第一章・第四話 リスクードの湖畔13.5
朝と同じく、ウィラも同席しての夕餉の後。白く華奢な彼女の手を取って、私たちは庭を訪れた。
陽光を反射する湖の光を浴びて輝く昼間の雰囲気とは一変、夜はまた違った味わいを見せる。とくに今宵は月も明るく、淡い光の下、花々もゆったりと静かな夜のひと時を安らいでいる。
「わぁ…、とても綺麗。素敵ですね」
「昨日の、満月の夜はもっと幻想的だったのだけれどね。しかし、お気に召していただけたようで光栄の至りです」
「ふふっ」
冗談めかして胸に手を当て一礼すると、可笑しそうに笑って、彼女は視線を私に移す。
闇夜に溶ける美しい黒曜石の瞳。じっと見つめていると、そのまま吸い込まれそうな錯覚に陥る。
「………」
「? どうかされましたか?」
「ああ、いや。美しい色だと思ってね。其方の髪も瞳も、月夜にとても映える」
じっと見つめていたせいか、怪訝な顔をされてしまった。不思議そうに首を傾げた拍子に、瞳と同色の髪がはらりと流れた。
月下に照らされ、艶やかな光を放つ少し短めの黒髪。彼女が極めて童顔というわけでもないのに、幼く映るのは、もしかしたらこの髪の長さゆえなのかもしれない。あとは身長も、と言えなくもないな。だがこの長さは、女性としては少しばかり目立つ。
これは後から彼女が話していたことだが、髪が長く女性一人だと分かると、旅先でいろいろと面倒なのだという。ふむ。確かに、遠目ならば少年に見えなくもない。
「ありがとうございます。フィスフリークさんは反対に、朝焼けの光が良く似合いそうですね。あと、青天の青空も」
「暁の時を生とし、万民を支える導なり」
「?」
「ルティハルトの王族は、とくに王となる者は朝に生まれる者が多くてね。いつしかそのような伝承が語られるようになったと言われている」
「へぇ、そうなんですか。でも少し分かる気がします。確かにフィスフリークさんは暁の申し子と呼ばれても不思議じゃない容姿をしてますから」
何やら納得している様子に、苦笑を浮かべる。
「少々大袈裟な呼ばれ方だと思うけれどね。私よりむしろ、初代国王陛下の方がその呼び名がしっくりくるお方だっただろう。そもそも、この伝承が語られるようになったのは、初代国王の御名が古語で暁を示しているからだと言われているらしい。強大な巫の力を有していた英雄王が、暦道のイブリースと永世のイブリース、生死を司る時の精霊王と誓約を交わし、自身の末裔…つまりルティハルトの王となる者を朝に生を受けさせるよう誓約を結んだのではないか、とね。
真偽のほどはどうか分からないが、歴代の王族を遡ってみても朝以外に生を受けた者はほんの一握りしかいないと文献にも残っているし、少なくとも眉つばなものではないことは確かだろう」
「………」
「? ユーナ?」
ぼんやりと急に表情が乏しくなったことを訝しむと、はっとして即座に私を見る。恐らく慌てているはずなのだが、極力表に見せないように努めている所は見習うべきかもしれないな。
「あ、すみません。えと、立派な方だったんですね、ルティハルトを建国した方は」
「とても偉大な王だったと、そう伝えられているよ。王族はもちろん、民も、このルティハルトを導き建国した偉大なる王だと心から敬愛している」
我々の誇りだ。と付け加える。
「あ…の、その、ポーリアの花はあちらの方でしたよね」
「ん? あ、ああ。そうだが…」
急に話題を変えたことといい、何やら落ち着かない様子。それほど心を揺らすようなことがあるのだろうか。
私は彼女をじっと見つめ、しかしすぐ諦めてポーリアの咲く区域へといざなう。
恐らく今、私が直接問いかけたところで、彼女は何も答えはしないだろう。むしろ、さらりとかわしてしまうに違いない。
表面上は丁寧で穏やかなれど、うっすらと、しかし確かな拒絶を感じる当たり障りのない対応。彼女は一国の領主ほどと張る外交能力を持っていそうだ。そんな彼女から全てを聞きだすのは並や大抵じゃないだろう。
だから、問いたださない代わりに気になっていた別の疑問をぶつけてみる。
「そういえば、其方はあの時、ウィラに治癒を施していたように見て取れたのだけど、私の見間違いだったかな?」
「っ、ゴホッ!」
あ。噎せた。
ちょっと予想外の過剰反応だが、なかなかに興味深い。
