危機感がうすいとか、いわれても 8
「ジル・トラヴィス様。我が家のナディアです。どうぞよろしく、お願いいたしますね」
「ええ、お嬢さん。大事に扱いますよ」
「大事な子よ。約束は守ってくださ――――ぅん?」
言葉の途中で、がたがたっと馬車が揺れた。馬たちは音にわずかにいなないたあと、再びおとなしくなる。
――傾いていたドアの、外れてしまった音だった。
「――――ああ、なんてことかしら」
セシルはまた扉側に回って、惨状に釘づけになる。そして、大きく溜息をついた。
本当に、もう。たまに杜から出るとロクなことがないんだから……。
蝶番どころか、それを止めていた桟の木枠ごと崩れてしまっている。
メラニー夫人も仰天したように起き上がっていた。
鞍をグスタフさんに任せた青年も、駆け寄ってくる。
「これは……ひどい。これじゃあドアは簡単に直りませんよ」
それに、飾り窓のはめ込みのガラスにもひびが入ってしまっていた。
「ひとまず、扉を中に乗せておうちまで走るのが適切かしら」
「それではあなたの座る場所が……先ほどの長縄をもう一度借りてきましょうか。でも、高さがあるから、車体の屋根の上に乗せるのは無理があるかな……。扉を中に収めて運ぶとなると、この厚みですから貴女も侍女殿も中に座るのが難しいでしょうね……一人は馭者台に座れるにしても、これでは不用心だ」
外側は武骨なのに、中は豪奢な馬車なんて、奇妙過ぎる。
走行中は覗き込まれる心配はそうないにしてもだ。
「ガラスも割れてしまうかも……」
セシルは自分の力のなさを恨んだ。……もし、自分がローガンたちみたいな男の子だったら、どうしただろう。
青年に貸す予定だった馬を取り上げて、自分こそが家に助けを求めるために単騎で走るだろうか。
「……ジル・トラヴィス様、ナディア号ですけれど」
どうしようか、とセシルは少し考えた。
「……あなた様がお急ぎでいらっしゃるなら申し訳ないのですけれど、自宅近くまで私を同乗させていただけませんか?」
橙色の明かりの下で、薄明るい光を放つ青年の瞳を、セシルは見上げた。
……彼が今年の聖フリーダでも問題なかったはず。そんな頓珍漢な考えがぱっと脳裏にひらめく。
「時間なら……ええ、大丈夫ですが。賢明です、運ぶにしろなんにしろ人手が必要ですもんね。貴女が、それを呼びに行くとおっしゃるなら。でも……」
「何か問題が?」
「――――それは、どう見てもお嬢さんは良家のご令嬢のようだし、外聞が」
女の子の事情を察してくれているのはわかった、けれど。
「今、一番間近にあるこの問題を、解決できない方が問題です。急いで自宅へ帰り、人手を集めませんとこれはどうにもなりません。侍女はさぞかし動揺していることでしょう。馭者は馬車と馬に責任があります。鞍は一つだけ。あなた様に一頭お貸しする約束も違えられません。私は裸馬には乗れませんし、馬上の女性の顔を見上げて外聞が、などという不躾な方を相手にするつもりもありません。私は外聞より、家人の身の安全と家財に責任を持ちたい」
セシルは決然と言い放った。
否定することを許さない、強い言葉だ。誰にも、否定させない。そう思う。
そういう思いは、伝わるものだ。実は、セシルの弁舌の声が美しく凛々しいと称えてくれる、叔父様の評価だって、セシルには嬉しいものだった。
セシルの雄弁は、情の強い少女のそれだ。潔癖で、義真に満ちあふれている。
これを、口先だけの淑女と呼ぶのは無理がある。
扇動者の素養を持ったような声、言葉選び、そして抑揚だ。才能と呼ぶには、危険なそれだ。
「ええ、わかりました。では貴女様をお送りしましょう。ご自宅近くまで。もちろん私は、貴女のご自宅がどこかを知らずに、目的の場所へ帰る」
「そうなさって下さい」
セシルと青年の間で、話は決着した。
「グスタフさん。話は聞いていた? 私、家に戻って助けを呼んでくるわ。馬と夫人と、馬車をお願い。いいわね、このまま立ち行かないのが一番の問題よ。この方は制服を着た陸軍府の方、お名前はジル・トラヴィス様。一時経っても誰も助けが来なければ官憲を呼んで」
「ですが、……ですがお嬢様の御身が……」
「大丈夫よ。こちらの方だって、国中に手配書が回るのを望まれるほど、愚かではないわ。きっとね。今日は聖フリーダの日。白の神も聖フリーダも、嘘を許し、嘘を許さない」
それほど信心深いセシルではなかったが、多くの国民にとっては効果的な言葉なのだ。神々が見ているとか、聖人が見ているとかいうのは。
轡も、手綱も鞍も大丈夫なようだ。ナディア号は、ちょっと気位の高い馬。
まだ私を待たせるつもり? さっきびっくりしちゃったわよ! という風情で、足踏みしている。
「それとも、あなたが、グスタフさん。女性二人と馬車と馬をを置いてこの方に同乗する?
