502
血しぶきが舞う。 衝撃で後ろ向きに倒れゆく体。 自力では支えきれず、床にその身を預けた。
着弾した肩口からは未だに出血しており、貫通した背中からもそれは変わらない。 右手で幹部を抑えるが、圧迫止血するには十分ではない。 おそらく衝撃で鎖骨にひびが入っている可能性がある。
「……」
季人は静かに後ろを振り向く。 そこには、硝煙を上げている銃を持ったトラヴィスが立っていた。
「残念だが、神に祈るような不確定要素は極力排しておきたいんだ。 私はね」
「と、トラヴィス……っ。 何故……」と機材に寄りかかりつつも体を起こそうとするラーキン。
撃たれた時に手放してしまったのか、現在その手に銃は無く、部屋の隅に飛んで行ってしまっていた。
「それはこちらのセリフだぞラーキン。 稼働させるなら私も立ち会わせてもらわなければ。 そういう取り決めだっただろう? いつまでたってもお呼びがかからないから来てみれば……。 独断専行は契約違反だ。 それに、気になる事を話していたな。 確か、過去に遡るとか。 我々の当初の行先は、ギリシアの研究施設だったはずだが?」
「……っ」
苦虫を噛み潰した表情でトラヴィスへと敵意を向けるラーキン。 そして、様々な感情が交錯する中で行動する機会を見計らうしかない季人。
「なぁラーキン。 確かに私は科学に対してなんら博識ではないし、専門的な事は全く分からない。 しかし、君がこの装置で過去へ飛び、歴史が変わってしまった場合……今進行している世界がおかしくなるのはなんとなく想像できる。 そして、それが分っているだけでも、君を過去に飛ばすことはとても危険なんだよ」
トラヴィスの言っていることは間違ってはいない。 現時点から過去へと遡り、歴史に介入した場合、どのような形で未来が影響を受けるのか未知数であり、その変化を感知できるものはどこにもいないのだ。
俯瞰的に見れば人ひとりとっても、今までそこに存在していたはずの人間が消失し、器だけが同じでまったく別の意識を持った存在になっていると言っていい。 その変わってしまった人物には変わる前と何が違うのかも分らないのだ。
「この装置は本当に素晴らしいものだ。 正しく、歴史を変えるだけのポテンシャルを秘めている。 これを生み出しただけでも、君の生には十分意味があった。 人の執念が生み出した英知の結晶。 実に素晴らしい。 そうは思わないか水越君?」
トラヴィスの銃口は未だにラーキンへと向けられている。 だが、季人はトラヴィスに対して警戒を解かない。 セレン・ドライバーの影響がまだ体に残ってはいるが、死を前にして泣き言は言ってもいられない。
「思うさ。 全面的に肯定する。 カルディアにも、そしてラーキンに対しても賛辞は惜しまない。 いやマジで」
その言葉に嘘は無い。 手段はどうあれその功績は、人類史に名を残す偉業であることに間違いはないのだから。
「だが、もしラーキンが歴史を……過去を変えてしまったら、今この瞬間にこの装置が無くなってしまうかもしれない。 そればかりか、私の人生にすら影響があるかもしれない。 それは頂けない。 ラーキンがこの装置に人生を賭けているように、私もこのプロジェクトに国の未来を掛けている」
トラヴィスは季人の横を通り、機材に手を掛けながら呻き声を上げているラーキンを蹴り飛ばした。 そして今度は季人へ銃口を向けつつ、カルディアの台座にある数値入力用のコンソールに触れる。 当時と同様の設備なのか、それとも大幅に改修されているのかは季人には分らないが触れている液晶パネルは現代ならではのアレンジなんだろうと思った。
「案外、こんな事をしなくてもいい未来に変わるかもしれないぞ」
ラーキンが過去へ飛ぶことによって、ギリシアの未来が明るいものになるかもしれない。 バタフライエフェクトはフィラデルフィア計画の成果を、トラヴィスやギリシア国民にとって幸福な物をもたらしてくれるかもしれない。 例えそれが、別の次元のものであったとしても……。
だが、そんな楽観的希望は、周到なトラヴィスには持ち合わせていなかった。
