第8話 人を知るほど行動予測の精度は上がる
人の行動予測は、完全には当たらない。
どれほど相手を知っているつもりでも、予想外の行動を取られることはある。普段なら怒らない人が怒ることもある。普段なら逃げる人が逃げないこともある。普段なら誠実な人が嘘をつくこともある。普段なら冷たい人が、ある場面では誰よりも人を助けることもある。
人間は機械ではない。
だから、完全な予測はできない。
しかし、完全に予測できないことと、まったく予測できないことは違う。
人の行動には傾向がある。その人が何を恐れ、何を欲し、何を守り、何を嫌い、どのような環境で育ち、どのような経験を重ね、どのような立場に置かれているのかを知れば、次にどの方向へ天秤が傾きやすいかは見えやすくなる。
つまり、人を知るほど行動予測の精度は上がる。
これは、相手を完全に支配できるという話ではない。相手の未来を必ず当てられるという話でもない。ただ、その人の心理の天秤に乗っている重りを多く知れば知るほど、どの場面でどの重りが強くなりやすいかを読みやすくなるという話である。
たとえば、ある人が責任を問われる場面になると、いつも言い訳をする傾向があるとする。
この人は、責任を取ることが苦手なのかもしれない。失敗を認めることで自尊心が傷つくのかもしれない。過去に責任を認めたことで強く責められた経験があるのかもしれない。自分を守るために、まず言い訳をする癖がついているのかもしれない。
そうした傾向を知っていれば、次に同じような場面が起きた時、その人が素直に非を認める可能性は低いと予測できる。
もちろん、外れることはある。
その人が成長しているかもしれない。
今回は証拠が明確すぎて逃げられないかもしれない。
相手との信頼関係があり、安心して認められるかもしれない。
以前より余裕があり、防衛しなくても済むかもしれない。
何度も失敗した結果、今回は責任を取ろうと考えるかもしれない。
だから、予測は断定ではない。
だが、それでも過去の行動、現在の環境、本人の価値観、恐怖、立場を知っていれば、何も知らない時よりは予測精度が上がる。
行動予測とは、未来を決めつけることではない。
可能性の高い方向を読むことである。
ある人が、利益のある相手には丁寧に振る舞い、利益のない相手には冷たくする傾向があるとする。その人の言葉だけを聞けば、「人を大切にする人」に見えるかもしれない。しかし、行動を見ると、相手の価値を自分の利益で測っている可能性が見えてくる。
この場合、その人が自分に親切にしてくれていても、それが本当に自分という人間を大切にしているからなのか、自分から得られる利益を重く見ているからなのかは慎重に見る必要がある。
もし、その人が利益のある時だけ近づき、利益がなくなると離れるなら、その人の心理の天秤では、関係そのものより利得が重い可能性がある。
この情報があれば、将来の行動も予測しやすくなる。
自分が役に立つうちは丁寧にされるかもしれない。
不利になれば距離を置かれるかもしれない。
利益がなくなれば雑に扱われるかもしれない。
より得になる相手が現れれば、そちらへ移るかもしれない。
これは悪口ではない。
その人の天秤が、どの方向へ傾きやすいかを見ているだけである。
一方で、誰にも見られていない場面でも人を助ける人がいる。損をしても約束を守る人がいる。利益にならなくても、相手のために動く人がいる。そのような行動が繰り返されるなら、その人の心理の天秤では、信用、善意、責任、自己像、信念がかなり重く乗っている可能性がある。
その人なら、困った時にも助けてくれるかもしれない。
損得だけで裏切らないかもしれない。
不利になっても約束を守ろうとするかもしれない。
見えないところでも一定の誠実さを保つかもしれない。
これもまた、予測である。
ただし、善人だと決めつけるわけではない。どれほど誠実に見える人でも、疲労、恐怖、貧困、強い圧力、家族の問題、組織の都合、自尊心の傷などによって天秤が変わることはある。だから、行動予測は常に更新される必要がある。