あなたが、そうできないのをわかっていて、私、提案をしているのよ」
「……わかりました。お嬢様のおっしゃることが最善です。わたくしはここにいて、お家の財産と侍女殿をお守りしております」
「ここはどこ……? 環状三号と四号の間?」
王宮を丸く取り囲む、お堀沿いの大通りが環状一号。
そこから同心円状に同規模の道幅の大通りが二号、三号と続く。フィオーラ大通りは環状線と交わる一番広い中心放射路。
ガルクの街は王宮を中心に環状線と放射状線が走って中心部を形成している。
主だった大通りや小路にはそれぞれ名称がつけられ、例えば場所や位置を示すためにこんな風に呼ばれる。
「フィオーラの、モドリアンとディジョンの間です」
「わかったわ。モドリアンとディジョンの間、ね」
セシルは強く繰り返して、グスタフさんの白手袋の手を初めて両手で包んだ。
「私の心配はしないで、とお願いをするのは、あなたには無理な話よね。でも、きっと大丈夫よ。安心はして。あと、夫人の愚痴に付き合ってあげてくれる? 私が勝手をしたとわかればしばらくお怒りは納まらないから」
グスタフさんは泣き笑いのように、セシルを見た。
ジル・トラヴィスは、そのやり取りをじっと見ていた。振り返ってセシルが見上げたのは、彼の目。腹の中にある、二心が透けて見えそうだった。
彼が何を考えていたかはわからない。
ただ、目が語っていたのだ。セシルには知り得ない何かを。
彼は多分、馬を借りたいと訴えた以上の何かを、心の中に抱えている。
それは明日の予定への不安とか、セシルという厄介ごとに関わってしまったことへの後悔かも知れなかった。
「待っていて。必ず人を集めてくるから、私に任せて」
「僕が。必ずお送りします。あなたの大切なお嬢様のこと。ね、馭者殿」
青年は力強く請け合った。
「はい……はい、お願いいたします……」
ジル・トラヴィスとグスタフさんは右手で握手を交わした。
セシルからナディアに乗った。鐙から靴を外し、できる限り前に寄る。バッスルの小さなドレスでよかったと思った。
そして青年も、拍車の軍靴を鐙にかけて騎士らしく騎乗する。
「ジル・トラヴィス様、ナディアに拍車は」
「ええ、解ってます、お嬢さん。……それから、どうか、ただの『ジル』と」
男性を?
とセシルは思ったが。
「わかったわ。ただの『ジル』」
踏襲すれば、ただのジルは口元にふっと笑みを浮かべて手綱を一振るいした。
「手でしっかり鞍を」
掴んでという意味だ。
セシルは大きく頷いて、彼の両腕の間でできる限り小さくなる。
もっと言えば、彼の胸の下でだ。男性と、こんな至近で、とわずかにセシルは恐れた。
でも。それは些末なことだ。
問題の解決が急務なのであり、その他のことはほんの些細なこと。
体が震えそうになるけど、我慢できないわけがない。きっとやり遂げられる。
「ご自宅は?」
「……オーレン街よ」
「……お屋敷町ですね。やっぱり名家のお嬢様でしたか」
「そうでもないわ。こんな無茶を自分から買ってしまえるくらいには、粗忽に育ったの」
馬を走らせながら耳にはジルの声と風の音が通り過ぎる。
ナディアは、その身に二人の人間を乗せてなお元気よく走る。
「あっ……」
セシルはその感覚に思わず声を上げた。
「どうしました?」
「ジル、お靴が片方落ちたわ、あ、もう片方もっ……」
「ひょっとして、裸足に? 戻って探しましょうか?」
「……いいえ。もうずいぶん履きこんで少し小さくなっているものなの。諦めます。どうか先へ」
フィオーラ通りから環状二号を左手に進んだ先がオーレン街だ。
馬は進む。環状三号から二号の間をあっという間。
「あっ……!」
またもセシルは声を上げた。リボンでハーフアップにしただけの髪が風にあおられる。
猛スピードのまま、ナディアは環状二号を左に折れた。
「お帽子も飛んだわ……!」
「……戻ります?」
これには、一瞬迷った。なにしろ職人の手作りで、このドレスによく似合っていた。
「いいえ。人や馬には代えられないもの……」
「僕は運がいいと思ってしまいました。ごめんなさい」
「どうして、ジル、あなたが謝るのですか」
「だって、帽子がなければ貴女のお顔があとでよくわかるじゃありませんか。僕には喜ばしいことです」
なんですって⁉
セシルは困り果てた。
こんなときなんと応酬すればいいか、セシルはまだ杜で習っていない。