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第1話:失うものは何もない

私は最悪の時代に生まれた。西暦3025年。 人類はいつも、何かしらの理由をつけては互いに争い、傷つけ合っていた。強姦、殺人、強盗。大衆にとってそんなものは当たり前の日常であり、権力者どもは平然とそれを繰り返し、そのすべてをいつだって不問に付されて、お咎めなしでのうのうと生きていた。私は自分の人生が、忌まわしくて仕方がなかった。

ただの平凡な男だ。生きるため、最低限の飯を食うためだけに、大嫌いな仕事にしがみついている。あの工場は、現世に現れた地獄そのものだった。毎日毎日、機械に向かい合いながら、いつか監督官が私に気づいて給料を上げてくれる日をただ夢見ていた。奴は私の家庭のひどい事情をすべて知っていながら、知らん顔を決め込み、私が工場のために尽くした労働を一度だって認めようとはしなかった。同僚どもの顔を見るのも反吐が出た。奴らもこの仕事を憎み抜いていることは分かっていたが、他に行く場所がないのだ。奴らと同じように、私もまた、病気の母親を養うために人間とは思えないほどの長時間労働に身を削っていた。

母もまた、蹂躙された被害者だった。中絶する金もなく、どうすればいいかも分からないまま、何か見返りを得るために手を差し伸べた薄汚い医者の助けを借りて、路地裏の片隅で私を産み落とした。

時折、生まれてこなければよかったと思う。己の無力さと、届くはずのない「何者かになりたい」という渇望こそが、私の転落の最大の原因だった。私はこの腐り果てた世界を少しでも変え、人々に希望をもたらすことができると信じ込んでいた、ただの臆病者だった。だが、そんなものは幻想だとすぐに気づかされた。

この世界は、自分さえ傷つかなければ、どれだけ壊れた世界であっても平然と生きていける人間どもで満ちている。自分さえ安全で、それなりの幸福を味わえれば、それが「神の計画」の一部であるかのように、与えられた運命を何でも受け入れる。

奴らは、籠の中で生きているドブネズミだ。餌を与えられ、温かい寝床さえあれば満足し、自らの意志で目的を持って生きようなどとは決して思わない。あの日以来、私は決意した。自ら進んで無知を選び、他人が苦しんでいても自分さえ痛まなければそれでいいと思っているような奴らなど、二度と助けてやるものかと。

この世界は芯まで腐りきっている。だから、世界を変えるのではなく、私もそちら側に回ることにした。世界が報いるのは、リスクを恐れない奴や、目的のために悪事を働くことを厭わない奴だけだ。この世界では悪人こそが報われる。もし人々が言うように神とやらが本当に存在するのなら、奴は明らかに人間なんか気にかけていない。罪のない人々を守ることもなく、ただ自分が崇められているかどうかだけを気にしている。人間どもは、自分たちを慰めるために信仰という道具を利用しているに過ぎない。極悪非道な犯罪を犯したその足で神を拝み、いまやったばかりの事を許してほしいと、都合よく祈るのだ。もし私が神であったなら、こんな世界は跡形もなく焼き尽くし、最初から作り直していただろう。そのための力が欲しかった。この世界が燃え落ちる様を、この目で見届けてやりたかった。

それでも、怪物の群れの中で唯一、私が聖女だと信じられる存在がいた。幼馴染のノーラだ。 彼女は聖女だった。私が心の底から、深く敬意を抱く唯一の人。時折、彼女と結婚して、この神に見放された世界から逃げ出せたらと願った。彼女は美しいだけでなく、面白くて、私の陰鬱なジョークを理解してくれて、どれだけ欠点があろうとも決して私を馬鹿にしなかった。彼女も、密かに私を想ってくれていたのだと思う。彼女は私の世界のすべてであり、何よりも大切にしていた。

私は最初から弱かった。どうしようもない、無力な弱虫。人生を通して、臆病者だと虐められてきた。誰かを庇おうとするたびに突き飛ばされ、他人の娯楽の道具として扱われた。そんな時、私を救い出してくれたのはいつもノーラだった。真っ先に駆けつけ、私を道具ではなく、本当の私として偏見なく見つめてくれた唯一の人。彼女はいつも笑顔を浮かべ、私の高ぶる感情を静めてくれた。

