7. 浸食(9)
第1節のラストまでは、あと2ページほどだった。内容からして、今日の午後には終わるだろうとユキは見立てた。
本当は第3節までは書きたかった。エリの残した10ページと比べると、残数は30枚。比べればその多さがわかって堪える。
それでもこれが自分の限界だった。
今朝アルスに話したのが日本語だとしたら、いよいよ日本へ帰るカウントダウンが始まる気がしたのだ。
今日もアルスとそしてモリが付き添ってくれていた。
昼食が終わると部屋にはググンまでもが顔を見せた。〈女神の書〉が完成する現場に立ち会いたいらしい。ググンらしいなとユキは思った。
ユキがペンをすすめる。残すはこのページの半分ほどだ……。
――――姉の薫がマグカップを2つ握っている。
「ねえ、雪。どっちにする?」
1つには母親の洋子の好きなバラの柄、もう1つには白い水玉模様に小花があしらってある。どちらも洋子は気に入ってくれそうだ。
雪と薫は学校の後、駅ビルの雑貨店で待ち合わせていた。
昨日お気に入りのマグを割ってしまった洋子の為に、母の日のプレゼントに追加して、マグカップもプレゼントすることにしていたのだ。
どっちにしようか?
「お姉ちゃんはどっちがいいと思うの?」――――
「……さま。ユキ様!」
ヘレムがユキの顔を覗きこんでいる。
また、夢を見ていた。
「…………朝?」
「違う。もうすぐ書き終わるところだろ?」
ヘレムの横にはアルスもいる。
下を見ると机には書物が広がっている。
「……そうだわ。『女神の書』を書いていたんだわ」
イリヤが原書を開いてくれている。
「いかがですか? どちらまで書かれましたか?」
ユキが原書を読み、今自分が書いていた文字を読む。既に第1節の最後の行まで来ていた。
終わった。
――――終わっている。
ユキが最後にベルサド語で『完了』の文字を入れた。
それを見ていたイリヤの顔がパッと明るくなる。
「終わったわ」
ユキの言葉に皆が歓声を上げる。
「おめでとうございます」
ヘレムとサラナは泣いている。
モリが微笑んでくれている。
ググンは興奮を抑えきれないようだ。
「ユキ。よくがんばったな」
アルスがそう言ってユキを抱き寄せた。
「ありがとう。アルス」
気をきかせて皆が部屋を出て行った。
「何ともないか?」
「うん。全然何ともない」
「これで終わったんだな?」
「終わったよ。ありがとう」
アルスが微笑んだ。
――――ユキは思い返していた。
あの時マグカップは水玉の方を選んだのだ。
他には何をプレゼントしたっけ?
お母さんはどんな顔をして受け取ってくれたっけ?
……もうよく思い出せなかった。
ユキは達成感よりも、家族の事を考えていた。
これで本当にもう会えなくなってしまう――――
「大丈夫だ。ずっと俺が側にいるから」
ユキは何も言わなかったのに、アルスがポツリとそう言った。
ユキは声を上げて泣いた。嬉し涙では無かった。
最愛の家族との別れを思い、泣いたのだ。
部屋から出ると、アルスが原書と女神の書の回収をググンに命じた。
ユキが驚く。
「アルス。待って。それまだ使うわよ」
ユキが原書を指さす。なぜならサマルディア語の〈女神の書〉はまだ3分の1ほどで止まっていたのだ。
「もういい。書かなくていいんだ。ベルサド語の〈女神の書〉を急いで翻訳させる。人員は揃えてあるんだ」
「でもせっかくあそこまで書いていたのに」
ユキがそれを惜しんだ。
「絶対にダメだ。もうあんな思いはしたくない」
「ねえ、ググン。サマルディア語で書いたものを見たいでしょ?」
「いいえ。ユキ様。こちらで十分です」
あのググンすらきっぱりと言い切った。
ユキは後ろ髪をひかれる思いだったが、また同じ目に遭うとも限らない。そう考えると諦める事にした。
「それよりユキ様。今日は盛大に宴を開きましょう。実はこのググン数日前から準備を進めて参りました。とりあえず内輪だけですが大いに祝おうじゃありませんか!」
したり顔のググンを見てユキが吹き出した。
ググンがいると「感傷」というのは、別の世界にあるのではないかと思えてしまう。
元気に笑うユキを見て、アルスは安堵した。
「何ともない」とユキは言っていたが、アルスの目にはみるみるユキの顔に生気が溢れてきているように見えたのだ。