「ふん、望み薄だろう。 それに私は、この世界の国を救いたいのだ。 まぁ、ラーキンには本当にすまないと思っている。 しかし、両者の望みが同時に叶う事は無い。 お互い、初めから分っていた事だろう」と笑顔でラーキンを見下ろしながら「だから、君は敢えてこのプロジェクトの目的を口にしなかったし、私も話には上げなかった。 その点は、君にもこの結末における責任がある」と言って再びコンソールに向き直る。
「それを使って国の立て直しって……プランはあるのかよ……」
「当然だ。 しかし、そう難しい事ではないだろう。 即応性があり、金になって、顧客に恵まれている物など、そう多くは無い」
それは暗に一つの答えを示していた。 ここに来るまでにも、先の話にも上がっていた事だ。
「結局、やっぱ軍隊かよ……」
「もちろんそれだけではないが、まずはそこからだ。 なに、前にも言ったが私は元企業家だ。 売り込みに関してはその辺に居る奴らよりは自身もある」
「確かに、その強かさなら納得できる。 特に、手段を選ばないってポイントが高く評価されてるんじゃないか?」
「ああ。 それが私の持ち味だ。 だからこそ今この地位に居る。 君には分らないだろうが、実に気分のいい役職だよ」
コンソールから目線を季人へと向けたトラヴィスの瞳は、人々の身を劫火へとくべてきた者だけが湛える野心という篝火が灯っていた。
「なら、そこから転げ落ちる気分てのも味わっておけよ、きっと、この先役に立つぜ」
季人の言葉の意味をトラヴィスが理解出来たのは、視界の外で撃鉄を起こす音が聞こえたからだ。
その音の発信源――ラーキンは予備として足首に備え付けていたホルスターから引き抜いた銃の照準をトラヴィスへと向けていた。
「何事も、保険は掛けておくものだ」
荒い息を吐きながら、壁に手を着きつつ立ち上がるラーキンがトラヴィスの後頭部に銃口をあてる。 出血の影響が出ているのか、体は幽鬼のようにふらついており、いつ倒れてしまってもおかしくない。
「どいてもらおうか。 これは私の実験だ。 余計な手出しはするな」
「それより、老体でその怪我は堪えるだろう? 大人しくしておいた方が良いのはそっちじゃないのか?」
「この程度で死ぬような精神力だったら、そもそも私はここまで来れてはいない」
額に脂汗を蓄えながらも、その口調はこれまでとさして変わらない。
だが、トラヴィスは銃口を押し付けらていてもその表情に焦りは無かった。 それは奇しくも、季人が良く浮かべている……腹をくくった人間が浮かべる表情だった。
「確かにそうだ。 だが、命を賭けているのはお前だけじゃない」
そして、トラヴィスは可能性という名の信頼性において確証が無い勝負に、全てを賭けた。
素早い動作で体を回しつつ肘でラーキンの銃を左へと逸らし、自身の後頭部をその射線から外た。 そしてトラヴィスへと手にしていた銃を向ける。
「ちょ、まてっ!?」
こんな密室で銃を持った二人がやり合うという事は、第三者にとってみれば、はた迷惑以上の何ものでもない。
季人は正面にシールドを構えてその場にしゃがみ込む。 途端に聞こえる発砲音の乱舞。 そしてジュラルミンを掠める弾丸の軌跡。
照準があまいのか、それとも我先にと引き金を引き、何処かに当たればいいと考えているのか、互いに二、三発は撃っただろう。 ただ、両者ともにもみ合いながら撃ったせいで服や表層の肉は抉れたが、どちらも致命傷は無かった。
だが、柔らかい人体では無く特別広くも無い艦橋ブロックでそんな物を打てば、それは跳弾となって意思のない暴力と化す。
そして、それは同時に思いもよらぬ結果をもたらしてしまった。
「ま、まずい……っ!!」
それは誰が上げた声だったのか。 縦横無尽に駆け回った跳弾の一発が、カルディアのパーペチュアルカレンダーを掠めた。 途端にカルディアから不整脈の様に軋むような音が鳴りはじめる。 季人にはその様子が、ラーキンから聞かされたヘンリー・ロズベルグのとった手段を思い起こさせた。 つまり、暴走――。
「ぬぁぁぁぁ!!」
ラーキンが獣のような声を上げてトラヴィスを殴りつけて弾き飛ばし、異音を発し続けるカルディアのレバーに手を掛けた。
「―――っく!!」
季人はそれを見た瞬間、思い切って後方へと跳躍した。 死角へと自ら飛んだことで、一瞬ではあるが階段から足を踏み外した時のような浮遊感を味わった。
