「そもそも、俺はどこに向かえば良いんだ?」
何か目印になるものでも見えれば違うのだろうが、木々は青々と茂っており、地上からはどこを目指せば良いのか全く分からない。
高い木に登って辺りを見渡せれば良いのだが、残念ながら木登りは得意ではない。
木登りスキルも取っていない。
いや、そんなスキルがあったかどうかも覚えていない。
あったとしても、たぶん取っていない。
俺は全属性魔法だの、時空魔法だの、鑑定だの収納だの、見栄えの良いものばかり選んだ男である。
まさか異世界二日目に必要になるのが木登り能力だとは思わないだろう。
「どうするかな……」
考え込んでいる俺の上を、鳥が飛んでいった。
青い羽を持った、見たことのない鳥だった。
枝から枝へではなく、森の上をまっすぐ飛んでいく。
自由だ。
あれなら、この森の出口もすぐに見つかるだろう。
俺もあんな風に空を飛べたら良かったのに。
……待てよ。
魔法で空を飛んだら良いのでは?
本当に使えるかどうかは確かめていないが、俺はすべての魔法が使える最強の魔法使いのはずだ。
火が出た。
なら、風も出るはずだ。
風が出るなら、飛べるはずだ。
理屈としては何も間違っていない。
問題は、どこから出るかだ。
いや、それはもう分かっている。
分かっているが、認めたくないだけだ。
「……まあ、ここには誰もいないしな」
俺は周囲を確認した。
木しかない。
狼もいない。
人もいない。
だったら大丈夫だ。
何が大丈夫なのかは分からないが、とにかく大丈夫だということにする。
俺は魔力を体全体にめぐらせた。
昨日の夜に一度やったからか、なんとなく感覚は分かる。
体の中を温かいものが流れていく。
腕ではない。
足でもない。
胸でもない。
もっと下。
腰の奥。
そして、例の場所。
「……もう少し、発動部位を選ばせてくれても良かったんじゃないか」
文句を言っても仕方がない。
俺は覚悟を決め、空に向かって叫んだ。
「フライ!」
叫ぶと同時に、俺の尻から「ブボボボボ!」とものすごい勢いのおならが飛び出した。
いや、違う。
これは風だ。
断じておならではない。
魔法的な風である。
たまたま出る場所と音が、非常に誤解を招くだけだ。
「うおおおおおおお!?」
俺の体は、勢いよく空へと打ち上げられた。
足が地面を離れる。
木の枝が目の前を流れていく。
葉っぱが顔に当たる。
細い枝が服を引っかける。
そして次の瞬間、俺は木々の上に飛び出していた。
「おお……!」
思わず声が漏れた。
森の上に、朝の光が広がっている。
日本で暮らしていたときには見たこともないような大自然だった。
どこまでも続く緑。
遠くにうっすら見える山。
空には昨日見た二つの月が、朝の光の中に薄く残っている。
絶景だ。
尻から風を出して飛んでいるという一点を除けば、かなり感動的な光景である。
俺のいる場所から森はまだまだ続いている。
だが、眼下を見れば、少し先で森が途切れているのが分かった。
その向こうには草原が広がっている。
さらに遠くの方に、人工物らしきものも見えた。
屋根だ。
たぶん建物だ。
もしかすると村かもしれない。
「よし、あっちだ!」
方向は分かった。
これで森から脱出できる。
さすが俺。
空も飛べるなんて、やはり天才魔法使いに違いない。
異世界に来て一晩で飛行魔法を使いこなす男。
いいじゃないか。
これだ。
俺が求めていた異世界転生は、こういうやつだ。
そう思った瞬間。
尻から出ていた風が止まった。
「……あれ?」
体がふわりと浮いた。
いや、浮いたのではない。
上昇が止まったのだ。
そして、次の瞬間。
俺の体は落ち始めた。
「え、ちょ、待っ」
落ちる。
めちゃくちゃ落ちる。
さっきまで絶景だった森が、急に殺意を持った地面に見えてきた。
――これ、もしかしてまずいんじゃないだろうか?
いや、もしかしなくてもまずい。
このままでは高速で地面にぶつかり、ぺちゃんこになった俺ができてしまう。
異世界転生二日目の死因が「飛行魔法の着地失敗」は嫌だ。
しかも尻から風を出して飛んだ末の事故である。
墓標に書かれたらたまったものではない。
「フライ! フライ!」
俺はもう一度叫んだ。
再び尻から「ブボボボボ!」と風が噴き出す。
体が持ち上がる。
助かった。
と思ったのも一瞬だった。
落下中に体勢を崩していたせいで、俺は上に飛ぶのではなく、真横に打ち出された。
「うわ、うわわわ!」
森の上を、ものすごい勢いで横滑りしていく。
飛んでいるというより、尻に見えない巨大な手をつけられて、無理やり押し出されている感じだ。
あわてて体勢を立て直そうとする。
だが、尻からジェット気流が出ているせいで、うまく上を向くことができない。
そもそも、人間は尻を推進力にして空を飛ぶようにはできていない。
たぶん鳥もそんな飛び方はしない。
幸運なことに、少しだけナナメ上に飛んでいるようで、すぐに地面へ落ちることはなさそうだ。
だが、このままでは結局は着地できずに死ぬ。
「止まれ、止まれって!」
止まらない。
風は出る。
勢いもある。
方向も変えられる気がしない。
魔法としては成功している。
成功しているのに、命の危機である。
これは成功と言って良いのだろうか。
俺の体は、森の上を突っ切った。
やがて木々が途切れる。
眼下に広がったのは草原だった。
助かった。
木に激突する危険は減った。
だが、代わりに地面が見える。
このまま着地したら、大地ですり下ろされることは間違いない。
人間おろしである。
そんな料理は存在してほしくない。
空は飛べた。
問題は、降り方を知らないことだった。
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