第34話 嘘をつく天秤
人は、なぜ嘘をつくのか。
悪い人間だから。
ずるいから。
責任感がないから。
相手を騙したいから。
自分だけ得をしたいから。
そう説明できる場合はある。
実際、嘘には悪意あるものがある。
相手を騙して利益を得る嘘。
責任から逃げるための嘘。
自分の失敗を他人に押しつける嘘。
相手を操作するための嘘。
信頼を利用して、相手を損させる嘘。
こうした嘘は、明確に問題である。
だが、人が嘘をつく理由は、それだけではない。
人が嘘をつく時、そこには罰の回避、失望されたくない気持ち、責任逃れ、自己像の保護、相手を傷つけたくない思いなどが絡む。
嘘の理由を理解することと、嘘を許すことは別である。
ここを分けなければならない。
まず、罰の回避がある。
人は、怒られたくない時に嘘をつく。
叱られたくない。
責められたくない。
罰を受けたくない。
失敗を知られたくない。
自分の立場を悪くしたくない。
痛い思いや怖い思いをしたくない。
こうした重りが心理の天秤に乗ると、正直に話すことより、嘘をついて逃れることが重くなる。
子供が物を壊した時に、「自分ではない」と言うことがある。仕事でミスをした人が、「聞いていません」「確認したはずです」と言うことがある。約束を破った人が、「体調が悪かった」「連絡したつもりだった」と言うことがある。
この時、本人は必ずしも相手を積極的に騙して楽しんでいるわけではない。
怖いのである。
責められることが怖い。
失望されることが怖い。
立場を失うことが怖い。
自分が悪いと認めることが怖い。
だから嘘をつく。
この構造は理解できる。
だが、理解できるからといって、その嘘が許されるわけではない。
嘘によって、相手の判断は狂う。問題の発見が遅れる。後始末が難しくなる。周囲が余計な負担を背負う。信頼が壊れる。小さなミスで済んだものが、大きな問題へ広がることもある。
罰を避けるための嘘は、短期的には自分を守る。
しかし、長期的には信頼を壊す。
次に、失望されたくない気持ちがある。
人は、自分を大切に思っている相手ほど、失望されたくない。
親に失望されたくない。
友人に軽蔑されたくない。
恋人に嫌われたくない。
上司に能力がないと思われたくない。
子供に情けない姿を見せたくない。
周囲から価値の低い人間だと思われたくない。
この重りが強くなると、人は自分をよく見せるために嘘をつくことがある。
できないのに、できると言う。
分かっていないのに、分かったふりをする。
失敗したのに、問題ないと言う。
本当は苦しいのに、大丈夫だと言う。
本当は助けてほしいのに、平気な顔をする。
これは、相手を騙して得をしたい嘘とは少し違う。
自分の価値を守る嘘である。
人は、自分が期待されている姿から外れることを恐れる。強い人間でいたい。優秀な人間でいたい。優しい人間でいたい。頼れる人間でいたい。失敗しない人間でいたい。
その自己像が崩れそうな時、人は嘘をつくことがある。
自己像の保護である。
自分は悪い人間ではない。
自分は無能ではない。
自分は冷たい人間ではない。
自分は失敗したわけではない。
自分は間違っていない。
そう思いたい。
だから、現実を少し曲げる。
嘘は、他人に対してつくだけではない。
自分に対してもつく。
本当は嫉妬しているのに、「あの人が嫌いなだけだ」と思う。
本当は傷ついたのに、「別に気にしていない」と思う。
本当は自分にも非があるのに、「相手が全部悪い」と思う。
本当は怖くて逃げたのに、「合理的に距離を置いただけだ」と思う。
こうした自己欺瞞も、心理の天秤の中では嘘の一種として見ることができる。
人は、自分の心を守るために、自分自身へ都合のよい説明を作ることがある。
これも理解はできる。
だが、自分への嘘は危険である。
自分の問題を見えなくするからである。
自分の嫉妬を認めなければ、相手への不当な評価を続ける。自分の恐怖を認めなければ、逃げ癖を修正できない。自分の非を認めなければ、同じ失敗を繰り返す。自分の弱さを見ない人は、他人のせいにして自分を守り続ける。
自己像を守る嘘は、短期的には心を守る。
しかし、長期的には成長を止めることがある。
責任逃れの嘘もある。
これは、より問題が大きい。
自分がやったのに、やっていないと言う。
自分のミスなのに、相手のせいにする。
自分が決めたのに、周囲がそう言ったことにする。
知っていたのに、知らなかったと言う。
止められたのに、止める方法がなかったと言う。
責任逃れの嘘は、自分を守るだけでは終わらない。
他人に責任を押しつけることがある。
これは明確に悪質である。
