7. 浸食(2)
ベルサド語での〈女神の書〉作成は順調だった。
他の物事に気を取られず、外交というプレッシャーがユキの仕事を早くした。
それにサマルディア語の時に、羽ペンの使い方はマスターしていたので、言語が変わってもすぐに順応する事が出来たのだ。
サマルディア語での翻訳にかかった半分の時間で、ベルサド語の女神の書の3分の1を終えようとしていた――――
◇ ◇ ◇ ◇
その日は珍しくアルスが昼過ぎには暁の宮殿に帰宅した。
〈女神の書〉の進捗状況が気になっていたのはもちろんの事だが、ユキの顔が見たくて中広間に顔を出した。
けれど、そこには誰もいなかった。
護衛兵に聞くと庭園を散策中だと言う。アルスが中庭へと足を運んだ。
「イリヤはどこの出身なの?」
ベルサド人には見えないイリヤにユキが質問した。
「生まれは北のロベリアです。母親がロベリア人で父親がベルサド人なのです。父の仕事の都合で子どもの時にベルサドへ移住致しました」
雨期を終えたサマルディアには春のような暖かさがあった。
暁の宮殿の中庭にはこの時期に咲くと言う、白い綿毛のようなガジャラの花が咲きみだれていた。
冬の無いサマルディアに降り積もる雪の様に美しい。
根を詰めて作業を行っていたので、気分転換にユキがイリヤを誘って中庭を散策していたのだ。
「皇子と一緒ね。皇子の母君もロベリアのご出身だったと聞いているわ」
二人の顔が似ているとは言えないが、どこか似た雰囲気を感じる時があるのだ。
冬の晴れた朝に窓を開けると感じる、冷やりとして澄んだ空気。
北国のロベリアの血が入っているからなのか、ユキは二人にそういう空気を感じるのだ。
「きれいね」
ユキが空を隠すほど満開に咲くガジャラの花を見上げて呟く。
上を見て歩くユキが足元の窪みに躓いた。
イリヤが反射的に手を出し、ユキを支えてくれた。
「ありがとう。上ばっかり見ていたから、転んじゃうとこだった」
二人が顔を合わせて笑った。
ふとユキがイリヤの指の付け根の固い隆起物に気付いた。
「あら……? これって剣だこ?」
ユキがイリヤの手を取り、マジマジと見る。
「皇子の手にもあるもの。剣術をするの?」
「いいえ。私は……その、全く剣が扱えないんですよ。子どもの時にはラスカーに教えてもらっていたのですが、欠片も才能が無くて」
イリヤが恥ずかしそうに微笑む。
ユキの手からそっと自分の手を引くと、手の平の隆起を眺めた。
「これはペンだこと本の整理でできた物なのです。書類に書物にと書き物は後を絶えません。国では毎日毎日何かしら書いておりますので。それに陛下の貯蔵の書物を管理するのも私のお役目なのです。重い本を毎日たくさん運んでいるとこんな手になってしまうのでしょうね」
イリヤがヒラヒラと両手を振った。
「そうね。よくわかるわ」
ユキもイリヤを見て笑った。
この世界に来て、羽ペンを毎日使っていると、ユキの指にも「たこ」ができた。パソコンやスマホを日常のツールとして使っていると、ペンだこなんてものには無縁だったのだ。それが今ではまるで竹馬の友である。
「ユキ!」
呼ばれて振り返ると、今歩いてきたガジャラの木の小道をアルスが歩いてくる。
「どうしたの? 今日は早いね」
「仕事が早く終わったんだ」
ユキの側まで来ると手を掴みアルスは自分の隣にユキの手をスッと引いた。
「ユキに用事がある。広間に戻りしばらく待て」
対面したアルスがイリヤに言い放つ。
「……ほら、訳しろよ」
そう言うと、アルスが肘でユキを小突いた。
その場には通訳のキリルが居なかったので、仕方なくユキはイリヤに向き合った。
「えーっと、『私に用事があるそうなので、しばらく広間に居てもらえますか?』と皇子は言っています。……伝わった?」
ユキはアルスの険のある言葉遣いを、なるだけ柔和な言葉に変えた。
「もちろんですよ」
イリヤが笑顔で答えると、アルスに丁寧に頭を下げてその場を去った。
……我ながら相手に合わせてどうして言葉が切り替わるのか不思議でならない。
イリヤが去るとアルスがユキに向き合った。
「どうして二人きりでいるんだよ!?」
アルスの眉間に皺が寄る。
「二人きりじゃなかったでしょ? みんな後ろにいたじゃない」
少し距離はあったが、広間にいたサラナと護衛のテムが付いてきていたのだ。
「手を取り合っていただろ」
アルスはむくれている。
「あれは私がガジャラの花を見て歩いてたら、転びそうになったのよ。それでイリヤが手を貸してくれたの。そこからペンだこの話になって……。何もヤキモチ焼くような話じゃないんだから」
ユキにもアルスの気持ちはよくわかる。この前それを体感したばかりだったのだから。
「……とにかくヤツにあまり近づくなよ」
アルスがぼやくとユキがアルスの腕に絡みついた。
「心配するような事なんて何も無いんだよ」
ユキはアルスの顔を下から覗き込んだ。楽しい物でも見つけたようにユキは無邪気に笑う。
アルスがフッと息を吐き、もう一方の手をユキの肩に回そうとした。ユキはそのアルスの手をかいくぐり、スルリと前に出た。
「それじゃあ、またお仕事するから後でね」
そう言うと、小さく手を振る。
「ちょっと待て、せっかく早く終わったのに」
アルスが離れて行こうとするユキを呼び止めた。
「今が、頑張りどころなの。この調子で進めば、あと一か月くらいで終わりそうよ」
そう言うと眩しそうにイリヤの待つ宮殿を眺めた。
「一緒に戻る?」
「……いいや、もうしばらくここにいるよ」
微笑を浮かべたユキはアルスにもう一度手を振ると、白い小道を軽やかに戻って行く。
ユキの後ろ姿を見送ると、アルスはその場にしゃがみ込み、ガジャラの花を見上げた。
「ユキ」という名前は北国で降るという、白い雪から来ているのだとユキは言った。
ユキが生まれた日はそんな雪が降り積もっていたそうだ。
このガジャラの花は、雪を見た事のある者にとっては本物に見紛うことのあるほど、美しく似ているそうだ。
アルスの手の平に、フワリとガジャラの花が舞い落ちてきた。
ユキとイリヤが二人でいるのが気に食わない。
自分が側にいられないのに、あの男は一日中ユキの隣にいる。
自分の知らない言葉でユキが何かを伝える。真剣な表情でも、笑顔でもそれを見るのが嫌だった。
そして何より嫌なのは、あの男がユキを見つめる目だった。浮かべる笑顔の向こうには砂漠の闇夜の様な冷たさを感じる。
しかもユキが書に向き合っている時にでもその目は、書物ではなく、ユキを見つめていた。
アルスの手の平のガジャラの花が、サーッと吹いてきた風に攫われてしまった。
アルスはその花の行方を見えなくなるまで見つめていた。




