危機感がうすいとか、いわれても 9
きっとひどいプレイボーイなんだわ。
セシルは憤慨した。怒りのせいで、頬はきっと真っ赤になってしまっている。
やっぱりご自分が聖フリーダになりたかったような人なのよ!
でなければ、出会ったばかりの名前も知らない娘に、こんなこと言えるはずがないもの!
きっと嫉妬に駆られて、聖フリーダと彼に夢中になる女の子たちを蔑視するような言い方をしたんだわ。
半年のちやほや期間が自分のものにならなくて、残念でした!
青年の胸の下でぷりぷり怒りをこらえながら、セシルは無口になった。多分もう、飛んでいくものもないだろう。
ハート形でかわいい、口紅とハンカチだけが入ったポシェット型のクラッチは、馬車の中に置いてきてしまっている。
ナディア号はぐんぐん進んだ。
青年の手にした手綱は、セシルの前でたゆんだりピンと伸ばされたりしながら、器用にナディアを御している。
彼女も、まんざらでもないのかしら、このジルに制されて背に乗せていること。
だって、こんなに元気に走る……。
「オーレン街、まもなくのようですね」
少し速度を落として、ジルはセシルに訊ねた。
左手や、右手を見れば、立ち並ぶ建物や街路樹はセシルがいつも馬車の窓から見ているよく見知った風景だ。
馬車の中から眺めるより、ずっと近いだけの整然として美しい路。
車高が少し違うだけ。
「ジル。ハーヴァルの交差点で降ろしてくださる」
環状二号とハーヴァル通りの交差点を、一号側に三ブロック行った先がドリュー侯爵邸だ。隣り合った四つの区画が、すべて屋敷の敷地に当たる、大きなものだ。
環状線の間に走るまさしくドリュー通りは、ドリュー家の正門で行き止まりになり、裏門からまた始まる。放射状線の間に走るハーヴァル通りの隣の聖アルシネア通りもまた、ドリュー家の南門でいったん途切れ、北門からまた環状一号に抜ける。
三人家族と三十名ほどのお客さん、百人ほどの家人を収容してなお広大な、屋敷。そこがセシルの後見家庭だ。
「ハーヴァルの交差点、ここから二本先ですね。時間が惜しいな」
「な、なんですって?」
「……ですから、貴女と過ごす時間が。もうすぐ終わってしまうでしょう、あと二本の通りを進んで。もったいないなって。もっとお話ししたかった……。いっそ明日僕自身がが馬を返しに行こうか、とか。そのときお嬢さんも来てくれて、またお話しできたら夢のようだな、とか。僕、おかしいですか? お名前も教えて下さらない、つれない方なのにね」
馬はすでに闊歩する速さで、まるで本当に残りの時間を惜しんでいるかのように、ゆっくり歩んでいる。
セシルの心臓は逆だった。
壊れてしまいそうな速度で、信じられないほどどくどくと脈動を続けている。
一気に様々な情報、それもセシルには対応できないことばかりを押し込められた頭の中も、今にも破裂しそうな感じだ。
頭蓋骨の中には、脳みそが詰まっている。人間を含め、動物はたいていそうなのだと初級生物学の授業で習った。
頭蓋骨が爆発して壊れ、脳みそや脳漿が辺り一面に飛び散る。はびこる血管網から血を撒き散らして。
想像してみる、あまりにも凄惨な光景に、セシルは大きく身震いした。
この状態を、何と言って説明すればいいのか、セシルにはわからない。
「お寒いですか? 風に当たったからかな」
「え? ……ええ」
まさか、頭が爆発する瞬間を想像していましたなんて、真正直な答えはできない。
だって、それではまるで、セシルが猟奇的な女の子のように思われてしまう。
――――そこではた、とセシルは一瞬思考を停止した。
そして、やがて一瞬止まった思考が、スムーズに流れていく。
……わたし、このジルに、猟奇的とは思われたくないんだわ。
……少しでもごく普通の女の子と思われたまま、別れたいんだわ。
……少しどころか、ちゃんとしたお嬢さん、なんて思われたいんだわ。本当は。
男の子なんて、ちっとも好きじゃないのに。興味があったのは、きれいに着飾った聖フリーダだけ。
