2. 恋しくて(3)
天幕に戻ると観覧席でアルスがユキを待っていた。
側には近衛隊長のモリ=シュバリツがいる。赤いベルベットのソファが置かれていて、アルスがユキを呼びよせた。
ユキはエレノワとは皇家の天幕に戻る途中で別れていた。一緒に観覧したいと誘ったのだが、エレノワは自前の天幕に帰るようだ。
ユキが隣に腰かけると、アルスが仏頂面で話掛けて来た。
「伯母上と何コソコソ話していたんだ?」
どうやらさっきのユキの態度が気に入らないようだ。
「昔話を聞いていたのよ。女同士で話したいことだってあるんだから」
この話を早々に切り上げたくて、ユキは側に控えているモリに話かけた。
「ねえ、モリさん。その副隊長の人が出るんでしょ? レースに」
「ええ。ダーシンは第二レースに出る予定ですね。紫の船です」
このダーシンという人はアルスの近衛隊の副隊長、つまりモリの部下に当たる人らしいのだが、実はユキは彼にまだ会った事がなかった。
たまたま仕事で遠出をしていて、戻った時はユキがサロール陛下の別荘にいる時だったのだ。
そしてまたこの船のレースの準備の為、暁の宮殿を出た後にユキが再び宮殿へ帰ってきた。丁度入れ違いになったのだ。だから今日初めて顔を合わせる事になる。
高らかなラッパの音が鳴り、歓声が沸いた。第1レースが始まったのだ。
小型船には小さな帆が付いていて風を受けて走る、いわゆるヨットだった。
このオクリナの泉は周囲を小さな丘で囲まれていて、風が吹き下りてくる。
ヨットを操る技術が試される、もってこいのレース環境だった。
強い風が吹き下りて、船は思ったよりスピードが出る。
ユキはその速さに目を見張った。
第2レースが始まった。紫の船は3列目、5艇でのレースなので真ん中だった。
船はラッパの音を合図にいっせいに水面を滑り出す。紫の船はあっという間に1周し、1位でゴールした。
「凄く速いね。ダーシンって人、兵士なのに全然負けて無かった」
ユキが興奮してアルスに話し掛ける。
「ダーシンは漁師の息子なんだよ。物心ついた時には船を操っていたとか言ってたからな」
アルスもそんなダーシンに拍手を送った。
天幕の前の岸に滑り込んだダーシンはガッツポーズの後、こちらに向かって深々とお辞儀をした。
ユキも彼に大きな拍手を送った。
あれよあれよと決勝まで進んだダーシンだったが、残念ながら優勝は逃してしまった。それでも現役漁師が出場の多くを占める中、3位という好成績を収めたのだ。
夕方からは皇太子による、トロフィーと賞金の授与式が行われた。アルスが選手たちに労いの言葉を送り、ユキはすぐ側でその光景を眺めていた。
3位のダーシンが呼ばれて前に進む。
明るいオレンジ色の髪は短く刈り込まれていて、肌は良く日に焼けている。
アルスが記念のトロフィーを渡すと、ダーシンは胸に手を当て深々と頭を下げる。
授与式の後は泉の畔で宴が行われた。泉の側では今日のレースに出場した人々で、大いに賑わっていた。
そこから少し離れた、皇家の天幕でも料理やお酒が振る舞われて、ささやかな会食が催された。
そこへダーシンがアルスやモリに改めて挨拶するべく畔の宴から戻ってきていた。
「よくやった。ダーシン。見事なレースだった」
「おおきに。ありがとうございます。皇子と隊長が時間を下さったんで、なんとか入賞できましたわ」
挨拶をするダーシンにユキは目を丸くした。
「ユキ。副隊長のダーシンだ」
アルスが簡単に紹介をすると、ダーシンがユキの前に進み出る。
「あなたが女神様ですか? ダーシン言います。どうぞお見知りおきを」
ダーシンはニカッとユキに笑いかけた。
ユキはダーシンの言葉に口を押え、眉間には皺を寄せている。
「……どうした? ユキ?」
アルスがユキの態度に首をかしげた。
「……何でもないの。今日はおめでとうございます」
下を向いたままユキは言葉をなんとか絞り出した。
「俺、何や変な事言いました?」
ユキは我慢できずに吹き出してしまった。笑い出すと止まらない。
「……ちょっとゴメンなさい。失礼だってわかってるんだけど……止まらない」
ユキは我慢しながらも笑いが吹き出してしまう。止めようとした分だけ笑いに拍車がかかってしまう。
――――なぜここで関西弁?
