八百七十五:泰子さんの話(772) ★A君の定年退職(4)
八百七十五:泰子さんの話(772) ★A君の定年退職(4)
地方の営業所から相談が来れば、彼は頼まれもしないのに出掛けて行く。技術のことも営業のことも、長年の経験があるから、生き字引のような存在だ。もちろん、出掛けて行っても会社が命じた訳ではないから、そんな余計な仕事に特別手当が出る訳でもなく、一種のボランテイアだ。だから当然の事に、地方の社員達からも何かと慕われる。
社内規則だけを見れば、A君は勝手な行動と言われても仕方がない。けれども会社というのは、規則だけで動いているわけではない。人と人との信頼で動いている部分の方が、案外大きい。
私一人で会社を見れば、どうしても数字で人を評価してしまう。売上はいくらか、利益はいくらか。経営者として、これは避けられない。
けれども数字だけで会社を動かそうとすると、組織は次第に乾いてくる。皆が成果という数字だけを見て、お互いを競争相手としか見なくなる。そうは言っても、ある意味で能率が良いから、会社はこれを重宝している処がある。実は、基本的に私もそう考えて数字管理をしている。
そこへA君がいる。彼が一人いるだけで、社内の空気が柔らかくなっている。
若い社員は相談しやすくなり、地方の営業マンも孤立しない。会社は利益だけでは測れない価値を、知らぬ間に受け取っているのである。A君を見ていると、会社運営の為には、先の数字による私流儀の合理的な管理とA君流儀の運営との両輪が必要なのだと、私は次第に理解するようになった。実を言えば、理解したからこそ私はA君を放任している。
つづく




