1. 現実主義(2)
日が暮れる頃、ユキは久々にヘレムとサラナの二人に飾り立てられていた。
食堂かどこかで一緒に食事をするのだろうと思っていたけれど、今夜はアルスの部屋で食事をしようという事だった。
この部屋に来るのは初めてだった――――いや正確には二度目である。
なんせ前回この部屋を訪れた時には、アルスに門前払いを食わされたのだ。
苦い思い出が胸をよぎったが、頭から追いやると、ユキはドアをノックした。
アルスが扉を開け出迎えてくれた。
初めて入るアルスの自室は、クリーム色のシルクのカーテンや絨毯に、調度品はダークブラウンで統一されていて、上品で落ち着いたインテリアだった。
少し奥に入ると、そこはリビングになっていて、大人が20人くらい座れるのではないかと思えるほど大きなコーナーソファと、一人がけのソファもたくさん置かれている。それぞれが白を基調としており金の装飾が入れられていた。
「すごく広いのね……ビックリ。ここで寝られそう」
ユキはアルスに促されるままその大きなソファに腰かけた。
食事が並んでいたのはダイニングでは無く、その大きなソファの前のテーブルの上だった。
一口大にカットされたり、スプーンに小さく盛り付けられた食事が並んでいる。
まるで豪華なピクニックだ。いつもとは違う趣向にユキはワクワクしてきた。
あらかたの食事を平らげ、ユキは最後に、小さなカップに入ったデザートを堪能していた。
「……しかし良く食べたな。大丈夫か?」
アルスがあきれた風に口をきく。
「さすがに満腹。でも甘いものは別腹と言うでしょ? なぜだか入っちゃうんだよね」
「『別腹』って何だよ。初めて聞いたな」
「別にお腹があるのよ。甘い物専用のね」
ユキがパクリと頬張りながら言うと、
「そうだろうな。……そうに違いない」
アルスが笑って答えた。
「明日からは何をするんだ?」
「もちろん、今まで通りの生活よ。メインは『女神の書』作成だけれど。……でも明日からスノウのお世話ができるのがすごく楽しみ。最近遠くから眺めるだけだったし、少し撫でたら『もうおしまいです』ってトトに追い出されるんだから」
プンとしてユキは続ける。
「……そうよ。明日からスノウのお世話するんだった。朝からダラダラベッドで過ごせないのよ。早起きしなくちゃ」
ユキはデザートのカップをテーブルに置くと、少し温くなった紅茶で流し込んだ。
「ごちそうさまでした」
丁寧に胸の前で両手を合わせるユキを、アルスは見つめた。
「アルス……今日はありがとう。すごく楽しかったよ」
ニコリと笑ってお礼を言うと、ユキは立ち上がった。
その手をアルスが掴む。
「ちょっと待て! まだ早いだろ? 食ったら帰るのかよ?」
「……人を食い逃げ犯みたいに言わないでくれる? 結構時間も過ぎてるよ。最後の鐘(夜9時ごろ)だってずいぶん前に鳴っていたもの」
「まだそんな時間だろ?」
「えー、だって今からまたお風呂に入ってたら遅くなっちゃうし。明日起きられないかもしれないもん」
アルスの手から自分の腕を離そうとするユキを、今度は強く引き戻した。
バランスを崩すユキをアルスが腕を回し支える。
「じゃあスノウの世話は明日までトトだ」
耳元でそう言うとアルスはユキの唇に自分の唇を重ねた。
急な出来事に一気に頭に血が昇る。
ユキはアルスの肩を両手で押しのけて言った。
「急に何すんのよ!? びっくりするじゃない!」
顔を真っ赤にしながらユキが抗議する。
「急じゃない。ずっと待っていたんだ。ユキの体が良くなるのを」
そういえば火事の直後に口づけして以来、あれだけ側にいたのに、アルスはユキに口づけしなかったし、触れる事も少なかった。
「……ユキが俺の元からいなくなったことまで考えれば、もっとずっと長い間我慢してきたんだ」
そう言うとまたユキに口づけをした。
アルスがスッとユキの脇から下のソファに手を着くと、ユキの体がコロンとソファの上に仰向けに倒れてしまった。
「待って! 待って! お願い」
「無理だ」
アルスはまたユキに口づけようとした。
だがユキがアルスの口元にグイと両手の平を押し当てた。
アルスの目がまん丸に開く。そのままの体勢で頭を少し上げた。
「…………嫌なのか?」
恐る恐るアルスが尋ねる。
「うん」
即答してユキは「しまった」と思った。
もっと言いようがあっただろう。
そしてこの二文字には相当の威力があったのか、アルスの表情は驚きと困惑と落胆がないまぜになっている。
ユキの上で何がしか考えた後、アルスはゆっくりとソファに座りなおした。深くため息をつくと、もう一度ユキに確認した。
「……本当に嫌なのか?」
ユキの目は、そのアルスの問いかけにはどう答えたらいいのかわからず宙を泳ぐ。
「えーっと……。やっぱりほら。スノウのお世話をしなくちゃいけないしね」
言いなが立ち上がる。
あからさまに咳き込むと、喉の調子を確かめた。
「あ、ん、ん! やっぱりまだ喉の調子はおかしいなあ」
アルスは何も言わずにジッとユキを見ている。
「……というわけだし……ホントにごちそうさま! おやすみ」
言葉だけを残して、ユキはアルスの部屋からそそくさと逃げ出した。