人間じゃないから。
それでも、彼女は美しかった。
跳ねる水しぶきはまるで、彼女を人魚のように泳がせる。
空から刺す一筋はまるで、彼女を天使のように輝かせる。
月並みな言葉、それも少ししか思いつかない自分が恨めしい。
それほどまでに僕は、彼女が好きだったのかもしれない。嘘偽りない気持ちで。
彼女と出会ったのは、ある夜のこと。
深夜、旧校舎の屋上。
ここにはよく来ていた。いつも、なんでもないけど何もかもが嫌になった時。
ただちょっと悪いことがしたくて、忍び込んでる。
こんな事、先生にバレたってそんなに怒られはしないし、誰かに特別迷惑をかけるわけでもない。
いつかはバレるだろうけれど、それはきっと今日じゃない。
少し肌寒い風に当たって、人生を憂いて、物思いに耽って、日が昇る前に家に帰る。
ただそれだけ。
学校で先生たちがよく言う言葉がある。
「卒業した後のことを考えろ」
「進路を考えろ」
「十年後、二十年後のことを考えて生きろ」って。
でも、そんなのちゃんちゃらおかしいって思うんだ。
散々未来の話をするくせに、明日僕が生きていることなんて誰も保証してくれない。
僕は今を生きているっていうのに、今のために生きることを許してくれないんだ。
僕が僕であることを証明出来るのは、今の僕だけなのに。
でも、そう言うと決まってみんなこう言うんだ。
逃げてるだけだって。
そりゃ逃げ出したくもなるよ。
こんな世界から。
——————赤く光る月。
僕はただ寝そべって、見上げていた。
そういえば、今日の月は赤いってニュースで言ってたっけ。
理由は……何だっけな?
そんなことをぼんやりと考えていた。
すると突然、ギリ、ギリと木々の擦れる鈍い音が響いた。
同時に、屋上の扉が開いていく。
終わった。
僕はこの特等席を奪われるんだ。
そう覚悟した時、ひょっこりと姿を表したのは、一人の女の子だった。
金髪のボブ。長いまつ毛が揃った目。一本線の入った鼻筋。シンプルなワンピースを着て、年齢は多分同じくらい。るで白黒映画の世界から現実に出てきたような彼女は、学校では見かけたことのないタイプの人だ。
彼女は、僕に向かってにっこりと微笑んだ。
「ヤッホー」
「ヤ…….ヤッホー」
完全に面を食らった僕は、我ながら情けない返事をした。
彼女は物おじせずに、許可もなく僕の隣に座り込んだ。
「ここ、よく来るの?」
「たまに、かな」
「ふーん。そっかー」
そういうと彼女は仰向けに倒れると、空を見上げた。
まるで僕のことは興味がないとばかりに。
こっちは絶賛人見知り中だっていうのに。
学校帰りに妹が僕の部屋で勝手にゲームをしてた時よりも、ちょっと居心地が悪い。
「あの……どちら様ですか?名前は?」
「あーそういうの気にするタイプなんだ」
「いや、だって会うの初めてだし」
「いいじゃん別に。明日も会うわけじゃないんだからさ」
彼女はこちらを見向きもせず、あっさりと答える。
なんだかムッとしたけど、彼女が言うことにも一理はある。
何より、僕と少し考えは似ていた。
電車でたまたま隣になった、ぐらいに考えれば、彼女のことなんてどうだっていい。
「まあ、そうだね」
聞こえてくるのは自然の音と、遠くから聞こえる人工的な音だけになった。
隣にいる少しの違和感を気にしなければ、とても落ち着く空間だ。
時間が少し流れた。
……やっぱり落ち着かない。
これはもしかしたら僕の恋愛経験の無さから来るものかも知れないし、一人が好きだという信念めいたものから来るのかも知れない。もちろん、後者であることを願うけれど。
僕はそっと彼女に気づかれないように、顔をコンクリート側に向けた。すると
「やっと見た」
目があった瞬間、僕の中の全ての思い出が一つ、後ろになった。
「な……なんだよ」
「べつに?いつこっち向くかなって待ってただけ」
「そう……っすか」
「キミ、名前は?」
「そういうの、気にしないタイプなんじゃないの?」
「ん?気になっちゃったら気になっちゃうタイプだよ。私は」
「なんだよそれ」
「でっ?名前は?」
「……優斗だけど」
「そっ!いい名前じゃない。私はリリィ。覚えておいてね」
覚えておいてね。
また次があるようなセリフに、僕は恥ずかしながら高揚感を感じた。
瞬間、目を疑う光景が飛び込んできた。
リリィはフェンスの上によじ登ると、こちらを向き、両手を広げた。
錆びたフェンスは、風に吹かれながら大きく揺れている。
一瞬出遅れた僕は、咄嗟に手を伸ばした。
「何やってんだよ!危ないって!」
「大丈夫。慣れてるから」
「はあ?何言って……」
「私、人間じゃないから」
リリィは、理解の追いついていない僕を置いてけぼりに、飛び降りた。
なんの恐れもなく、柔らかなベッドに身を預けるように、彼女は落ちていった。
僕はフェンス際まで駆け寄ると、リリィを目で追った。
だが、リリィの姿は闇に紛れ、どこにも見当たらない。
あまりの出来事に、僕はただ呆然と立ち尽くしていた。
気がつけば、日は昇っていた。




