第二話 記憶のない、完璧ではない令嬢
「レオノーラ。今日は顔色がいいな」
「……殿下。どうしてこちらへ」
「婚約者が怪我をしたんだ。見舞いに来るのは当然だろう」
当然ではない。
少なくとも、レオノーラの想像していた当然ではなかった。
形式だけの見舞いならまだわかる。
だがマティアスは、毎日来た。
薬が苦いだろうと果物を持ってくる。
日差しが強ければ自らカーテンを引く。
窓辺が冷えれば、いつの間にか膝掛けが増えている。
しかも、彼は当然のようにレオノーラの好みを口にした。
「温めた林檎だ。おまえはこれが好きだった」
「そう、なのですか」
「ああ。紅茶は香りの軽いものを好む。甘すぎる菓子は苦手だ」
「……ずいぶん詳しいのですね」
「婚約者だからな」
淡々と言うくせに、その声はどこかやわらかい。
おかしい。
どう考えてもおかしい。
今のマティアスは、ベアトリーチェを想っている男の振る舞いには見えなかった。
庭を歩けるまでに回復すると、その違和感はますます強くなった。
「段差がある」
「そのくらい、一人で」
「転んだら困る」
そう言って、自然に手を差し出してくる。
断る間もなく歩幅を合わせられ、足を止めればすぐ気づかれる。
「疲れたか」
「……少しだけ」
「なら戻ろう」
「まだ大丈夫です」
「無理をするな」
記憶を失ったという体裁のせいで、レオノーラも以前のようには振る舞えなかった。
完璧な令嬢でいる必要がない。
わからないことは、わからないと言っていい。
その解放感のせいだろうか。マティアスの前でだけ、つい素の反応がこぼれる。
「殿下は、いつも急に近いのです」
「いつも?」
「……っ」
しまった、と思った。
記憶があるような言い方だったからだ。
けれどマティアスは追及せず、ただ少しだけ口元を緩めただけ。
「それは困るな」
「何がですか」
「俺のことを忘れたのに、癖だけは覚えているらしい」
その目が、少しだけ楽しそうで、レオノーラは返す言葉を失った。
困る。
本当に困る。
婚約を解消するための芝居だったはずなのに、彼が近づけば近づくほど、やめどきを失っていく。
一方その頃、王城の空気は静かに張り詰めていた。
レオノーラの知らないところで、マティアスはベアトリーチェを疑っていた。
階段事故の直後からだ。
以前から彼女の取り巻きがレオノーラの周辺を嗅ぎ回っていたこと。
事故当日、東塔の近くで不自然に人払いが起きていたこと。
ベアトリーチェが誰より早く現場を離れようとしていたこと。
証言はいくつかあった。
だが、どれも決定打には欠ける。
伯爵家が口を回せば、曖昧に潰される程度のものだった。
中途半端に動けば、相手は証拠を消す。
レオノーラへの嫌がらせは、もっと巧妙になる。
だからマティアスは、口の堅い女官と近衛をレオノーラの周囲に配置した。
同時に、ベアトリーチェの侍女の中に味方を作り、彼女の指示や動きを記録させた。
必要なのは、言い逃れできない形。
それでも、もう二度とレオノーラを無防備にはしない。
それだけは最初から決めていた。
そのことを知らないまま、レオノーラは日々の中で混乱を深めていく。
ある雨の日、部屋で本を読んでいると、マティアスが温かな飲み物を持って現れた。
「外は冷える。飲むといい」
「……ありがとうございます」
「蜂蜜は少なめにした」
「それも、わたくしの好みだったのですか」
「そうだ」
「殿下は、本当に、何でもご存じなのですね」
「見ていればわかる」
見ていればわかる。
その言葉が、なぜだか胸の奥に残った。
レオノーラはずっと、マティアスに見られていないと思っていた。
完璧な婚約者として、置かれた場所にいるだけの存在だと。
けれど彼は、そんな細かなことまで覚えていたのだろうか。
「……どうして、そんなにお優しいのですか」
ぽつりと零すと、マティアスは一瞬だけ目を細めた。
「優しい?」
「だって、わたくしは何も覚えていないのに」
「覚えていないなら、なおさらだ」
「普通は、面倒だと思うのでは」
「おまえを面倒だと思ったことはない」
あまりにあっさりと言われて、レオノーラは言葉を失った。
こういうところなのだ。
記憶喪失のふりをやめられなくなるのは。
そして、事件は秋に起きた。
庭園の薔薇が盛りを過ぎ、香りだけを細く残し始めた頃。
ベアトリーチェから「話がしたい」と手紙が届いたのは、その日の朝のことだった。
もちろん一人で向かうつもりはなかった。レオノーラは侍女を伴い、石造りの遊歩道を歩いていた。
「少し風が冷たいですね」
「はい。でも、香りはまだ残っていて……」
そう答えたところで、背後に気配を感じて振り返る。
そこに立っていたのは、ベアトリーチェだった。
彼女の顔は痩せ、目の下には薄く影が落ちている。
けれどその瞳だけは、ぎらつくように光っていた。
「あなたが何も覚えていないなんて、嘘でしょう」
侍女が息を呑む。
レオノーラは反射的に身を固くした。
「何のお話か、わかりません」
「しらばっくれないで。あなたが倒れてから、殿下はおかしくなったの。毎日あなたのところへ通って、あなたばかり見て……どうして?」
「ベアトリーチェ様」
「どうしてよ!」
一歩、また一歩と近づいてくる。
石橋の欄干が背に当たった。
その瞬間、レオノーラははっきり悟った。
この人は、またやる。
逃げようとしたが、遅かった。
ベアトリーチェの手が肩へ伸びる。
だが次の瞬間、その手首を別の手が強く掴んだ。
「そこまでだ」
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