2. 恋しくて(1)
『妃になれ』というアルスの言葉は素直に嬉しかった。でも今はアルスの気持ちに応えることができない。
ユキはこの世界では「女神」と言われている。この国の為、この世界の為に自分の世界から偶然持ってきた〈医療基礎学〉という本を〈女神の書〉として書き写しているのだ。このサマルディアの言葉で。
「女神」と言われて、そんな大切な仕事をしているだけでも、ユキにとってはプレッシャーだった。
その上この国の「皇妃」だなんて、まるで雲をも掴むような話なのだ。
最近のユキはこの事にくよくよと頭を悩ませていた。
「……おい、ユキ。また寝てるんじゃないのか?」
アルスの黒毛の馬、コルトの上に乗せてもらったユキの耳元でアルスの声がした。
「寝てないよ。ちょっと考え事してたの。ごめん、何て言ったの?」
ユキが慌てて答える。
「だから、『そろそろオクリナの泉が見えるぞ』と言ったんだよ」
アルスの吐息が耳元でさわさわと感じる。
「そうなんだ。ごめん、ごめん」
気持ちユキはお尻を浮かせると鞍の上を前にずれた。
「動くと落ちるぞ」
アルスが手綱を持ったまま、ユキを脇から抱えて後ろにずらす。
結局さっきよりもアルスとの距離は縮まる。
今まで意識していなかった部分が、やたらと気になってしまう。
嫌じゃないのに、このソワソワする感覚は一体何なんだろう……?
今日はアルスの公務で、首都サインシャンドでも有名な観光地である、オクリナの泉に向かっていた。
名前こそ泉だが、そこは巨大な湖だそうだ。
そしてその広い泉で小型船でのレースが行われる。皇帝杯の名のつく有名なレースで、今日は皇帝の名代として皇太子であるアルスが赴いているのだ。
それにくっついてユキも観光に来たのだ。
女神らしくドレス姿で行く事を優秀な侍女二人に説得されてしまったものの、馬車では無く、騎乗で行くのだそうだ。
それならユキもスノウに乗っていきたかったのに、あっさりと却下されこの状況だった。
サインシャンドの中心から北へ行ったところにオクリナの泉はある。馬で1時間ほどだろうか。
オアシスのたくさんあるサインシャンドで、この泉が有名な理由――――それは、泉の水が赤いからだった。
この泉周辺にはカレイユという藻が生えているのだが、それがサンゴの様に赤い。その成分が溶け出し、泉全体が赤いのだ。
ユキの目にも山間を抜けるとその光景が目に入ってきた。
赤い泉というよりも、色は濃いピンク色だ。
「すっごい! なにこれ!? 初めて見た!」
ユキはそのピンクの泉に絶叫した。
アルスが笑う。
「そうだろう。初めて見ると誰もが驚く」
泉の周囲には大勢の人で溢れかえっていた。年に一度のお祭りである。
地方の貴族や商人、いろんな町や村の人々がいる。
その中央に立派な紫色の天幕が張られ、檀上が作られていた。
皇家の天幕だ。
人々の群れの中に兵士が配され、道ができている。コルトに乗ってそこを通ると大きな歓声が人々の中から沸き起こった。
ユキは少しドキリとしたが、アルスが「大丈夫だ」と言った。
アルスが守ってくれている――――
それだけでユキは心が落ち着くのを感じた。
アルスに促されるまま、手を振ってくれる人々ににこやかに手を振りかえした。
天幕の側に来ると、先に下りたアルスがコルトからユキを抱き寄せて下してくれた。
人々の中から「キャー」と黄色い声が聞こえる。
その「歓声」というよりもアイドルでも出て来たのかと思えるような声に、ユキは驚いて群衆を見た。
老若男女たくさんの人がいるが、特に目立つのは若い女性が多い事だ。
彼女たちの声が甲高く響き渡る。
ユキは不思議に思いながらも、手を振ると、また「キャー」という声が返ってきた。
「これは、これは。アルス様。ユキ様。仲睦まじいことで何よりです」
しゃがれた声がする。振り返ると大臣筆頭のダマクスだった。
年齢はもうすでに60を超えている、この国の重鎮だった。
アルスの父親のサロール陛下の片腕でもある。
「何だ、ダマクスか……」
アルスが思いっきりため息をつく。
ユキもダマクスにペコリとお辞儀をした。
どうもユキはこの御仁が苦手だった。
相手からは好意の「こ」の字も見えてこない。どう考えてもユキはこの人にとってお邪魔虫のようだった。
大切な皇太子をたぶらかした女にしか見えないのだろう。
『女神は歓迎されている』なんて言ったのは誰だっただろうかと憤慨したくなる。
アルスがユキの手を引いてくれているが、その反対側でダマクスが今日の競技や祭典の説明をアルスに行う。
そのまま紫の天幕に入ったものの、ユキは一人ぼっちの気分だった。
時折送られてくるダマクスの視線が突き刺さる。
あっちの観覧席に行きたいな……
湖の畔にたくさん作られた桟敷席を見て、ユキはぼんやりと考えていた。