だが、視線は正面を向いたまま――そして、カルディアは起動した。
シャボン玉の如き七色に輝く被膜のような層がカルディア本体から発生し、高回転型のエンジンの如き甲高い音を鳴らしながらラーキンとその周囲を覆った。
「くそ、ラーキン! 貴様!!」
膜の外に居たトラヴィスが銃を向ける。 しかしその銃身がその膜に触れた瞬間、まるでヤスリでも掛けたかのように半ばから削り取られてしまった。
薄さ1マイクロメートルにも満たないその膜は振れる全てのものを消失させると、この現象に初めて立ち会う季人でさえ直ぐに理解した。
「――」
膜の向こうでコンソールを操作し、ラーキンはこちらに向き直って口を動かし、何かを語りかけていた。 しかし、既に次元転移が始まったのか、誰の耳にもそれが届く事は無い。 ただ、その表情から発せられたものが何であれ、満足のいく結果から出てきた言葉だったろう。
なぜなら、ラーキンの表情は、成し遂げたような男の顔で、不敵に笑っていたのだから。
より光量が増していき、音は反比例していくようにミュートされていく。
「……すげぇ」
それしか言葉が出てこなかった。 季人はただただ、その光景に見入っていた。 公的には記録に残らずとも、自分はタイムマシンに起動に立ち会っているのだ。
そして、その眩さが最高潮に達した瞬間、光の消失と電気が漏電した時のようなスパーク音をその場に残し、ラーキンとカルディアはその周囲を球体状に抉るようにして消えてしまった。
その中心部、今までカルディアがあった場所付近では、ERB発現の余韻を残すように、虹色の紫電が残滓の様に奔っていた。
呆然と、そこに今まであった空間を開いた口も閉じる事を忘れて季人は見つめていた。 確かに今まで存在していたはずのものが、超常的現象を引きを越して、消えてしまった。
「本当に……」
成功したのか……? そう続けることが出来なかったは、事実季人には判断できなかったからだ。 加えて――。
「……変わらない」
意識も記憶も連続しているように思える。 実際、過去が変わってしまったら自覚症状などなく、真実など知る由もないが、すくなくとも、自身がエルドリッジの艦橋という座標に位置し、日時も変化は無く、水越季人であるという事を認識できている以上、ラーキンの手が歴史に改竄した形跡は認められない。
その認識は、どうやら季人の目の前で尻もちをついていたトラヴィスも同様のようだ。
「ふん、失敗か、それとも過去とは別の次元へと跳んだか……」
本当の理由は誰にもわからない。 唯一真実を知る人間は、既に誰も手の届かないところへと行ってしまった。
「ならば僥倖!! 成果は確認できなかったが、起動したというだけでも収穫だ。 それだけでも売り込む価値はある。 それにこのデータがあれば、再びシステムを組み上げられる。 何の問題も無い」
悲嘆にくれるかと思っていたトラヴィスは、しかしそんなそぶりは一切見せず、目の前の功績からさっそくこれからの指針を立ち上げていた。
「……!?」
その時だ。 トラヴィスが制服の胸元に手を当てたのを季人は見逃さなかった。 今の口ぶりと、その些細な行動から導き出される答えに、季人は自信を持っていた。 やはり、最重要であるデータは自分自身で管理していたのだ。 誰にも触れさせず、最も信頼できる場所に置いておくのは、事が事なだけに当然の処置だろう。
それは予想されていた事であり、今まさに確証が得られた瞬間だ。
カルディアの回収は出来なくなった。 だが、もう一つの目的であるフラッシュメモリの回収が残っている。
暗礁に乗り上げかけていた問題だが、目と鼻の先にその解決へと至る光景が現れたのだ。
「さて、これ以上ここに居たところで意味は無い。 私はこの辺りで失礼させてもらおう」と声を弾ませるように善は急げと踵を返すトラヴィス。
「おいおい、ここまで来て俺が見逃すと思ってるのか?」
トラヴィスにはもう銃は無い。 そして疲労度の蓄積は高くとも、季人はまだ動ける。 セッテピエゲも問題ない。 スタンナックルもあと二撃程度はバッテリーが持つだろう。 ならば、ここで黙って船を降りる事を見逃すことなど出来ようはずがない。
「そうは思わないが、しかしな……。 その足で追ってこれるなら私は止めはしないが、正直動かない方が身のためだ」