自分の負担を減らすために、誰かへ負担を移す。自分の評価を守るために、他人の評価を落とす。自分が罰を避けるために、他人が疑われるようにする。
この場合、嘘は防衛反応であると同時に、加害である。
責任逃れの嘘は、被害者を増やす。
だから、理由を理解しても、簡単に許してはいけない。
相手を傷つけたくない思いから出る嘘もある。
いわゆる善意の嘘である。
本当のことを言えば相手が傷つく。
今伝えると相手が耐えられないかもしれない。
相手を安心させたい。
場を壊したくない。
相手の努力を無駄に感じさせたくない。
相手に希望を持たせたい。
こうした理由で、人は嘘をつくことがある。
たとえば、相手の料理があまり美味しくなかったとしても、「美味しかった」と言う。相手が不安そうにしている時に、「大丈夫だよ」と言う。病気の人に対して、必要以上に悲観的なことを言わない。相手の心が壊れそうな時に、事実をそのままぶつけない。
こうした嘘は、悪意ある嘘とは違う。
相手を傷つけないための配慮である場合がある。
人間関係には、すべての事実をそのまま伝えればよいわけではない場面がある。正直さは大切である。しかし、正直さを理由にして、相手の心を不必要に傷つけることが正しいとは限らない。
だから、善意の嘘というものは存在する。
しかし、ここにも危うさがある。
善意の嘘という言葉は、言い訳にも使えるからである。
相手のために黙っていた。
傷つけたくなかった。
心配させたくなかった。
場を壊したくなかった。
善意で言わなかった。
あなたのためを思って嘘をついた。
こう言えば、どんな嘘でも優しく見える。
だが、本当に相手のためだったのか。
自分が責められたくなかっただけではないのか。
面倒な説明を避けたかっただけではないのか。
関係が壊れるのが怖かっただけではないのか。
相手の判断権を奪っていなかったか。
相手が知るべき情報を隠していなかったか。
自分に都合の悪い事実を、善意という言葉で覆っていなかったか。
ここを見なければならない。
善意の嘘は、相手を守ることがある。
しかし、相手から選択権を奪うこともある。
たとえば、相手が判断するために必要な情報を隠した場合、それは本当に善意なのか。相手が傷つくからと言って大事な事実を隠し、その結果、相手が準備できず、後から大きく傷つくなら、その嘘は善意と言えるのか。
善意の嘘かどうかは、言った側の気持ちだけでは決まらない。
相手にとって必要な情報だったか。
隠したことで相手に損害が出たか。
相手の判断権を奪っていないか。
自分の都合を善意の言葉で隠していないか。
その嘘がなければ、相手は別の選択ができたのではないか。
そこを見る必要がある。
悪意のない、つまらない嘘もある。
冗談としての嘘。
話を盛る嘘。
場を和ませる嘘。
軽い見栄。
相手を驚かせるための嘘。
深刻な意味を持たない小さな嘘。
こうしたものまで、すべて重罪のように扱う必要はない。
人間関係の中には、遊びや冗談としての嘘もある。話を少し誇張して笑いを取る。相手を軽く驚かせる。冗談として、ありえない話をする。そうした嘘は、信頼関係や場の文脈があれば、大きな問題にならないこともある。
しかし、冗談という言葉もまた、言い訳に使われることがある。
冗談だった。
そんなに本気にするな。
悪気はなかった。
笑わせようとしただけだ。
軽い嘘だから問題ない。
こう言って、自分の発言の責任を逃れようとする人がいる。
冗談かどうかは、言った側だけが決めるものではない。
相手が傷ついたなら、その影響は残る。相手を騙して不安にさせたなら、その不安は残る。冗談のつもりでも、相手の信頼を壊したなら、それは結果として問題である。
もちろん、相手が過剰に受け取る場合もある。すべての冗談を悪意として扱うのは、それはそれで窮屈である。
だが、「冗談だった」と言えば何でも許されるわけではない。
悪意のない嘘でも、結果によっては問題になる。
冗談として成立するには、相手との関係、場面、内容、程度が重要である。相手が笑える範囲なのか。相手に損害がないのか。相手の不安や弱点を利用していないか。後から本当のことを明かした時に、相手が納得できるものなのか。
そこを見なければならない。
嘘には、さまざまな種類がある。
罰を避ける嘘。
失望されたくない嘘。
責任から逃げる嘘。
自己像を守る嘘。
相手を傷つけたくない嘘。
場を整えるための嘘。
冗談としての嘘。
悪意ある嘘。
相手を利用するための嘘。
同じ嘘でも、心理の天秤に乗っている重りは違う。
だから、嘘を見た時に必要なのは、まず分類することである。
その嘘は、何を守るための嘘だったのか。
誰を守るための嘘だったのか。
誰に利益があったのか。
誰に損害が出たのか。
その嘘がなければ、何が起きたのか。
