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【完結】婚約破棄されるようなので、記憶喪失で身を引かせていただきます【4/27後日談追加】  作者: 木風


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第一話 何もかも忘れてしまえたなら

「ああ、なるほど。わたくしは、ここで退場するのね」


 公爵令嬢レオノーラ・シュタインフェルトは、笑顔のままそう思った。


 王城の大広間は、今夜も眩いほど華やかだった。

 金の燭台。磨き上げられた白大理石。香水と花の匂いが混じり合う、甘く気高い空気。

 舞踏会の夜に相応しい、完璧な煌めき。


 そしてその中心にいるのは、この国の未来を担う第一王子マティアス・ローゼンベルク。

 淡い金髪と、凍てた湖のような灰青の瞳を持つ、美しい王子。

 その隣に立つのは、婚約者であるレオノーラの役目だった。


「殿下、お飲み物を」


 控えめに声をかけると、マティアスがこちらを見た。

 整った横顔。静かな眼差し。

 幼い頃から見慣れているはずなのに、いまだに胸が少しだけ苦しくなる顔だった。


 けれど、その瞳は次の瞬間、レオノーラの向こう側へ流れた。

 視線の先にいたのは、伯爵令嬢ベアトリーチェ・ハルトマン。


 ふわりと巻いた栗色の髪。薔薇色の頬。守ってあげたくなるような愛らしさ。

 最近社交界に出てきたばかりだというのに、気づけば誰もが彼女を話題にしていた。


 そして、マティアスもまたその一人。


 ほんのわずかな視線の揺れ。

 けれどレオノーラには、それで十分だった。

 やはりそうなのだ。


 最初からわかっていた。

 これは政略の婚約であって、恋など差し挟む余地はない。

 王太子妃として相応しくあるよう育てられた自分より、可憐で柔らかく、感情を素直に表す令嬢のほうが、殿下には眩しく映ることもあるのだろう。


 ならば、静かに退く準備をしよう。

 そう決めた瞬間、不思議なくらい心が静かになった。


 公爵令嬢レオノーラ・シュタインフェルトは、笑顔の作り方を三歳のときに覚えた。

 泣きたいときも、悔しいときも、困ったときも、顔に出してはいけない。

 公爵家の娘として、未来の王太子妃として、常に優雅で、穏やかで、完璧であれ。

 そう教えられて育った。


 だからこそ、恋心もまた誰にも言えなかった。

 幼い頃の茶会で、緊張のあまりカップを持つ指先を震わせたことがある。

 そのとき、まだ少年だったマティアスが、誰にも聞こえないほど小さな声で囁いたのだ。


「急がなくていい」


 そのひと言を、レオノーラはずっと覚えていた。

 優しい人だと思った。

 その日から、彼のことが好きだった。


 けれど、その想いは表に出さなかった。

 これは恋ではなく、義務の婚約なのだから。


 問題は、ベアトリーチェがそれでは満足しなかったことだ。


 ベアトリーチェは、あからさまにレオノーラを嫌っていた。

 理由は明白。

 王太子の婚約者の座に、レオノーラがいるから。


 最初は些細なもの。

 挨拶を返さない。

 お茶会の席順を乱す。

 聞こえるように陰口を零す。


 レオノーラは涼しい顔でそれらを受け流していた。

 けれど、悪意は次第に露骨になっていった。


 そして、ある日の昼下がり。

 王城東塔へ続く石階段で、それはとうとう事故では済まないものになる。


「ごきげんよう、レオノーラ様」


 背後からかけられた声に、レオノーラは足を止めた。

 振り向けば、案の定、そこにいたのはベアトリーチェ。


「ごきげんよう、ベアトリーチェ様。何か御用ですか」

「ええ。少しだけ」


 少しだけ、の声音ではなかった。

 甘い声の奥に、焦りと苛立ちが混じっている。


「最近、殿下がわたくしに優しいの。ご存じ?」

「そうですか」

「……それだけ?」

「何とお返事すればよろしいのか」


 にこやかに返すと、ベアトリーチェの顔が引きつった。


「いつもそう。余裕ぶって、完璧ぶって、何も痛くないみたいな顔をして」

「そのようなつもりは」

「でも邪魔なのよ!」


 次の瞬間、背中に強い衝撃が走った。


 息が詰まる。

 身体が宙に投げ出される。

 石階段が視界の中で回転し、天井と床がぐるりと反転した。


 落ちる、と思った。


 そのあとに続いたのは、激しい痛みと、遠ざかる意識だけ。


 次に目を開けたとき、そこは白い天井の下だった。

 薬草の匂い。静かな部屋。重い頭。

 側頭部に巻かれた包帯の感触で、自分がまだ生きていることを知る。


 そして、視線をゆっくり横に向けて、レオノーラはすべてを理解した。


 寝台の傍らに、マティアスが立っていた。

 そのすぐ隣には、目を真っ赤にしたベアトリーチェ。

 今にも倒れそうな彼女の肩を、マティアスが支えている。


「……よかった……本当に、よかった……」


 しゃくり上げるベアトリーチェを、マティアスは振り払わない。

 低い声で何かを告げているが、まだぼんやりした頭では聞き取れなかった。

 ただ、その距離だけははっきり見えた。


 ああ、なるほど。


 レオノーラは、そこでようやく腑に落ちた。

 わたくしは、邪魔だったのだ。

 そして殿下にとっても、今やそう遠くない存在になっているのかもしれない。


 だったら、ちょうどいい。

 階段から落とされたことを訴えたところで、証拠がなければ水掛け論になる。

 みっともなく縋る婚約者になるだけかもしれない。


 でも、もしも。


 もしもここで、何もかも忘れてしまったことにすれば。


 公爵令嬢としての責務も。

 王太子の婚約者という立場も。

 彼に恋をしていた愚かな自分さえも。


 全部、なかったことにできるのではないか。


 頭はずきずきと痛んだ。

 けれどそれ以上に、思考は妙に冴えていた。


 いい考えだわ。

 少なくとも、泣くよりはずっと。

 レオノーラはゆっくりと目を瞬き、震える声を作った。


「……あの」


 マティアスが顔を上げる。

 ベアトリーチェも、びくりと肩を揺らした。


「ここは、どこですか……?」

「レオノーラ?」

「わたくし、どうしてここに……?あなたは……誰……?」


 沈黙が落ちた。


 ベアトリーチェの顔から、さっと血の気が引いた。

 マティアスだけが、なぜかじっとレオノーラを見つめていた。

 まるで、その言葉の奥まで見抜こうとするように。

 けれどレオノーラは、きょとんとした顔を崩さなかった。


 そう。

 今日からわたくしは、何も覚えていない哀れな令嬢。

 王太子の婚約者ですらない、ただのレオノーラになるのだ。


 少なくとも、そのつもりだった。

 翌日から、当の王太子が毎日部屋に通ってくるまでは。

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よろしくお願いします( *・ㅅ・)*_ _))ペコ

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