何があったんだとか、たずねても
怪しい反応しか返ってこないのは、絶対何かがあったからに違いないんだ。それを言わないのは、僕が彼女に嫌われているから。
邪魔者だって、自覚がある。僕のせいで、従妹はしなくてもいい不自由を強いられている。
*
「何が起こったのかは……深く追求しないで。うるさく、聞かないでほしいのよ――――」
年頃の娘らしく結い上げられていた栗色の髪は、信じられないほど散々に乱れていた。
薄桃色のリボンも解けかけて、波打つ髪に絡んでいる。
目深にかぶって出かけていくのを見た、帽子が頭の上から消えている。
砂糖菓子みたいな甘い顔に浮かぶのは、不機嫌です、と語る眉の歪み。
そしてむくれた、ローズピンクの唇。口紅は落ちてしまっている、地の色だ。
燃えるような怒りをたたえた栗色の瞳。……怒っている。
自分を? あるいはここにいない彼女の父親か母親を? ……もしくは、他の誰かを?
リボンが絡まった髪が、わずかにふわりと動く。
分厚い樫の扉の向こうから吹き込んだ、夜風が揺らしたせいかもしれなかった。
夏が近い、そろそろそんな時候だった。
南にある保養地ではビーチが開かれたと、今朝の新聞が伝えていた。
明るく広い、白大理石が独特の光沢をもって訪れる人を迎える侯爵家の豪奢な玄関で、少年の従妹姫は薄汚れた黒いコートの中で居心地が悪そうにしている。
「――――な。何があったんだよ……」
ローガン・パーシヴァルは、努めて動揺を抑え込みながら、やっとその一言だけを絞り出した。
努力がどれほど必要だったか。考えても見てほしい。
外出先から戻った、従妹姫の恰好と来たら……!
着崩れてくたびれた白にピンクのドレスが、外套の前開きから覗いている。
羽織っていった夏らしいシルクシフォンののケープはない。
見慣れない金ボタンの黒い外套を肩に掛けていて、重そうなその中で華奢な身体がもぞ、もぞ、と動く。 ドレスの裾から覗く爪先は――――裸足だ。
「――ッ」
ローガンは、悲鳴を上げかけた。声は、出なかった。
裸足で、歩いてきた? ……どこから。どこから……?
あのお気に入りの、サテンのミュールを履いていない。
あの、レダ・コルネリウスの、一昨年作らせた、ピンクの。
ちょっときついの、でも気に入ってるから。……大切に履いていたのに!
「……何があったんだよ!」
語尾がきつくなるのは仕方がない。
だって、誰だって。
誰だって、会食に出かけた従妹が、供も馭者も、まして三頭立ての馬車もなく屋敷に戻ってきたら、それもこんな痛ましい姿で……!
「なんで……、なんでこんなことに! 何があったんだ、い、イフーフのお婆様は、ルーさんはどうした……」
冷静でなんて、いられない。
「二人とは別れた後だったから……」
なんでもなさそうに、少女は首を振る。
一家のお嬢様の帰宅。
そんなありふれた日常が、この時間、ここには訪れるはずだったのに。
まず門番が仰天した。
侍女が迎えに出て悲鳴を上げ、執事長が、家令が、食客が、書生たちが、――そして少年も。誰も、冷静でなんていられない。
こんな時に、彼女の両親、ローガンの伯母と義伯父は揃って外出していて。
「だ、大丈夫、なのか……? 誰かに、酷いことを……」
それでも言葉を、選ばなければならなかった。
彼女は、女の子だ。そして自分は男だ。
何気ない言葉の一つで少女を傷つけられることを、少年は知っている。
パレード見物の食事に出かけて、同席した彼女の祖母君や叔父と別れて、帰宅する。
その過程で彼女に何が起こったのか、少年はそれを質さなければならない。聞かずにいられない。
それがたとえ、どんなに悲しい、惨いことであったとしても。
「怪我は、セシル。怪我はしていないのか……? どこか、痛いところはないのか?」
「んー? んん……」
うつむいて、いかにも不満そうに頬を膨らませた顔は、いつもの彼女、のように見える。
少年の焦燥に、まるで興味もなさそうに。
「……痛いっていうか。……ねえ、誰か、お湯を汲んで。まず手を洗うわ。足も。多分真っ黒だから。私が落ち着けば、みんなも安心でしょう? 落ち着いたらシャワーの用意をして」
「……な、なあ。お前、馬車はどうした? 馬は? 馭者は? メラニー夫人は? 一緒だったんだろ?」
「……あっ、」
少女が小さく吐き出して、胡椒の実を噛んだ時みたいにそれこそ我が従妹ながら天与の、愛らしい唇を大きく開いた。
