ラーキン・コネリー
夜風が生い茂る草木を撫でるように吹き抜けていく朧げな月明かりの下、老人は一人公園のベンチに座り、ただ正面を見据えていた。 何を見ているのか、それとも何も見ていないのか……。 ただ、身じろぎ一つなく人形の様に座っていた老人の白衣は肩口と腹部から臙脂色のグラデーションをもたらしていた。 少し離れたところには誰かが不法に投棄したのか、それとも初めからそこにあったのか、そして何の残骸なのかも分らない鉄屑が散乱していた。
加えて、強烈なオゾン臭が周囲を満たし、そこに居る人が草木の青々とした香りを嗅ぐことは叶わなかった。
「うわ、なんだこれ? あのガラクタから洩れてる匂いかな。 まったく誰だよ……」
そこへ、薄暗闇の沿道からゆっくりと近づいてきた人影があった。 だが、老人はその声にも一切の反応を示さなかった。
「……」
「やあ、御爺さん。 誰かまちびとかい?」
そう問いかけた気さくそうな青年は、しかし何か言いたそうな気配を目線から感じたのか、それを非難と受け取った若者は慌てて手を振った。 ただ、青年は周囲が暗くて気が付かなかった。 その白衣を染め上げているのが、その老人から流れていた血液だという事に。 加えて、血生臭さは漂っていたオゾン臭のせいで気付きにくくなっていた。
「いやいや、あの、その席に僕の知人も良く座っていて、なんか雰囲気が似ていたから……。 は、はは……」
青年はベンチには座らず、その横で夜空を仰ぎ見た。 冬の夜空はとても澄み渡っていて、光害の無い公園の中心からは満点の星空が良く見て取れた。
「その人は、僕の上司っていうのかな。 まぁ、偉い人なんだけど、今の仕事が上手くいったら僕達、クビにされちゃうんだ……」
独り言のように呟く青年の言葉に老人は目線だけを向けた。
「まったく、どうしたらいいものか……。 どうせなら……失敗しちゃえば、なんとか生きていられるんじゃないか……」
仕事の話をしていたかと思えば「口封じにしても酷過ぎる」などと物騒なことを呟き始め、思考の渦へと没入していく。
しかし、突然その事を自覚したのか、苦笑いを浮かべて少し動揺した様子で老人を一瞥した。
「あ、その……僕が上手く立ち回れば、職を失わなくていいかもって事だよ。 は、はは……は……」
だが、何を話したところで、いっこうに老人は反応を示さなかった。 もしかしたら聾者なのかなと青年は思ったが、それでも、胸の内にため込んでいた事を吐き出せた満足感と、例え今までの話しを聞いていなかったとしても、自分に付き合ってくれた名も知らぬ老人に感謝していた。
青年にとってはそれでよかったのだ。 場末のBARの様に、暗い店内、向かい合わないカウンターの様に、正面からは語る事が出来ない――しかし、逆を言えば正面から話さなくてもいい場所というのは、人には必要なのだ。
図らずもそれを提供してくれたこの公園と老人に、青年は務めて明るく振る舞い、そして手を振った。
「それじゃあ、またね。 御爺さん」
去っていく背中は、あっという間に闇夜に溶けて行った。 再び一人きりの静寂が老人の周囲を満たす。
だが、不思議と寂しさや虚しさは感じられなかった。 そもそも、今の体には、思考する体力すらも、失われつつあったからだ。 もう指先一つ動かせない。 全身が弛緩し、ただ肉体がそこにあるだけ。
「……」
彼の目にはもう何も写ってはいない。 だが、一つの答えを得た老人は満足げに、気付かないほど薄らと口元に笑みを浮かべた。
暗闇の中、ただ耳に届くのは、生涯を通して延々と聞き続けてきた時を刻む心音という名の針の音。 その感覚が徐々に間をおくようになり、やがて、力を無くしたゼンマイは自らの役目を終えた。




