第三話 記憶があっても、無くても
低く冷たい声。
マティアスがそこにいた。
いつの間に現れたのかわからない。
同時に、生け垣の陰から女官と近衛が姿を現す。
レオノーラは息を止めた。
最初から囲まれていたのだと、そのときようやく知る。
「殿下……っ、わたくしは、ただ話を」
「東塔でもそう言うつもりだったか」
ベアトリーチェの顔色が変わる。
マティアスはレオノーラを背後へ庇いながら、冷ややかに言った。
「事故の前から、おまえの周囲は監視していた。侍女への指示、取り巻きの動き、人払いの段取り、すべて記録してある」
「そんな……」
「階段で背を押したのを見た者もいる。だが、それだけでは伯爵家は揉み消そうとしただろう。だから、今日ここで押さえた」
「嘘よ……」
「今朝、おまえがレオノーラを庭園へ呼び出す手紙を出した時点で、終わっていた」
ベアトリーチェの唇が震える。
「……殿下は、わたくしに優しかったのに」
「おまえを止めるためだ。近づかなければ、もっと見えないところで動くと思った」
「そんな……そんなの、ひどい……」
「ひどいのは、おまえのしたことだ」
静まり返った庭園に、その声だけが落ちた。
「階段から突き落とし、なお足りず、また手を出そうとした。もう言い逃れはさせない」
近衛がベアトリーチェを取り押さえる。
彼女は泣きながら何かを叫んでいたが、もうレオノーラの耳には入らなかった。
ただ、目の前の事実だけが大きすぎた。
マティアスは、ベアトリーチェを守っていたのではない。
自分を守るために、ずっと動いていたのだ。
風が吹く。
薔薇の最後の香りが、細く揺れた。
近衛たちが去り、侍女も距離を取る。
庭園に残ったのは、レオノーラとマティアスだけ。
「怪我はないか」
そう尋ねる声は、さっきまでとは別人のようにやわらかい。
「……はい」
「そうか」
沈黙が落ちる。
そのとき、マティアスが静かに言った。
「もう一つ、話さなければならないことが」
「……え」
「おまえが記憶喪失のふりをしていることも、最初から気づいていた」
胸の奥が熱い。
恥ずかしい。
情けない。
泣きたい。
逃げたい。
いろんな感情が一度に押し寄せて、レオノーラは俯くことしかできなかった。
「目が覚めたとき、俺とベアトリーチェを見ただろう。あのとき彼女は、泣いて俺に縋りついてきた。事故の件で自分に疑いが向いているか探ろうとしていたんだ。ちょうど引き離していたところへ、おまえが目を覚ました」
「では、あれは……」
「誤解させてしまい、悪かった」
顔を上げる。
マティアスの瞳は、呆れたようでいて、どこかやさしい。
レオノーラは何も言えなかった。
あのとき見た光景だけを信じて、自分は勝手に終わったと思い込んだのだ。
「それで、おまえは婚約を解消するつもりで、記憶を失ったことにしたのだろう?」
「……」
「筋が通っていたから、あえて止めなかった。怪我をした直後に無理に問い詰めるべきではないとも思った」
「知っていて、黙っていらしたのですか」
「ああ」
あっさり頷かれて、レオノーラはくらりとした。
「では毎日お見舞いに来てくださったのも……」
「それは別だ」
声が少しだけ変わった。
「おまえが階段から落ちて、三日間も目を覚まさなかった。その間、俺はほとんど眠れなかった」
「殿下……」
「そこでようやく理解した。俺にとっておまえが、ただの政略の婚約者ではなかったことを」
レオノーラの喉が震える。
「ベアトリーチェを可愛らしいと思ったことはある。だが、それだけだ。おまえと並べて比べるような相手ではない」
「でも、あの舞踏会で……」
「視線に気づいていたか」
「……はい」
「彼女の周囲に不審な動きが多かった。だから見ていた。それだけだ」
思い返せば、確かにあの視線は甘いものではなかったのかもしれない。
けれど、そのときのレオノーラには、そこまで見極める余裕がなかった。
マティアスが、一歩近づく。
「記憶を失ったふりをしてから、おまえから少しだけ肩の力が抜けた気がした」
「……」
「困った顔も、拗ねた顔も、照れた顔も見せた。完璧な婚約者ではないおまえを、初めて見られた気がした」
「そんなの……」
「嬉しかったんだ」
そのひと言で、堪えていたものが決壊した。
ぽろりと涙が落ちる。
完璧な令嬢は人前で泣かない。
そう教えられてきたのに、止まらなかった。
「……わたくし、最低です」
「なぜそうなる」
「記憶があるのに、ないふりをして……殿下が来てくださるのが嬉しくて……やめるきっかけを失って……そのまま甘えて……」
「それのどこが最低だ」
マティアスは、ほんの少しだけ笑った。
「俺もおまえの芝居に甘えていた。いつものおまえではない顔を、もう少し見ていたかった」
「……ずるいです」
「お互い様だろう」
そう言って差し出された手に、レオノーラはそっと指を重ねた。
大きくて、温かな手。
「改めて名乗ろう」
マティアスが、静かに言う。
「マティアス・ローゼンベルク。おまえの婚約者だ」
「……レオノーラ・シュタインフェルト」
涙の残る顔で、レオノーラは小さく笑う。
「殿下の婚約者です」
ベアトリーチェ・ハルトマンは、王城への出入りを禁じられた。
さらに虚偽の申告と加害の責任を問われ、一家そろって領地へ下がることになった。
処分としては温情が残るものだったが、レオノーラはそれ以上を望まなかった。
許したわけではない。
けれど、もう誰かを裁くことより、自分が前を向くことに心を使いたかった。
それから数か月後。
婚約披露の席で、レオノーラはマティアスの隣に立っていた。
金の燭台、磨かれた床、満ちる祝福の空気。
けれど、今夜はあのときと違う。
「緊張しているな」
「しておりません」
「口元が固い」
「そういうことをおっしゃるからです」
小声で返すと、マティアスが喉の奥で笑った。
「記憶を失ったふりをしていた頃のほうが、ずっと素直だった」
「その話は、もう終わったはずです」
「何年後かには笑い話になる」
「殿下は、何年経っても蒸し返しそうです」
「否定はしない」
思わず、レオノーラは吹き出した。
その瞬間、公の場では珍しく、マティアスの手がそっと彼女の手を包んだ。
驚いて見上げると、灰青の瞳がまっすぐに見つめ返してくる。
逃がさない、と言うように。
もう手放さない、と告げるように。
レオノーラは前を向いたまま、その手を握り返した。
笑顔の作り方を、三歳のときに覚えた。
けれど今、唇に浮かぶこの表情は、誰かに教えられたものではない。
義務でも、仮面でもない。
自分の心が、ようやく選び取った笑顔だった。
最後までお付き合いありがとうございました。
実際に記憶喪失になった人に会ったことはないんですが…飲み過ぎて記憶が飛んだことも、きっと無いはず……!?ブックマーク、★★★★★、よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ




