3. 秘密(1)
オクリナの泉から戻ると、アルスが大宮殿から戻らなくなる日が続いた。いよいよベルサド王国との同盟の協議が大詰めのようだった。
ベルサド王国に派遣されていた、サマルディアの使節団が戻ったのだ。その中にはググンの部下のヒシグも含まれていた。
ヒシグによるとベルサドの王は同盟の条件として、東トロイ国に対抗する為の武力援助と月の女神であるユキの引き渡しを求めてきた。
ヒシグを始め、使節団にとっては皇太子であるアルスとベルサドの王女との縁談がどうしてまとまらなかったのかは、周知の事実であった。
それは「ユキを妃にする」というアルスの意向が、全面的に通ったからだ。「月の女神」の引き渡しでは本末転倒である。
ベルサド側にはそのような事情は通じていないはずだった。
王の娘との縁談の話すら、水面下で行われていたものであり、公にされる段階ですら無かったのだ。
それは単純に「女神」という世界の宝を得ようとする思惑だったのかもしれない。
しかしこのベルサドの要求を、使節団はその場で拒否し代替案を求める事にしたのだ。国に戻ってもこのような要求が通るはずがないからである。
サマルディア皇国としては、わざわざ小国のベルサドに使節団を送り、譲歩しているのだ。
同盟条件は時を待たずにすぐ代替案を提示されていた。そして使節団はその条件を検討するべく国に持ち帰っていた。
「ベルサド語で〈女神の書〉を作るですって!?」
久々に会うググンから驚きの言葉が飛び出し、ユキは思わず叫んだ。
同盟の条件は女神の引き渡しから譲歩され、まずベルサドの言葉で〈女神の書〉を作る事を求めてきたのである。
「でもどうしてそんな事を要求してくるの? 女神の書は結局世界中に出回っているのよね? 関連本だって山ほどあるじゃない」
ユキは腑に落ちないという顔でググンに尋ねた。
「その『時間』が問題なのですよ。もちろんすぐに翻訳されることもありますが……。これは〈女神の書〉を得た国の裁量に依る所が大きいのです。つまり、我が国が〈女神の書〉を禁書として扱えば、女神の知識は世界中に行き渡りません。何十年、下手すれば何百年とかかる事だって有り得るのです」
「でも、サマルディアはそんな馬鹿な事はしないでしょ?」
ユキが口を挟んだ。
「もちろん、そのような愚かなことは致しません。女神の知識は世界の宝なのですから。これはあくまでも仮の話です。それでも絶対無いとも言えない事なのですよ」
ググンが続ける。
「それに、世界中に女神の書を広めるというのは、案外大変な事なのです。翻訳にも時間がかかりますし、印刷技術もユキ様のお国と比べると雲泥の差があります。他にも……いえ、これが一番の理由でしょうね。ユキ様ご自身が書かれた〈女神の書〉に価値があるのです。何と言っても直筆の聖書ですからね。まあ、その為時間もかかりますよね」
ググンがチラリとユキを見る。
確かに時間は掛かっていますよ。
書き写すといっても、専門用語は難しいし、サマルディアの言葉でどこまで表現していい物かわからない部分も多いのだ。
わからない所はヒリク先生に相談しながら書き進めている。
「でもベルサドの言葉が本当に私にわかるのかな? エレノワ様の所で、ベルサドの人と話した事はあるのだけれど、どんな言葉なのかはわからないわ」
「こちらにはございませんが、ベルサド語の本や辞書も大宮殿の書庫にはございます。……ですが今日は悔しいのでお持ちしませんでした」
ググンが苦虫をつぶしたような顔をしている。
本当に悔しいらしい。笑っちゃいけないのに、ユキには可笑しくて仕方がない。
「心配しなくても、ベルサド語で書いたら、サマルディア語の〈女神の書〉の続きは書くから」
ユキは堪えきれずに笑った。
「笑い事ではございませんよ!? せっかく我が国に女神が降臨したのに。なぜベルサドなどに先を越されなければならないのか!」
ググンは握りこぶしで机を叩いた。
さすがに女神マニアはご立腹だよね
と怒られないように、ユキは笑いを必死でかみ殺した。
ベルサド王国との同盟条件になれば、今までの様にのんびりと〈女神の書〉作成を行う訳にはいかない。
同盟が締結すれば、ベルサドから〈女神の書〉の作成に必要な書物が送られ、ヒリク先生のような識者が派遣されるだろうとググンは言った。
外交という政治の世界を垣間見ると、ユキは少なからず不安になった。
この国から出るわけでもない。
いやこの宮殿すら出る事は無い。
来るのは向こうの方だ。
でも何故か今からユキはそわそわとするのだ。
少しでもサマルディア語の〈女神の書〉を書き進めたいのに、どうにもこうにも落ち着かない。
何かが心の中で引っかかっている。
掴みたいのに掴めない。
そんなもどかしさがユキの心に巣食う。
私は何か大切な物を見逃している……