「そうなのよ! メラニーさんたち、今大変なの! ……あんたへの説明は必要ないのよ、必要なのは人出! 馬屋の人たちを中心に、馬車を出して、そうね、五人かそのくらいで解決できるはず……、なのよ。ねえ、きいたでしょう、フェンネルさん! フィオーラの、モドリアンとディジョンの間よ、馬車が横転して、横転は直ったけど、扉が壊れちゃって」
少年から決まり悪げに視線を泳がせて、側にいた家令に叫ぶ。
「セシル……」
「大丈夫、車はひっくり返っただけだし、馬も二頭は残してきたし、メラニーさんもグスタフさんもちゃんと無事で……、ただ、馬は一頭人に貸しちゃってて、私はそこまでナディアに乗ってきたの……! 人を呼ばなきゃどうにもならないんだもの、立ち往生しているのだもの! 動ける者が動かなきゃ、らちが明かないじゃない、だから私が人を呼びに来たのよ!」
一本ずつ立てた両手の人差し指を、顔の両端で言葉と一緒にぱたぱた動かすのは、慌てている時の彼女の癖だ。
どんなに可愛い仕草でも、それを見慣れた少年はごまかされない。
……なんだ、その怪しさ満載の、発言の数々は。
馬車がひっくり返った? そんな大事の後で、一人ひょうひょうと供から離れて帰宅する、年頃の娘らしからぬその無神経さが、もはや謎だ。
「ナディア号は、人に貸したの。で、このコートを……借りた、のよ。心配しないで、馬は明日の正午に事故のあった場所で引き渡されるから。ね。フェンネルさん、夜遅い時間なのは申し訳ないけど、馬屋の皆さんにお願いして、出られる人はみんな出てほしいのよ。グスタフさんとメラニーさんを助けに行って。できるだけ急いで。フィオーラのモドリアンとディジョンの間よ。ええ、セシルがもう今夜はお外に出られないのはわかっているわ。おとなしくお部屋で休んでなさいって言いたいんでしょう」
「……」
「……ねえ、フェンネルさん……ローガン、怒ってるの……?」
恐る恐る、といった風情で窺う従妹に、しようがないな、と呟いて、少年は口許に笑みを浮かべた。
少年の、姑みたいな小言を彼女が嫌っているのを知っている。
主に彼女の素行に関してのみ、怒りの沸点が異常に低くなることも。それを避けるために長じて口数が少なくなってしまったことも。
自覚は、ある。
たった一人のこの従妹姫のことは、実はローガンの頭の中の多くを占めているのだ。
誰にも話したことなんてないが。
つい押し付けてしまう過保護にうんざりされたり、時に独善的な威圧に彼女の頬がひくついたりすることも、知っている。
……だから、接点を、特に最近は多く持たないようにしていた、のだが。
お互い、昔のようにじゃれあって仲良く遊んで、という年齢でもない。
どうしてもローガンは彼女を女の子として扱わなければならないし、そのように扱うのもなんだか気恥ずかしくみっともなく、難しい気がして、結果気難しげに彼女を避けることを選んだ。
その選択が、いかにも卑怯な逃げであることを、知っていてもだ。
「……怒ってない。お前が無事なら、誰にも、何もされていないんなら、僕はそれでいいんだ。ね、フェンネルさんも。そうでしょう」
だから、今夜は安心させてやりたいと思った。少年は殊更優しく語りかけた。
そして責任の一端を、隣で黙している家令にも背負って貰うことにする。
この家の家令は、セドリック・フェンネル。どこかの貴公子といって差し支えない容貌の美男子なのだが、ごく普通の有能な家令である。
彼の高祖父の時代からドリュー侯爵家の家令を代々務めるフェンネル家の、当代もっとも若く優秀な人物だ。兄は執事をしている。二人の姉はセシル付きの侍女だ。
「ええ、お姫様。すぐに馬屋を中心に隊を揃えて向かわせます。わたくしも同行するようにしましょう。家財と家人に責任があるのは、いいですか、お姫様、勘違いをなさいませんよう。責任があるのは、このフェンネルです。フェンネルの力が足りず、お姫様に大変なご心痛を味わわせてしまったこと、心よりお詫びいたします。どうかお許しを」
一家のお嬢様に許しを請う家令の姿なのだが、なぜかもっと厳かで意味ありげなものに見えてしまうのは、少年の目にかかった何かのバイアスのせいに違いない。
まるで、乙女に愛を乞う切なげな貴公子のような姿だ。
これこそ、少年の勘違いだ。家令は、家財の不備や家人の不始末を、彼のお姫様に詫びているだけ。
「そうだよ、セシル。お前はやるべきことをやったんだ。人手を集めたかったんだろう。フェンネルさんが動いてくれて、みんな事故現場に向かうよ。お前はちゃんと、やるべきことをやり遂げたんだ。あとは、部屋でゆっくりしていいんだ。それがお前に残された仕事だと思えばいい」