「ぅ…。え、っと、そ、それは…その……」
先ほど以上にしどろもどろな、答えにくそうにする反応に、ついつい悪戯心に火がつく。
本当はあまり困らすつもりはなかったのに、ここまでひきつった顔をされると意地でも答えさせたくなる。いや。これは答えさせるべき。
「うん。それは?」
めいいっぱい無邪気に見えるよう満面の微笑みを浮かべたら、さらに顔が引きつったのが分かった。ほぼ答えはもらったようなものだが、直接彼女から決定打を貰いたいと思うのは少し意地悪かな。
ああ、相当困った顔をしているな、というのを分かりはしても、どうも私は相手をからかって楽しむのを止められない性質らしく、ウィラやエフィナ達からは性質が悪いとか、底意地の悪い性格をしていると言われている。一応、私自身も自覚はある。
しかし、こればかりは止められない。
一度ハマるとなかなかに癖になる上、気に入った者相手には手加減も出来なくなるようで。
「…………」
「…………」
期待を込めた瞳でじっと見つめながら漆黒の返答を待つ。彼女にとっては恐らく居心地の悪いであろう沈黙も、今の私には心地よい静寂に感じる。ふっ、こんなことを言ったら、またエフィナ達に悪趣味だと文句を言われかねないだろうがね。
と、そんなことを思っていたら、ふう、とため息が一つ漏れ、ヒクついていた彼女の笑みが呆れを含んだものに変化した。
コツコツとこめかみを押さえつつ、やや下向きでも分かる端正な面差しに不釣り合いな眉間のしわを伸ばしながら、もう一つ長めの息を吐いた。
「たとえ、私が時の巫師だとしても、あなたに…、ルティハルトに利となるような協力が出来るとは思えませんが」
すっと射抜くような、冷え冷えとした目で見つめられる。
彼女は一切笑いを含んでいない。むっとした顔で、表に現れる怒気を辛うじて残る理性で抑え込んでいるように見えた。
そう、これは怒りだ。彼女はまっすぐに私を睨めつけている。静かな漆黒の瞳に、氷の炎が沸々と滾っているのが見える。
へぇ。こんな表情をこの子もするのだね。ますます興味深い。
それにしても、これはなかなか様になって。いや。むしろ、この威圧感が常のような慣れを感じる。夜の闇が見せる陰影も一役買っているのやもしれないが、普通の女性にはあまり見られない凄みようだ。
「――…ふっ、くくっ」
この凄み、そして彼女の読みの深さに、どうしても笑いがこらえきれなかった。いや。己の考えの至らなさに、かな。
まさかこの私が、彼女に指摘されるまでそれに気がつかないとはね。個人よりも国益を考えてきたはずの私が、本当に考え付かないなんてことが、まさか。
こんな馬鹿げた話はないだろうね。愚の骨頂。愚鈍もいい所だ。
「あ、の…?」
しゃがみ込んで肩を震わせていた私の奇行をさすがに怪しく思ったらしく、硬く怪訝な声音が落とされた。
「あ、ああ。すまない、ね。ちょっと、可笑しくて」
「…可笑しい?」
笑い止まない私が、何とか絞り出した言葉が癪に障ったようだ。よりむっとした声が返される。
「まさかそう切り返されるとは思っていなかった私自身が、あまりにも考えが至らなくてね。ははは…、まったく、王族としてはこれ以上に無い失態だろうね。
ふふ。しかし、良い読みをしているね、其方は」
まして私の立場から言えば、あり得ないものなのだがね。と、彼女には伝えることなく心内でとどめる。
「…そうですか」
普段のようにはぐらかさず、正直に心中を打ち明けたことが功をそうしたようで、ユーナの声音は思いのほか柔らかいものだった。ほっとした、といった風にも見えなくもない。
その横顔が一瞬、誤解を解いた後のエフィナのそれにも重なった。
確かに彼女らは口調や雰囲気も似ているから、不思議とそう感じるのも無理はないことかもしれない。職業柄というよりは、性格が類似している気がする。
いや、巫師というだけでエフィナのような存在が横行したら、それこそ堪ったものではない。私の護衛の全員が全員エフィナだったらと思うと、ぞっとしない。やかましく小言を挟むのは、エフィナとセテで十分足りている。
「ああ。でも、一応答えておこうかな。