男の子たちは大きな声で笑って、自分たちの世界からセシルを仲間外れにする。
セシルをサロンから追い出す。
男の子なんて、ちっとも好きじゃないのに。
馬の引き取りには、明日グスタフさんか、他の馬屋の使用人が出向くことになるだろう。馬の管理は彼らの仕事だ。
セシルが、ジルに会うことはきっと二度とない。
ドリュー家は、海軍の家。陸軍府の方と関わることなんてこの先ずっとない。
セシルは、二度とジルに会えない。
彼が、時間が惜しいと言ったのは、この寂寥のためなのか、とセシルは思った。
名前も教えていない。
彼にとってセシルは、馬車事故の現場でたまたま出会った娘であり、馬を借りたいと要求すれば余計な仕事まで背負わされた、娘だった。そしてお姉様たちの後輩という認識。
それから、名前も教えてくれない、つれない人だ、と言われた。
たぶん自分には名乗らせたのに、公平じゃないという思いが、ジルにはあるのだ。
セシルが、一方的に彼をジル・トラヴィスだと知ったままの別れ。
セシルだけが、彼をジル・トラヴィスだと覚えていて、時折彼を思い出すこともあるかもしれない。たとえば、来年の聖フリーダの日に。再来年の聖フリーダの日に。
……セシルだけが、彼を思い出すのだ。
そんなの、不公平だわ。
彼だって、そうであってほしい、という思いがセシルにはある。
ジルにだって、来年も、再来年もセシルのことを覚えていて思い出してほしいと思う。
セシルが、ジルに出会った日だと思い出すのに対し、彼にはせいぜいイルーフの森の娘にフィオーラ大通りの事故で出会った、良家のお嬢様らしかった、オーレン街で馬から降ろした、あの娘、そんな風にしか思い出してもらえない。……名前を教えていないから。
「さて、お嬢さん。ハーヴァルの角ですが……本当にここがご自宅近く? まさかここから、裸足で何ブロックも歩かれるおつもりじゃないでしょうね」
セシルが、様々な考えを巡らせている間に、とうとうその時が来てしまっていた。
セシルはあたりを見回して、確かにそこが、環状二号とハーヴァル通りの交差点であることを知る。
ガス灯は、フィオーラ大通りほどの間隔ではなく、明かりが少ない。
お屋敷町なので、出歩いている人もなく深閑と静まり返った夜がそこにある。
「そうね、数ブロックは歩くわ。……速足というか、ひょっとしたら走るのかも」
乙女を被っていない、素のセシルが真面目に応える。
「やっぱり、ご自宅前まで……」
セシルはびっくりした。そんなの困る。
海軍のドリュー侯の娘だと、わかってしまうじゃない。そんなの困る。
「いいのよ。そんな、大げさな距離じゃないんだもの」
海軍府と陸軍府の、年間予算を争う攻防など、すさまじいものがあるとよく新聞に書いてある。年頭のころ、冬の休暇でよく目にする、風物詩的なそれだ。
同じ国の国防を担当する同士であるのに、両府は仲が悪いと聞く。
貴族院でもその争いは顕著で、海軍派の議員と陸軍派の議員は仲が悪いらしい。これも新聞をにぎわせる話題の一つだ。
まずジルがいったんナディアを降り、ついで、セシルが降ろされた。
肩に手を、と言われるままその通り、彼の肩に手を置いて両方の鐙に掛けた足の右の方をを、裸足で蹴上げて、最後はジルに抱きしめられるようにしながら降馬した。
「あ、ありがとう」
セシルはジルの腕の中、胸の中にいて、これはお婆様や叔父様ともよくする、さっきだってした行為であるはずなのに、知らず、頬を赤らめた。
「大丈夫よ、爪を割らないようにちゃんと、注意深く走るから」
ごまかすように言ってセシルは、その腕から逃げる。
「きかないお嬢さんだ」
ジルは声を上げて笑った。そして、セシルの肩に自分が来ていたコートを掛ける。
「重いでしょうけど、少し我慢して。来週、仕事でイルーフの森に出かける機会があるんです、実は。その時にあなたを探します。そこで、そのまま戻してもらえればいい」
セシルは今度こそ心の底からびっくりした。