ユキは我慢できなかった。恐らくダーシンの出身地の方言なのだろうけれど、その見事な関西弁にユキの笑いが止まらなくなってしまった。
自分の頭の中で、どうしてこの人の言葉が関西弁に変換されるのか、意味がわからないのだ。
それに相まって、姉の薫の変なイントネーションの関西弁を思い出してしまった。関東で生まれ育った姉が、転勤に伴い大阪へと引っ越した。
そこで完璧な関西弁を習得した(と本人は言っていた)が、姉の薫が話すその言葉はあまりに下手で、まるでインチキ関西人のようだったのだ。
「ごめんなさい。ホントにごめんなさい。落ち着いてから御挨拶させて……」
ユキは涙目になりながら、そそくさと天幕の外へ出て行った。深呼吸をして自分を落ち着かせる。
(面白くない。面白くない)
そう心の中で呟くのだが、自分の頭がおかし過ぎるし、姉の関西弁もおかし過ぎる。
頬をペチペチと叩いて痛みでごまかしていると、アルスが天幕から出て来た。
「ユキ。いくらなんでもダーシンに悪いだろ? どうして急に笑ったりしたんだ!?」
憮然としてアルスが言う。
「本当にごめんなさい」
アルスの態度にユキの中のお笑いモードが一気に吹き飛んだ。
本当に失礼だよね
シュンとして、ユキは肩を落とした。
初対面で爆笑するなんて本当に酷過ぎ
「……今からでもダーシンに謝りたいの。もう一度彼に会える?」
「だからどうして笑ったんだ?」
アルスがあきれた風にもう一度問いかけた。
「言葉が……。ダーシンの言葉って方言だよね? サインシャンドの言葉とは違うのよね?」
「ああ」
「それが、私の国でも一番有名な方言で聞こえるの。すごく元気で明るい発音の言葉なのね。……それでビックリしたし、どうして私の頭でそう変換されるのかわからなくて。考えていると可笑しくて。それに、お姉ちゃんもその言葉を使おうとしていたんだけれど、下手くそで…………」
面白くてたまらなかったのに、笑い過ぎて浮かべていた涙は、悲しい涙で頬を伝って行った。
自分の故郷の言葉でも無いのに、それはふいに日本を思い起こさせる。
テレビやラジオで溢れていた言葉は、標準語よりも強く心を打ってくる。
「どうしたんだ?」
笑っていたかと思えば、次にはもう泣いているユキにアルスは戸惑った。
「な……何でも無いの」
ユキは頭を横に振りながら後ずさる。
「やっぱり明日、必ず謝るから! ホントにごめんなさい」
そう言うとユキはこの場からとにかく逃げ出したくなった。
日本が恋しくて泣くなんて、アルスに悪すぎる
長いドレスの裾をたくし上げると、自分の部屋に向かって走りだした。その後を控えていたヘレム達が慌てて追いかける。
日本を想う郷愁は、ユキの生活のあちらこちらで不意に顔を出す。
アルスと一緒にいたい
離れたくない
……でももう一度だけ家族に会いたかった。
友人に会いたかったのだ。
みんなに一目会って、謝りたいのだ。
『私には好きな人がいるの。もう日本へは帰れない。ごめんなさい』
そんな事が言えたら、どんなにいいだろうと考えてしまう。
家族は――――特に両親はどんなに心を痛めているのだろうか?
突然消えてしまった娘。
なんの手がかりも無い。
痕跡すら見つからない。
この世を全うするその時まで親を苦しめるのかと思うと、心が痛んだ。
自分はどうしようもない親不孝者だと思うのだ。
まだ思い出にすらならない。『懐かしい』という言葉でなんて片づけられない。
それくらいに生々しい日本での生活がユキの心をかき乱す。
絶対に成立しない事だ――――
日本へ帰る事とアルスの側にいる事は
頭ではわかっているのに、心はユキの思いもよらない所で暴走してしまう。




