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【完結】婚約破棄されるようなので、記憶喪失で身を引かせていただきます【4/27後日談追加】  作者: 木風


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第三話 記憶があっても、無くても

低く冷たい声。

マティアスがそこにいた。


いつの間に現れたのかわからない。

同時に、生け垣の陰から女官と近衛が姿を現す。

レオノーラは息を止めた。

最初から囲まれていたのだと、そのときようやく知る。


「殿下……っ、わたくしは、ただ話を」

「東塔でもそう言うつもりだったか」


ベアトリーチェの顔色が変わる。

マティアスはレオノーラを背後へ庇いながら、冷ややかに言った。


「事故の前から、おまえの周囲は監視していた。侍女への指示、取り巻きの動き、人払いの段取り、すべて記録してある」

「そんな……」

「階段で背を押したのを見た者もいる。だが、それだけでは伯爵家は揉み消そうとしただろう。だから、今日ここで押さえた」

「嘘よ……」

「今朝、おまえがレオノーラを庭園へ呼び出す手紙を出した時点で、終わっていた」


ベアトリーチェの唇が震える。


「……殿下は、わたくしに優しかったのに」

「おまえを止めるためだ。近づかなければ、もっと見えないところで動くと思った」

「そんな……そんなの、ひどい……」

「ひどいのは、おまえのしたことだ」


静まり返った庭園に、その声だけが落ちた。


「階段から突き落とし、なお足りず、また手を出そうとした。もう言い逃れはさせない」


近衛がベアトリーチェを取り押さえる。

彼女は泣きながら何かを叫んでいたが、もうレオノーラの耳には入らなかった。


ただ、目の前の事実だけが大きすぎた。


マティアスは、ベアトリーチェを守っていたのではない。

自分を守るために、ずっと動いていたのだ。


風が吹く。

薔薇の最後の香りが、細く揺れた。

近衛たちが去り、侍女も距離を取る。

庭園に残ったのは、レオノーラとマティアスだけ。


「怪我はないか」


そう尋ねる声は、さっきまでとは別人のようにやわらかい。


「……はい」

「そうか」


沈黙が落ちる。

そのとき、マティアスが静かに言った。


「もう一つ、話さなければならないことが」

「……え」

「おまえが記憶喪失のふりをしていることも、最初から気づいていた」


胸の奥が熱い。

恥ずかしい。

情けない。

泣きたい。

逃げたい。

いろんな感情が一度に押し寄せて、レオノーラは俯くことしかできなかった。


「目が覚めたとき、俺とベアトリーチェを見ただろう。あのとき彼女は、泣いて俺に縋りついてきた。事故の件で自分に疑いが向いているか探ろうとしていたんだ。ちょうど引き離していたところへ、おまえが目を覚ました」

「では、あれは……」

「誤解させてしまい、悪かった」


顔を上げる。

マティアスの瞳は、呆れたようでいて、どこかやさしい。

レオノーラは何も言えなかった。

あのとき見た光景だけを信じて、自分は勝手に終わったと思い込んだのだ。


「それで、おまえは婚約を解消するつもりで、記憶を失ったことにしたのだろう?」

「……」

「筋が通っていたから、あえて止めなかった。怪我をした直後に無理に問い詰めるべきではないとも思った」

「知っていて、黙っていらしたのですか」

「ああ」


あっさり頷かれて、レオノーラはくらりとした。


「では毎日お見舞いに来てくださったのも……」

「それは別だ」


声が少しだけ変わった。


「おまえが階段から落ちて、三日間も目を覚まさなかった。その間、俺はほとんど眠れなかった」

「殿下……」

「そこでようやく理解した。俺にとっておまえが、ただの政略の婚約者ではなかったことを」


レオノーラの喉が震える。


「ベアトリーチェを可愛らしいと思ったことはある。だが、それだけだ。おまえと並べて比べるような相手ではない」

「でも、あの舞踏会で……」

「視線に気づいていたか」

「……はい」

「彼女の周囲に不審な動きが多かった。だから見ていた。それだけだ」


思い返せば、確かにあの視線は甘いものではなかったのかもしれない。

けれど、そのときのレオノーラには、そこまで見極める余裕がなかった。

マティアスが、一歩近づく。


「記憶を失ったふりをしてから、おまえから少しだけ肩の力が抜けた気がした」

「……」

「困った顔も、拗ねた顔も、照れた顔も見せた。完璧な婚約者ではないおまえを、初めて見られた気がした」

「そんなの……」

「嬉しかったんだ」


そのひと言で、堪えていたものが決壊した。

ぽろりと涙が落ちる。

完璧な令嬢は人前で泣かない。

そう教えられてきたのに、止まらなかった。


「……わたくし、最低です」

「なぜそうなる」

「記憶があるのに、ないふりをして……殿下が来てくださるのが嬉しくて……やめるきっかけを失って……そのまま甘えて……」

「それのどこが最低だ」


マティアスは、ほんの少しだけ笑った。


「俺もおまえの芝居に甘えていた。いつものおまえではない顔を、もう少し見ていたかった」

「……ずるいです」

「お互い様だろう」


そう言って差し出された手に、レオノーラはそっと指を重ねた。

大きくて、温かな手。


「改めて名乗ろう」


マティアスが、静かに言う。


「マティアス・ローゼンベルク。おまえの婚約者だ」

「……レオノーラ・シュタインフェルト」


涙の残る顔で、レオノーラは小さく笑う。


「殿下の婚約者です」


ベアトリーチェ・ハルトマンは、王城への出入りを禁じられた。

さらに虚偽の申告と加害の責任を問われ、一家そろって領地へ下がることになった。


処分としては温情が残るものだったが、レオノーラはそれ以上を望まなかった。

許したわけではない。

けれど、もう誰かを裁くことより、自分が前を向くことに心を使いたかった。


それから数か月後。


婚約披露の席で、レオノーラはマティアスの隣に立っていた。

金の燭台、磨かれた床、満ちる祝福の空気。

けれど、今夜はあのときと違う。


「緊張しているな」

「しておりません」

「口元が固い」

「そういうことをおっしゃるからです」


小声で返すと、マティアスが喉の奥で笑った。


「記憶を失ったふりをしていた頃のほうが、ずっと素直だった」

「その話は、もう終わったはずです」

「何年後かには笑い話になる」

「殿下は、何年経っても蒸し返しそうです」

「否定はしない」


思わず、レオノーラは吹き出した。

その瞬間、公の場では珍しく、マティアスの手がそっと彼女の手を包んだ。

驚いて見上げると、灰青の瞳がまっすぐに見つめ返してくる。


逃がさない、と言うように。

もう手放さない、と告げるように。

レオノーラは前を向いたまま、その手を握り返した。


笑顔の作り方を、三歳のときに覚えた。

けれど今、唇に浮かぶこの表情は、誰かに教えられたものではない。

義務でも、仮面でもない。


自分の心が、ようやく選び取った笑顔だった。

最後までお付き合いありがとうございました。

実際に記憶喪失になった人に会ったことはないんですが…飲み過ぎて記憶が飛んだことも、きっと無いはず……!?ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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