きっと素っ頓狂な顔を、彼の目の前に晒してしまっていることだろう。
暗い夜道でよかった。暗くて少し怖い夜を強い味方だと、初めて感じた。
ずっしりと重い、黒の陸軍府のコートを肩から乗せて、地面にめり込んでしまいそう、と重力に耐える。
耐えて、一つの提案をした。
「私を探すには、符牒が必要でしょう? 明日の馬の受け渡しでもそう。ジルのお使いの方は、ナディアに近づいてきた我が家の者でもない別の誰かに、馬を引き渡してしまうかもしれないもの。それに、森は広いの、学舎を隅々まで歩いて私を見つけるには、数週間はかかるわ」
「確かに。何を根拠に、確実に貴女を探し出せると思ったんだろう。……多分、茶色か、黒の髪? 瞳も同色系? 馬に乗るのが上手で、小鳥みたいな声で……きっとあなたはすごく聡明な才媛だ。そんな方がイルーフにそう何人もいるとは思わなかったけれど」
あと、完璧な儀礼が身についているということ。
ジルはそう続けたけれど、その最後の条件一点で、セシルを彼には見つけられない。
「リーヴィーよ。私は、イルーフの杜の『リーヴィー』」
「――――リーヴィー。貴女はイルーフの杜の、リーヴィー……」
彼はそう繰り返して、じっとセシルを見下ろした。
帽子のないセシルの、わずかにくせのある波打った髪から、顔、コートが覆った、肩のあたりを。
「明日、私の家のお使いは、『イルーフの杜のリーヴィーの使いの者です』といってフィオーラのモドリアンとディジョンの間へ行くわ。ナディアを引き渡すとき、ジルのお使いの方は『ジル・トラヴィスの使いの者です』と伝えてくれればいいのよ。お互いを知らない者同士の符牒よ」
「妙案だ。本当に貴女は、賢くていらっしゃる。額が広いのもそう、頭のいい方の特徴だそうだ」
「……そんなのは、ただの俗説です……」
賢いとか頭がいいとか言われれば、普段からお婆様から出される課題のせいよ、とセシルは言い訳したくなるほど恥ずかしい。
だって、お婆様のセシルへの教育は、予習重視なのだ。
様々なカリキュラムを前倒しで制覇していくやり方では、それはどうしても正規のカリキュラムで学んでいるみんなとの間に明確な差ができてしまう。
お婆様の情熱はわかるけど、どうしても私って異端児なのよね。
セシルはいつものように根深い悩みを反芻してみる。
だから、ジルの皮手袋の手がそっとセシルに伸びてきて、風が乱していたらしい前髪をわずかに整えたとき、セシルは反応が遅れた。
「……しゅっ……!」
淑女の髪を許しなく触るなんて!
「しゅ?」
「早く! もう早く行って!」
セシルはこれ以上どう彼と向き合えばいいか、考えられなかった。
なんて不作法で、恥ずかしい人なんだろう、やっぱりプレイボーイなんだわ。
女の子の髪に勝手に触るなんて!
だから男の子って、嫌いなのよ!
「え、ええ……? わからない人だな、せっかく今すごくいい雰囲気で……」
「いい雰囲気なんて、ありませんでした! あなたは早くナディアを連れて行って! 明日返さなかったら、このコートを持って憲兵隊にまっしぐらですからね、陸軍府のジル・トラヴィス!」
まるで淑女の敵のような彼に、質のようなコートのおなかを抱きしめるように、セシルは後ずさりした。
「……わかりました。イルーフの杜のリーヴィーは、まだとんでもないねんねさんだってことが」
まったく、なんて失礼な方なのかしら!
「ねんねじゃないわ! れっきとした淑女です!」
「淑女なら、もっと雰囲気に酔わされて、流されてほしかったのに。女の子らしく」
「淑女とはたやすく酔わされず、流されず、乱されないものです!」
まるでお婆様みたいな言い方になってしまったけれど、セシルは本気だった。
流されて、たまるもんですか。
「今も、思いっきり乱れているけどね」
出会った当初より、はるかに砕けて打ち解けた口調、様子で、ジルはセシルをからかう。
まるで気安い、友達みたいに。
ずいぶん年下のはずのセシルのことを。
男の子って、男の人って、こんな?