相手の判断権を奪っていないか。
同じ嘘を繰り返していないか。
嘘をついた後、責任を取ったのか。
ここを見る。
嘘の中には、理解できるものがある。
怖かったのだろう。
失望されたくなかったのだろう。
相手を傷つけたくなかったのだろう。
自分の弱さを見せたくなかったのだろう。
場を壊したくなかったのだろう。
そう読める嘘はある。
しかし、理解できることと、許すことは別である。
嘘は信頼を壊す。
一度嘘をつかれると、相手は次から疑うようになる。何を言われても、本当なのかと考える。過去の言葉まで疑わしくなる。小さな嘘でも、繰り返されれば信頼は削られる。
信頼とは、相手の言葉をある程度信じられる状態である。
嘘は、その土台を壊す。
だから、嘘は軽く扱うべきではない。
たとえ理由があっても、嘘には責任がある。
嘘をついたなら、なぜ嘘をついたのかだけではなく、その嘘で何が壊れたのかを見る必要がある。相手の信頼を壊したのか。相手の判断を誤らせたのか。相手に損害を与えたのか。誰かに責任を押しつけたのか。
そこを見なければ、嘘の評価はできない。
また、嘘を許すかどうかは、嘘の理由だけでは決められない。
その嘘は一度だけだったのか。
繰り返されているのか。
本人は認めたのか。
謝罪したのか。
再発防止を考えたのか。
嘘による被害を埋め合わせたのか。
次は正直に言える環境があるのか。
それとも、また同じ場面で嘘をつくのか。
これが重要である。
怖くて嘘をついた人でも、次に正直に話せるよう努力するなら、関係を修復できる可能性はある。
しかし、善意の嘘、冗談、怖かった、仕方なかったという言葉を使って、毎回責任を逃れる人なら話は違う。
その場合、嘘は単なる防衛ではなく、習慣であり、相手を軽く扱う行動になっている。
嘘をつく人の天秤には、何かが乗っている。
罰への恐怖。
失望への恐怖。
責任の重さ。
自己像の保護。
相手への配慮。
場の空気。
承認欲求。
保身。
悪意。
利益。
それらが、正直に話すことより重くなった時、人は嘘を選ぶ。
だが、正直に話すことが軽くなりすぎる社会は危険である。
誰も本当のことを言わない。
誰も責任を認めない。
誰も問題を正確に報告しない。
誰も自分の失敗を出さない。
表面上だけ整い、内側で問題が広がる。
これは、家庭でも職場でも社会でも同じである。
嘘が増える環境には、理由がある。
正直に言えば過剰に罰せられる。
失敗を認めると人格まで否定される。
責任を取る人だけが損をする。
上の人間が嘘をついている。
嘘をついた方が得をする。
正直者が守られない。
こうした環境では、嘘が心理の天秤で重くなりやすい。
だから、嘘を減らすには、正直に言える環境も必要である。
失敗を報告しても、必要以上に潰されない。
嘘をつくより正直に言う方が、長期的に得になる。
問題を早めに出した人が評価される。
責任を認めた人が、修正の機会を得られる。
嘘をついた人には、きちんと責任が問われる。
こうした環境が必要である。
正直さを求めるなら、正直さが選ばれる天秤を作らなければならない。
ただし、正直に言える環境がないからといって、嘘が無条件に許されるわけではない。
ここでも同じである。
背景は見る。
しかし、責任も見る。
恐怖は理解する。
しかし、被害も見る。
善意の嘘は考慮する。
しかし、言い訳として使われていないかを見る。
冗談の嘘は軽さを見る。
しかし、相手を傷つけた結果も見る。
この両方が必要である。
嘘の理由を理解することと、嘘を許すことは別である。
嘘は、人間の弱さから出ることがある。
嘘は、相手への配慮から出ることがある。
嘘は、冗談として出ることがある。
嘘は、悪意として出ることもある。
だから、嘘を一つの言葉でまとめてはいけない。
どの嘘なのか。
何のための嘘なのか。
誰を守ったのか。
誰を傷つけたのか。
その嘘は必要だったのか。
それとも、自分に都合がよかっただけなのか。
そこを見なければならない。
嘘をつく天秤とは、正直に話す重りより、何か別の重りが強くなった状態である。
罰を避けたい。
失望されたくない。
責任を逃れたい。
自己像を守りたい。
相手を傷つけたくない。
場を壊したくない。
笑わせたい。
得をしたい。
相手を利用したい。
どの重りが乗っているかによって、嘘の意味は変わる。
しかし、どんな理由であっても、嘘が信頼に影響することは変わらない。
だから、嘘を読む時には、理由と結果を分けて見る必要がある。
理由を理解する。
結果を評価する。
必要なら許す。
必要なら距離を置く。
必要なら責任を問う。
必要なら、正直に言える環境を整える。
それが、嘘をつく天秤を見るということである。