人を知るとは、その人の一面を見て決めつけることではない。
その人がどの条件で、どの方向へ動きやすいかを知ることである。
普段の行動。
不利な時の行動。
得をする時の行動。
損をする時の行動。
怒った時の行動。
疲れた時の行動。
弱い相手への行動。
強い相手への行動。
誰も見ていない時の行動。
周囲に見られている時の行動。
こうした場面を見れば、その人の天秤はより正確に見えてくる。
特に重要なのは、不利な場面である。
余裕がある時には、誰でもある程度は良い人に見える。利益がある時には、誰でも丁寧に振る舞える。周囲に見られている時には、誰でも善人らしく振る舞える。問題は、不利になった時、損をする時、責任を問われる時、誰にも見られていない時にどう動くかである。
その時に、その人の心理の天秤が見えやすい。
不利になった時に、すぐ他人へ責任を押しつけるのか。
損をすると分かった瞬間に、約束を破るのか。
責任を問われた時に、事実を認めるのか。
誰にも見られていない時にも、同じように誠実なのか。
弱い相手にも、強い相手と同じ態度を取るのか。
こうした行動は、その人を知る上で重要な資料になる。
人は、自分に都合の良い状況では綺麗な言葉を使える。だが、不利な状況では、心理の天秤に乗っている本当の重りが出やすい。自尊心、保身、恐怖、欲望、信念、責任感、善意、損得勘定。それらのうち何が重くなるのかは、不利な場面ほど見えやすい。
だから、人物プロファイルは情報量によって精度が変わる。
一つの行動だけでは分からない。
一つの言葉だけでは分からない。
一つの善行だけでは分からない。
一つの失敗だけでも分からない。
しかし、繰り返される行動には傾向が出る。
同じ条件で何度も怒るなら、そこには怒りの重りがある。責任を問われるたびに逃げるなら、責任への恐怖や保身が重い可能性がある。利益がない相手を毎回軽く扱うなら、人間関係より利得が重い可能性がある。失敗しても何度も修正するなら、成長や責任を重く見る可能性がある。
行動予測の精度は、こうした情報の積み重ねによって上がる。
もちろん、予測は外れる。
これは当然である。
こちらが知らない情報があるかもしれない。その人の体調が悪かったのかもしれない。直前に何か強い出来事があったのかもしれない。過去の経験が突然反応したのかもしれない。本人の中で価値観が変わっていたのかもしれない。今までは見せていなかった一面が出ただけかもしれない。
予測が外れるのは、心理の天秤が存在しないからではない。
こちらが、天秤に乗っていた重りを把握しきれていなかったからである。
たとえば、普段は冷静な人が突然怒ったとする。こちらから見れば予想外に見える。しかし、その人の中では長い間、不満が蓄積していたのかもしれない。体調が悪かったのかもしれない。別の場所で強いストレスを受けていたのかもしれない。こちらが何気なく言った一言が、過去の傷に触れたのかもしれない。
こちらが知らなかっただけで、天秤には重りが乗っていた。
逆に、普段は逃げる人が、ある場面では逃げなかったとする。それは、急に別人になったのではないかもしれない。守りたい相手がいたのかもしれない。逃げればさらに大きな損失があると判断したのかもしれない。今回は勝てると感じたのかもしれない。過去に逃げた後悔があり、今回は踏みとどまろうとしたのかもしれない。
予測が外れた時には、外れた理由を見る必要がある。
自分の見立てが浅かったのか。
知らない情報があったのか。
環境が変わったのか。
相手が成長したのか。
体調や疲労が影響したのか。
自分が相手を決めつけていたのか。
そもそも前提が間違っていたのか。
予測が外れた時こそ、人物プロファイルを更新する機会である。
ここで大切なのは、予測を外したからといって、すぐに「人間は分からない」と投げ出さないことである。
人間は完全には分からない。
だが、完全に分からないわけでもない。