「他人の言葉に負けちゃダメ。あなたには、もっといいところがあるはずだよ!」

彼女はそう言って笑うが、その心の奥底では私を深く心配してくれているのがいつも分かった。どれだけ馬鹿げた話に聞こえようが、彼女の笑顔は私の宝であり、絶対に手放したくないものだった。その手はとても温かく、柔らかかった。私が恐怖に怯えるたび、彼女はその手で私の手を握ってくれた。彼女は私の暗闇を照らす光であり、人類に対する唯一の希望。もし本当に神がいるのなら、なぜこんな天使を、この残酷な世界に放り込んだのだろうか。今にして思えば、私が冷酷な怪物に成り下がらずに済んだのは、彼女がいてくれたからだった。

苦痛と苦難に満ちた人生だった。だが、長く生きるうちに、私はその痛みと苦しみに慣れてしまっていた。痛みは日常の一部になり、苦難は古くからの友人のようになっていた。しかし、その後に待ち受けていた惨劇に対しては、何の備えもできていなかった。私はあの日、自分の世界のすべてを失った。

3026年6月25日。 いつもと同じ、ありふれた一日のはずだった。死ぬほど働き、病気の母のもとへ帰って看病をし、自殺することを考え、そして彼女が訪ねてくれば、すべてがマシになる。だが、今日に限って彼女は現れなかった。私の誕生日だというのに、彼女が来て共に過ごしてくれるものと思っていたのに、彼女は全く姿を見せなかった。心配になった私は、彼女に電話をかけた。

そして、奴の声が聞こえた。彼女を虐げ続けてきた父親、カルヴィン。奴の存在は、ノーラもまたこの地獄のような世界で苦しんでいるのに、それを突っぱね、私よりも気高く、自らの手で運命を切り拓こうとしていたことを突きつける、紛れもない現実だった。奴は明らかに泥酔しており、私が娘を奪ったのだと大声で喚き散らしていた。

「お前のせいで、あの子は俺を愛さなくなった! 俺を『パパ』とも呼ばなくなったんだ!」

奴が肺腑を絞り出すように叫ぶ声を聞きながら、彼女がなぜ父親との接触を断ったのか、その理由は痛いほど分かっていた。だが、酔っ払いの戯言に付き合っている暇はない。私はノーラを捜していた。これ以上、奴に一秒たりとも時間を無駄にさせるわけにはいかない。彼女が商業地区のどこかのバーでバーテンダーをしていたことを思い出し、私は世界の終わりが明日であるかのように、人生最後の執念を燃やしてその場所へ走った。惨めに聞こえるかもしれない。だが私にとって、彼女が消えることは、世界の終わりと同義だった。

バーの扉を乱暴に開け、店主に怒鳴り散らした。

「ノーラはどこだ? ノーラはどこにいる! 今すぐ教えろ!」私は大声で叫んだ。

「ここにはいねえよ。あのガキは今日、仕事に来なかった。他のお客様の迷惑だ、さっさとそのケツを引っ込めて出ていきやがれ」店主は威圧的な視線で私を睨みつけた。

「彼女がどこにいるか分かるまで、絶対に出ていかない。知らなければならないんだ」涙を溢れさせ、全身を震わせながら私は言った。

「あのガキがどこにいようが、俺の知ったことか。無断欠勤だ、次に顔を見せたらクビにしてやる。さあ、失せろ」店主はドアを指差した。

その時、バーの隅から下卑た笑い声が聞こえた。男たちの群れが笑っている。その瞬間はショックで頭が追いつかなかったが、奴らは彼女を、怪物どもの跋扈する世界で迷子になった無垢な少女を嘲笑っていたのだ。普段の私なら無力感に立ちすくんでいたかもしれない。だが、今日だけは違った。私は奴らに向かって走り込み、そのうちの一人を殴りつけた。

「もう一度彼女を笑ってみろ、ただじゃおかないぞ!」涙と怒りに狂いながら叫んだ。

殴られた男の一人が私を殴り返し、床に押し倒すと、何度も蹴りつけてきた。

「お前みたいな下衆が、俺を殴ってタダで済むと思ってんのか、あァ?」男は醜悪な笑みを浮かべて見下ろした。

店主が私の首根っこを掴み、バーの外へと放り投げた。

「二度とここに来るんじゃねえぞ、お前みたいな底辺に売る酒はねえ!」

激しく流血しながらも、私は這い上がった。あのクズどもが店を出るのを待ち、追跡するのが一番だと考えたのだ。奴らのあの笑い方、確実に何かを知っている。やがて、酔っ払った男たちが店から出てきて、何事かを大声で話し始めた。