だとしたら、セシルの知っている男の子とは何だったのだろう。
彼らはたいてい排他的で、一人だけ女の子のセシルを遠くへ追いやる存在だ。
女はあっちへ行け、と目や背中で語るのだ。
そして大げさな笑い声や大げさな身振り手振りで、セシルを私室にこもらせる。馬小屋や道具入れに足を向かわせる。……これでも私一応、一家のお嬢様なのに。
彼らと、ジルは違う。
ずっと気安く、もっと対等な関係に、ジルはセシルを置いてくれたのだ。
「じゃあ、リーヴィー。僕行きます。来週、イルーフの森であなたを探し出せるといいんだけれど」
「ええ、そうしてちょうだい!」
肩のコートは、ずっしりと重たかったけれど、馬に揺られて少し冷えてもいた身体にはありがたかった。
そういえば聖餐の前まで肩にかけていた薄手のケープも、馬車の中だった。
明日にはナディア号を返してもらって、来週にはこのコートを返すのだ。
杜にコートを持ちこむのは、そう難しくない。寮生活に必要なものだけが所持を許されているけれど、セシルは抜け道を知っていた。麻かコットンの袋にでも入れて、トランクケースの中から出さなければいいのだ。
寮から持ち出すときは袋のまま。
「じゃあ、ね。ナディア、ちゃんと元気で帰ってくるのよ。今晩はよそのおうちにお泊りするの。新しいお友達ができるかもよ?」
その場での足踏みで、ナディアはコツリコツリと蹄鉄を鳴らす。
お泊りして来るわよ、それでいいんでしょ。
ちょっと投げやりな様子が思い浮かんで、セシルは美しい目の彼女のたてがみを撫でた。
「もっと楽しんでよ。まったくあなたってば強情なんだから」
セシルは笑みを深くして、ナディア号から離れる。
「ナディアは、女の子で優しくされたいの。打ったり、強く引いたりは絶対にやめて下さいね?」
ジルに念を押して、彼女を再び彼に引き渡す。
ジルはもう一度馬上の人になると、セシルを心配げに見下ろした。
「くどいとは、思ってるんです。でも、本当に気を付けて。お屋敷町ですけど、どんな危険が夜に潜んでいるかなんて、僕にはあまり想像がつかない。街灯も少ない。それから」
と、ふと言葉を区切って、続ける。
「さっきも事故にあったばかりでしょう。貴女の心の中や身体だって心配だ。今は元気でも、明日突然首の付け根から痛んだりするかもしれない。馬車に乗るのが怖いと、この先思うようになるかもしれない。怖いことだと思うかもしれないけれど、事実です。症例として、そんな話を聞いたことがあるから……それから、ナディア号のことは心配なさらず。女王に仕えるように接してみせますから」
彼は続けざまにセシルへの心配を並べ、最後には一つの不安の解消してくれた。
「じゃあ、ジル。さようなら」
「ええ。リーヴィー。イルーフの森で、また」
拍車ではなくつま先でナディアを促し、ジルは馬の方向を変えた。先ほど入ってきた、フィオーラの方角だ。つまり、ここから東。遠回りを、やはりさせていたのだ。
「あの! ありがとうジル! 助けてくれて! 二度も! 三度も!」
その背中に謝辞をぶつければ、彼は片手だけ挙げて手を少し振り、こちらは振り返らずに馬を走らせた。
背中が小さくなるまで見送って、セシルは走り出す。
先ほど請け合った通り、注意深く、爪を傷つけないようにしながら。環状二号を裸足で渡り、ハーヴァル通りを三ブロック進むと屋敷沿いの塀だ。
ドリュー通りの行き止まりの東正門。ほっとして、セシルは駆け寄る。
交代で門を守る二人の門番は、黒い外套を小さな肩からずるりと引きずった、まるで不審者のような一家の総領姫様を眺めて、仰天した。
「私は大丈夫。心配なのはグスタフさんとメラニーさんなのよ」
彼らのお姫様は、多少お元気にお育ち遊ばされた。
主な遊び場所が、お庭や馬小屋という変わった姫様だったが、分け隔てなく誰にでも丁寧に接してくれるので、使用人には人気がある。
何が何だかわからないが、大変な目には遭ってこられたらしい。
人手が必要なの! と必死に言い募っておいでだ。
門番は困った。さらに裸足のお嬢様のおみ足を見つけて、二度天を仰いだ。
自分たちの職分を超えたことには口出しできない。これは家令か侍女長の指示が必要と判断して、お嬢様を中に招き入れる。
彼らには、長い夜の始まりだった。