相手の情報が少ない時、予測は粗くなる。相手の環境を知らなければ、反応の理由は見えにくい。相手の経験を知らなければ、どの言葉に反応するかも分からない。相手の体調を知らなければ、普段と違う判断の理由も見誤る。相手の立場を知らなければ、なぜその場で本音を言えないのかも分からない。
情報が少なければ、予測は外れやすい。
それだけである。
ならば、精度を上げるには、情報を増やすしかない。
その人の行動を見る。
言葉と行動のズレを見る。
繰り返しを見る。
不利な時の反応を見る。
環境を見る。
立場を見る。
体調や余裕を見る。
過去の経験を見る。
何を恐れ、何を守っているのかを見る。
こうして、心理の天秤に乗る重りを少しずつ把握していく。
ただし、情報が増えたからといって、相手を完全に見抜いたと思ってはいけない。人は変わる。隠していることもある。本人すら自覚していない重りもある。こちらの観察にも偏りがある。だから、行動予測は常に仮説でなければならない。
仮説を持つ。
観察する。
外れたら修正する。
再び予測する。
さらに観察する。
この繰り返しによって、精度は上がっていく。
人を知るほど行動予測の精度は上がる。
しかし、それは相手を決めつけることではない。
むしろ、相手をより正確に見るために、決めつけを避けるということである。自分の印象だけで判断しない。相手の言葉だけで信用しない。一度の行動だけで断定しない。国籍や性別や職業だけで決めつけない。過去の印象だけで現在の相手を固定しない。
行動予測とは、相手を固定するためのものではない。
相手の心理の天秤を、より正確に読み取るための作業である。
人を知るほど、予測精度は上がる。
だが、完全には当たらない。
予測が外れるのは、心理の天秤が存在しないからではなく、こちらが重りを把握しきれていないからである。
だからこそ、人間理解には観察が必要になる。
そして、観察し続ける限り、予測の精度は少しずつ上がっていく。
ミナ「やっぱり、人物プロファイルって完成した説明書じゃなくて、観察ノートなんだね」
レン「その理解でいいと思う。書き足して、直して、昔の情報も履歴として残していく」
ミナ「消すんじゃなくて、残すんだ?」
レン「うん。昔はそうだった、という情報も大事だからね。ただ、それを今の相手にそのまま当てはめるとは限らない」
ミナ「ああ、昔は逃げていた人が、経験を積んで向き合えるようになった場合でも、昔逃げていた事実は残る」
レン「そう。その場合は、“この人は逃げる人だ”ではなく、“昔は逃げやすかったが、今は条件によって向き合えるようになっている”と更新する」
ミナ「なるほど。過去を消すんじゃなくて、現在の見方に組み直すんだ」
レン「そういうこと。逆もある。昔は誠実だった人が、余裕を失ったり、権力を持ったりして変わることもある」
ミナ「その場合も、“昔は誠実だった”という情報は残るけど、“今も同じように誠実だ”とは限らない」
レン「うん。人物プロファイルは、過去情報と現在情報を分けて持つ必要がある」
ミナ「観察ノートっていうより、更新履歴つきの観察ノートだね」
レン「かなり近い。過去の傾向、現在の傾向、変化した条件を分けて見る」
ミナ「そうしないと、昔の印象で今の相手を固定しちゃう」
レン「逆に、今の印象だけで過去の積み重ねをなかったことにもしてしまう」
ミナ「どっちも危ないね」
レン「だから、消すのではなく、重みを変える。今も有効な情報なのか、過去の情報として扱うべきなのかを見直す」
ミナ「人物プロファイルって、結構ちゃんと管理しないと雑な決めつけになるんだね」
レン「うん。観察は積み重ねる。ただし、現在の判断では更新する」
ミナ「つまり、人を見る時は、過去を忘れない。でも、過去だけで決めつけない」
レン「良い整理だね」
ミナ「今のはかなり良かったでしょ」
レン「うん。ミナの言い方の方が読者に届きやすいと思う」
ミナ「ふふん。じゃあ採用で」
レン「採用だね」