「いやあ、あの肉はたまらなかったな。また早く突っつきたいもんだぜ」一人が酒瓶を手に持ったまま言った。 「全くだ。あの肉を仕留めるまでの苦労を考えりゃ、最高の獲物だったな」もう一人が大笑いした。

私は常に、物事を冷徹に見極める現実主義者でありたいと思って生きてきた。だが、この時ばかりは、自分の考えが間違っていることを切に願った。もし神がいるのなら、この脳裏をよぎる悍ましい疑念が、ただの勘違いであってくれと祈った。

奴らの後を追い、倉庫へと辿り着く。私の考えは、一歩一歩、逃れようのない現実へと形を変えていく。見たくもない最悪の悪夢が、目の前に現れようとしていた。だが世界は残酷であり、すべての良いものは容赦なく破壊される。最悪の結末を覚悟し、私は手近にあった鉄パイプを拾い上げた。息を殺して奥へ進み……そして、見てしまった。

私の、最悪の悪夢がそこにあった。

彼女は、柱に縛り付けられていた。衣服をすべて剥ぎ取られ、尊厳のすべてを蹂躙されて。 内なる私は喉が裂けるほどに絶叫していたが、外なる冷徹な私は、成すべきことを理解していた。男は全部で5人。いずれも40代を過ぎた醜い怪物ども。

私の視界は一瞬で塗りつぶされた。真っ黒な背景に、血のような赤で埋め尽くされる文字。

「殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。」

脳裏にこびりついて離れない、呪われた歌のように、その言葉だけが頭から離れない。理性を失えば救い出せない。冷徹に周囲を観察すると、黒いジャケットが掛けられた椅子のうえに、一丁の拳銃が置かれているのが見えた。これで、この怪物どもを一人残らず駆逐し、彼女をこの刑務所から解放する。

迷いはなかった。最も近くにいた男に飛びかかり、渾身の力でその心臓に鉄パイプを突き立てた。初めて人を殺した感触は奇妙で、何よりおかしかったのは、自らの内に全く後悔が湧き上がらなかったことだ。私の中に人間性はもう残っていなかったのか。それとも、私の「善い部分」のすべては、目の前にいる、私が愛した彼女の中にしか残っていなかったのか。答えを探す間もなく、私は椅子から銃を奪い取り、駆逐すべき怪物どもに銃口を向けた。

銃の感触は奇妙だった。まるで自分が、彼らを裁く裁判官であり陪審員にでもなったかのようだった。奴らのやったことは絶対に許されないが、心のどこかで、別のやり方があったのではないかという思いがよぎる。しかし、目の前にいるのは怪物どもだ。奴らは命乞いを始めた。

「やめてくれ! 話せばわかる、命だけは!」 「お前はまだ若い、こんなことで人生を台無しにするつもりか!」 「頼む、殺さないでくれ! 家族がいるんだ!」

聞こえてくるのは、すでに死ぬことが決まったクズどもの見苦しい言い訳ばかり。ドブネズミどもが命乞いをしている。私は一切の容赦なく、引き金を引いた。一人、また一人と、躊躇なく撃ち抜いていく。

散らばる死体の中、テーブルからナイフをひったくり、ノーラのもとへと駆け寄った。 私が聖女と崇め、どんな絶望にも屈しないと信じていた彼女が、生まれて初めて涙を流していた。その涙は、この世界がいかに残酷であるかを私に思い出させ、世界を焼き尽くしたいという私の憎悪をいっそう激しく燃え上がらせた。だが今は、愛する彼女を解放することだけがすべてだった。

縄を切り、自由になった彼女は、逃げるよりも先に私を強く抱きしめた。彼女の肉体を伝って、その底知れぬ痛みが私の身体へと流れ込んでくる。

苦痛には慣れていたはずだった。しかし、これほどの痛みは経験したことがない。私の母が、私を産んだ時に味わったのも、これほどの苦痛だったのだろうか。その苦痛に、これだけの価値があったのだろうか。答えを得る前に、重々しい足音が聞こえてきた。

あの椅子にあったジャケットは、私が殺した男たちのものではなかったのだ。

ノーラもまた、それを察していた。彼女は震える私の頬を、あの温かく柔らかい手で包み込み、そっと唇を重ねた。これほどの地獄を味わいながらも、彼女は最後まで自分の運命を他人に委ねず、自らの意志で幕を引こうとしていた。生きることの喜びを、私との愛の証明を胸に抱いたまま。