我が国には時の巫師のみに限らず、それなりに優秀な人材がそろっている。確かに国力増加のために勧誘するのも一つの手だが、明らかに嫌がっている者を無理やり従わせるような非道を働くことはないよ。それに、もしユーナを勧誘するのなら、ギガルデンと知り合いだと言っていた時点ですでにしているだろうね。銀の殺戮竜と呼ばれて恐れられている竜を諌められる逸材は、治癒術を扱える時の巫師以上に貴重だからね」
「う……」
改めて気づかされた、と言葉を詰まらせる様子をくすりと笑いながら続ける。まあ実際、私も考え付かなかったが。
「確かに、我が国にはいないすばらしい逸材であることは紛れもない事実だ。でも不思議と、其方を国利に利用するという考えは、私の中にはないよ。ユーナに指摘されるまで思いつきもしなかったことが何よりの証明になると思うが。
それに、其方の事情も考えずこの国に留まることを強制するつもりはない。女性が一人で旅をするなど、それなりの理由があってのことなのだろうからね。だから、そこまで警戒されるのは、少々悲しいことではあるかな」
「………」
少々バツが悪そうな渋顔の彼女に見えないように笑う。むっとした表情もいいけれど、あまり怒らせては話も進まない。
ただ、一つ、私の中で決まったことがある。
この子は連れて行く。何が何でも、絶対に、ね。
むろん、国のために利用するつもりは今のところない。竜騒動が収まった頃からうっすらと心に浮かんだもので、もしかしたら、彼女に出会ったその時すでに私の中に考えがあったのかもしれない。
「ユーナ」
「…はい」
びくびくと怯えているのかと思いきや、意外と冷静で静かな声が通る。見上げた表情に先ほどの面影は一切なく、ただ穏やかだった。
星を抱く彼の時のイブリースの化身のごとく、独特の存在感をもち、冷静かつ的確な判断力、周囲を有無を言わさず従わせる力量。そんな彼女を捨て置けるわけがないと今さらながら再認識しつつ、でも今は告げるのをためらう。
彼女を王都に誘うのは、少し様子を見てからの方が確実だ。告げるにしても、油断を誘わねば彼女の承諾は得られまい。
それに今は、もうしばし彼女をつついて楽しんでいたい気持ちが上回っている。ん、ああ、かなり人が悪いかもしれないな。
でも。
「其方が語った昔話で、ギガルデンの負傷した傷を癒した巫師とは、其方のことかな?」
「――…っ、」
やはり、か。
あまり大きな反応ではなかったが、ピクリと跳ねあがった眉根を確認する。些細な反応も見逃さずに凝視していなければ、たぶん捉えられなかっただろう。
ああ、そうか。だからあの竜は彼女に気を許しているのか。
いくら恩義のある一族の者だとは言え、気性の荒い竜族が人間の指図を簡単に受け入れるとは俄かには信じられない。特に、相手はあの銀の殺戮竜だ。そう簡単にいく筈がない。しかし、直に命を救った恩人ともなれば従うのも当然の道理。ああ見えて竜族は義理難いところがあるらしいし、恩人が時の巫師とくれば尚のことかもしれない。
確か、古い文献で呼んだことがあった。
銀の殺戮竜と呼ばれて久しい彼の竜、銀の神竜は、暦道のイブリースの眷属に下った竜族だった、と。
読んだ資料があまりに古く、いくつか不確かな情報も含まれていたからさして信じてはいなかったけれど、これは一概に偽りだと判断してしまうには早合点だったらしい。
「さて。そろそろ本命の場所へ行こうか。あまり長く話していては夜に来た意味が無くなってしまうからね」
「ええ。そう、ですね」
硬く、極力感情を表に出すまいとした顔。あまり弄っても可哀想だし、これ以上は止しておく。
ひとまず、今はこれくらいにして、彼女を王都へと誘うべく考えを巡らせる。しかし、これはなかなかに骨が折れそうな問題だな。
あまり不自然にならないように、彼女に警戒心を抱かせないような誘い方を。先ほどの彼女の言葉もあるし、あまり遠まわしではなく、飾った言葉でもなく。ここは直球に投げるべき、かな。彼女は裏表のない素直な笑みに弱いようだし、笑顔で押し通せるだろう。
「?」
私に手を引かれながら周囲の景色を楽しんでいた彼女が、不意に視線を私に戻す。なかなかに感の鋭い少女だ。その表情はもしや、悪寒でも感じたのかな。
向けられた視線に応えるように、聡い彼女に微笑みかける。とりあえず、一線引かせてしまった強固な警戒を解かなければ始まらない。
そして、早急に考えを巡らせねばね。
彼女を、底知れぬ宿命を感じさせるこの少女を、我が国に留める策を考えるために。