いたわる少年の声に、少女はふわりと微笑んだ。
乙女の無垢。汚れた両手を胸で組んで、少女は感激を隠さない。
「ローガン……! 怒ってないの……?」
潤んだ栗色の瞳は、きっと自分のものと同じ色味なのに、縁取る睫毛の長さが違うだけでこんなにも甘やかだ。
相変わらず、無骨な外套の中で居心地悪そうにしながら、一体どこで擦ったのか土埃のついた頬を花の妖精みたいに綻ばせて少女は笑う。
「怒らないよ。ほら、お湯が来たぞ、今夜はゆっくり休め。早く休んだほうがいい……」
……ちょっとした事故か、何かアクシデントがあっただけ。
従妹姫はともあれこうして戻ってきたし……。聴取は明日時間を置いてからでも……。
「ほんと? ……あー、よかった! あんな目に遭ったのに、その上あんたの説教まで食らったんじゃ、私、今日の収支は大損だったわ」
――こういう娘だから、いろいろ心配するのも無駄、という思いが、脳内のどこかを駆け巡ることもある。
少年の懊悩など笑い飛ばしてしまうようながさつな仕草で、少女が乱れた髪を片手で撫で付けると、かろうじて結わえられていたリボンが音も立てず、ついに落ちた。
「……」
それを、ローガンは無言で拾い、二つに折ってくるくると巻いた。……薄桃色にもっと濃い色の薔薇と、白いマーガレットのモチーフが刺繍された繊細なリボン。
「それ、ちゃんときれいに巻いてね。すごく大事にしてるの」
磨かれた大理石の床をぺたぺた歩いて私室への階段を少女は上っていく。その後を追うように、それぞれ陶器の瓶と琺瑯の桶と何枚かのタオルを抱えた少女の侍女たちが足早に過ぎていく。
行き過ぎる侍女のタオルの上に、巻き終えたリボンを置いた。
少女の、まるっきり普段と変わりない、……何を踏むのも恐れない、まるで権門の娘らしくない豪放な様子に――――いや、らしい、のか。ある意味そうとも言える――――集まっていた家人たちも書生たちも食客たちも、自分の持ち場へ、居場所へと散り散りになっていく。
ああ、これは大丈夫、いつものお姫様だ、と安堵して。
「……」
少年は知らず込められていた肩の力を抜いた。
脱力して、はっと気を取り直して、ぎりっと唇を咬む。
片眉を跳ね上げて、少女の消えていく先を睨みつけた。そして声高に言い放つ。
「――――セシル! 着替えたら僕を呼べよ! 何が起こったのか、ちゃんと聞かせてもらうからな‼」
「えー? いいわよ、ほっといて。もう休ませてくれるんでしょう……めんどくさいなあ、明日にしてよ……」
少年の声に、少女が歩を止めることはない。
だんだん遠くなる声に苛立ちを覚えながら少年は、ローガン・パーシヴァル・ヘイゲンは嘆息した。
「セシル! だからお前は世間知らずだっていうんだ! 日常生活に対する危機感が薄いんだよ!」
「……聞こえなーい……」
「あいつ……!」
もうすぐ、十五年だ、従妹との付き合いは。
物心ついたときには一緒だった。亡母の姉である、伯母のところに引き取られて、セシルが生まれて。十五年になる。
もちろんそんな幼いころの記憶なんてない。
名門の姫君にしてはどうにも規格外に育ってしまったあの従妹姫が、ローガンの思い通りになったことなど、一度もない。
彼女はイルーフ女学院という真深い森の中で、特別な乙女になるための教育を施されている最中だという。
特別な乙女……?
イルーフ女学院の全容など知るすべもないローガンたち男子学生にしてみれば、それだけで何か心弾むような響きがあるものだ。『イルーフの乙女』。
――――あれが、特別?
思えばローガンはいつも深淵に佇む自分を自覚する。
「嫌われてるのか……? 嫌われてるよな、僕やっぱり……」
密かに零す少年の心模様など、誰も知らない。というか、誰にも知られてはならない。
少年の矜持はそれを許さない。
「あのお姫様をどうこうしようなんて、本当、今更だ」
今更、だ。
先ほどの、あのリボン。買い求めたのはローガンだ。今年の初めの彼女の誕生日に贈った。
薄桃色に、小花の刺繍。セシルの栗色の髪にはよく似合うだろうと。
……ああいういじらしさは、本当にずるいと思う。
「……」
吐き出した吐息はほんのり冷えた夜闇の気配の中に溶けて、少年をまたひとつ大人に近づける。
こんな物思いも確かに、ローガンにとっては魂の鍛錬のひとつなのだった。
……セシルは、あんなに可愛い。
……あんなに、可愛くない。