彼女は静かに顔を離し、穏やかに言った。

「お願い。私を、殺して」

その言葉は、私の頭に消えない烙印として刻まれた。彼女は、自分がもう助からないこと、そしてこれ以上私の足枷になりたくないことを悟っていた。だが、私は泣き叫んだ。

「嫌だ! あなたを置いていくなんて、絶対にできない! 愛する人を殺せるわけがない!」

しかし、彼女の瞳は揺らがなかった。自らの意思を、静かに、だが明確に突きつけてくる。

「お願い、死なせて。私、今、あなたと一番幸せな瞬間を迎えられた。この後に来るかもしれない痛みを、もう味わいたくないの。お願い、私を殺して」

どれほど反対したくとも、心の奥底で、彼女の言うことが正しいことは分かっていた。生き延びたとしても、この惨劇の記憶は彼女を永遠に苛む終わりのない悪夢となる。私はこんなことしたくなかった。だが、選択肢はなかった。

震える手で、私は彼女の頭に銃口を向けた。涙が溢れて止まらない。これが夢であってくれと、今すぐ目を覚ましてくれと願った。だが、これが現実だ。日常的に人々が苦しみ、他人の痛みに関心を持つ余裕すらない狂った世界の、これが「普通」なのだ。

震える指を無理やり引き金にかける。その瞬間、ノーラは再び私の頬に手を添え、優しく口づけをした。

「あなたには、幸せになってほしい。笑っていて。自分の幸せを見つけて、それを追いかけて。何があっても、立ち止まらないで。約束して」

「嫌だ、失いたくない……!」私は涙を流しながら叫んだ。

「いいのよ、手放しても。仕方のないことって、あるのだから」

彼女は、微笑んでいた。

そして、引き金を引いた。

かつて私が最も愛したその笑顔が、ゆっくりと消えていく。私の世界のすべてが、目の前で崩壊した。

なりふり構わず、喉が張り裂けんばかりに大声で絶叫した。近づいてくる足音など、もはや耳には入らなかった。ただ、猛り狂う怒りだけが私の肉体を支配していた。

扉が乱暴に開かれた。

「何だこれは!? お前、一体誰だ!」

考えるよりも先に、私は男の腰に飛びかかり、床へと押し倒した。脳内は極限のアドレナリンで満たされ、痛覚も恐怖も消え失せていた。気がつけば、私は男の両目を抉り出していた。指先から溢れ出る生温かい血液。だが、衝動は収まらない。私は鉄パイプを掴み、その肉体を何度も何度も突き刺し続けた。

こいつだ。こいつの存在こそが、ノーラにあの選択を強いたのだ。容易く死なせるわけにはいかない。私の叫び声と、男の悲鳴、そして飛び散る返り血だけが、その空間を支配していた。

やがて、男は肉の塊へと変わり果てた。

私は力なく床に崩れ落ち、自らが今日失ったものの大きさに、ただ一人慟哭した。私の人間性における唯一の光が、この世界の怪物どもによって、一瞬にして奪い去られたのだ。

アドレナリンが引いていくにつれ、腹部に激しい痛みを感じた。視線を落とすと、腹部から血が溢れ出ている。あの男と闘った瞬間、撃ち抜かれていたのだ。己の死を察知し、私は猛烈な怒りを感じた。死ぬことが怖いのではない。この腐った世界が燃え盛る様を見届けられないことへの、底知れぬ口惜しさだ。私と同じ苦痛を、世界中の人間に味わわせてやりたかった。この絶望を知らしめてやりたかった。

もし、もしももう一度生きられるのなら、次は自分のためだけに生きる。他人のためではなく、己の欲のままに、冷酷で、極限まで利己的な怪物の道を歩む。そして絶対に、この世界に復讐を果たす。私を虐げた者たちを這いつくばらせ、許しを乞う声を踏みにじってやる。

だが、私の命の灯火は今にも消えようとしていた。

私は這うようにして、愛するノーラの遺体へと近づき、その冷たくなりゆく肩に頭を預けた。怒りは未だ燻っていたが、視界は急速に暗くなっていく。まるで、底の見えない暗黒の海へ沈んでいくかのように。

その時、暗闇の深淵から、一つの「声」が聞こえた。

「世界を焼き尽くしたいか? 己を貶めた者たちに、等しき絶望を与えたいか?」 「闇そのものに、成り果てる覚悟はあるか?」

私は、魂のすべてを賭けて答えた。

「――ある。」


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