どの足だって? と季人がトラヴィスの視線の先にある自分の足を確認する。
「――ぇ」
自覚症状が今まで全くなかったから気が付かなかった。 その太ももに開いた穴からは赤黒く変色した液体がにじみ出ていた。
その出血量から、重要な血管に損傷は無さそうだったが、気付いてしまった今、焼き鏝をあてられた様な熱と、アドレナリンのお陰で痛覚が痺れるような鈍痛となって本人に即時安静を訴えかける。
セッテピエゲで跳弾は防げたと思っていたが、思いもよらない形でその凶弾は季人に喰らいついていた。
加えて、弾丸は太ももを貫通してはおらず、体内に残留したままだ。
無理に動けば傷口はさらに悪化し、いよいよもって行動不能という事態に陥るかもしれない。
「ふっ、大人しくしていることだ。 ではな、水越君。 縁があれば、また会おう」
トラヴィスはカルディアの起動と共に一瞬で国外へと逃げ出す予定だったかもしれないが、今となってはその手段を行使する事は出来ない。 だが、第二第三のプランを用意しておかないような男ではないのもまた確かだろう。
このまま大使館にでも籠られてしまえば時間を稼がれたうえで、新たな手段を用いた上でトンズラをかかれてしまう可能性がある。 もしくは、即座に国外へと飛び出すプランが用意されている可能性も捨てきれない。
それに、ERB発現に備えて、施設から人手を払ってしまった事が今になって仇になった。 今からではこの場に駆け付けるまでにかなりの時間をようし、結果、トラヴィスは余裕で逃げ遂せてしまうだろう。
季人はシールドの先端をトラヴィスに向け、ワイヤーを発射しようと人差し指のボタンを引き絞った。
「……っ」
しかし、バッテリー不足なのか、それとも単純な故障なのかは分らないが、ワイヤーが射出されなかった。
だが悔しがっている暇も無い。 今自分にできることは即座に実行しなければならない。 かと言って、他に残されている武器なんて――。
「そう簡単に行くかな? 今頃地上ではあんたを包囲する為に、ロズベルグの人間が四方に目を光らせているぞ。 そんな中を単身で潜り抜けられるとは思えないな」
トラヴィスが艦橋から出て行ってしまう瞬間、季人が咄嗟に口にした言葉はピタリとその足を停止させた。
今はハッタリでも何でも口にして時間を稼ぐしかない。 もとい、今の自分にはそれ位しか出来ないとわかっていた。
それを分っているのか、トラヴィスは不敵な笑みを季人に向けた。
「この施設に来るとき確認しなかったのか? ここの屋上は、開けているのだよ」
「……まさか、ヘリがあるのか?」
「いや、まだ到着はしていないだろう。 だが私が上がる頃には到着している」
トラヴィスは無線機を取り出して季人に見えるように通話を始めた。 それを見た季人は同じく自身の相棒へと応答を計る。
「聞いてるかウィル」
『ああ、今ロズベルグの人間をそっちに引き返させた。 間に合うかどうかは……ギリギリかな。 季人は大丈夫?』
「足をやっちまった。 気持ちはトラヴィスを追いたくて仕方が無いんだが、このまま追ったら長い階段の途中でダウンするな、きっと」
季人は傷口を手で圧迫しながら、額から噴き出し始めた汗を拭った。
『分った。 あとはこちらで何とかする。 負傷者が出たことも伝えておくから、季人はそこから動かないでくれ』
「了解……悪いな」
『いや、むしろ僕に出番を残しておいてくれたと思う事にするよ』
ウィルがそういうのとトラヴィスが通話を終えるのは同時だった。 そして季人の方を再度向き、「では、失礼するよ」などと言って艦橋から出て行った。
「まぁ、こういう時の為のプランB位は用意してただろうさ。 それでどこまで行こうとしているのかはしらねぇけどさ」
そのヘリの行先までは分らない。 だが、周到に準備された計画であるなのら、自身を勝利へと導くものでなくてはならない。 よって、トラヴィスが向かう先は季人達が手を出す事が出来ない場所か、物理的にはるか遠くという事になる。
「だけどよ、これだけの事をしておいて、落とし前も付けないままトンずらしようなんて、虫が良すぎるよな」
『へはは、そうだね。 政治家なら、責任の一つもとってもらわないと』