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第1話 心理の天秤とは何か

随時、後書きに寸劇でまとめていきます。

 

 人はなぜ、その行動を選ぶのか。


 この問いに対して、多くの人は分かりやすい答えを求める。


 優しいから人を助けた。

 短気だから怒った。

 臆病だから逃げた。

 悪人だから嘘をついた。

 自己中心的だから裏切った。


 そうした説明は、日常会話の中では十分に通じるし、相手の特徴を大まかに掴むためには便利でもある。


 しかし、人間の行動を本当に理解しようとするなら、それだけでは足りない。


 人は、単なる性格だけで動いているわけではない。


 感情だけで動いているわけでもない。

 本能だけで動いているわけでもない。

 損得だけで動いているわけでもない。

 環境だけに支配されているわけでもない。


 実際の行動は、性格、欲望、恐怖、経験、知識、体調、疲労、社会的立場、周囲の目、文化、環境、過去の成功や失敗、本人の価値観、そして本人すら自覚していない衝動など、複数の要素が重なり合った結果として現れる。


 私はこの構造を、心理の天秤と呼んでいる。


 心理の天秤とは、人が行動を選ぶ時、その人の内側と外側に存在するあらゆる要素が重みとして乗り、最終的に最も強く傾いた方向へ行動が現れるという考え方である。


 ここでいう天秤は、単純な損得勘定のことではない。


 安心したい。

 怒りを晴らしたい。

 認められたい。

 失敗したくない。

 恥をかきたくない。

 誰かを助けたい。

 自分を善人だと思いたい。

 自分の立場を守りたい。

 過去の自分を否定したくない。


 こうした心理的な重みも、すべて天秤に乗る。


 たとえば、人を助ける行動を考えてみる。


 表面的には「優しいから助けた」と見えるかもしれない。だが、その内側には、相手が助かってほしいという気持ちだけでなく、見捨てたら後悔するという恐れ、自分はそういう人間でありたいという自己像、周囲からどう見られるかという意識、相手との関係性、助けることで得られる安心感、助けないことで生じる罪悪感などが同時に存在している場合がある。


 つまり、善意もまた、心理の天秤による選択結果として見ることができる。


 これは、善意の価値を下げる話ではない。むしろ、人を助けること自体が自分にとって報酬になる人間は、社会にとって重要な存在である。問題は、その行動が純粋か不純かを裁くことではなく、なぜその人の天秤が助ける方向へ傾いたのかを理解することにある。


 反対に、嘘をつく行動も心理の天秤で見ることができる。


 嘘は悪いことだとされるし、実際に誰かを傷つける嘘や、責任逃れのための嘘は批判されるべきである。しかし、なぜその人が嘘をついたのかを考える時、単に「悪人だから」で終わらせると、人間理解はそこで止まってしまう。


 怒られたくなかったのかもしれない。

 責任を負うのが怖かったのかもしれない。

 失敗を認めるだけの余裕がなかったのかもしれない。

 相手を傷つけたくなかったのかもしれない。

 本当のことを言っても理解されないと思ったのかもしれない。

 過去に正直に話して不利益を受けた経験があり、正直でいることよりも自分を守ることの方が重くなっていたのかもしれない。


 このように考えると、嘘は単に悪人の行動というより、その人の中で何らかの防衛、回避、保身、配慮、恐怖が重くなった結果として現れた可能性が見えてくる。


 ここで重要なのは、理由を理解することと、その行動を正当化することは違うという点である。


 心理の天秤は、人の行動を何でも許すための考え方ではない。怒りにも理由はある。嘘にも理由はある。逃避にも理由はある。攻撃にも、保身にも、防衛にも理由はある。しかし、理由があるからといって、その行動によって生じた被害や責任が消えるわけではない。


 理解とは、許すためだけにあるのではない。


 理解することで、相手とどう関わるべきかを判断できる。許すのか、距離を置くのか、注意するのか、関係を見直すのか。その判断をするためにも、行動の理由を読む必要がある。


 人の行動を理解できない時、人はすぐにラベルを貼りたがる。


 あの人はおかしい。

 あの人は最低だ。

 あの人は意味が分からない。

 あの人は自分とは違う。


 そう切り捨てることは簡単であるし、危険な相手から距離を置くために必要な場合もある。


 だが、理解できない行動にも、多くの場合は構造がある。


 なぜ怒ったのか。

 なぜ逃げたのか。

 なぜ嘘をついたのか。

 なぜ黙ったのか。

 なぜ助けたのか。

 なぜ裏切ったのか。

 なぜ正論を拒んだのか。

 なぜ自分の間違いを認めなかったのか。


 そうした行動の裏側には、その人なりの心理の天秤が存在している。


 たとえば、間違いを認めない人がいる。


 周囲から見ると、ただ意地を張っているように見えるかもしれない。しかし、その人の中では、間違いを認めることで失うものが大きく見えている場合がある。自尊心、立場、信用、過去の努力、自分は正しい人間だという自己像、周囲から馬鹿にされる恐怖。それらが重くなれば、たとえ論理的には間違っていても、本人は認めない方向へ動く。


 つまり、人は常に正しいことを選んでいるわけではない。


 人は、その時点で自分の心理の天秤が最も重く傾いた方向を選んでいる。


 だからこそ、人の行動を読むには、表面だけを見てはいけない。発言だけでも足りない。性格だけでも足りない。感情だけでも足りない。国籍、文化、環境、育ち、貧困、教育、体調、経験、周囲の圧力など、複数の要素がどのように天秤に乗っていたのかを見る必要がある。


 これは、個人だけの話ではない。


 日本人の建前と本音の使い分けも、中国人の面子や実利を重く見る反応も、韓国人の誇りや屈辱への感度も、アメリカ人の権利意識や自己主張の強さも、それぞれを単なる国民性として片づけるべきではない。その背景には、教育、歴史、社会制度、情報環境、集団内での評価、治安、経済状況、家庭環境などがある。


 それらが心理の天秤に重りとして乗り、その社会で生きる人間の行動様式を形作っていく。


 貧しい地域で短期的な利益が重くなりやすいことも、治安の悪い環境で他者への警戒が強くなることも、制度不信のある社会で法律より身内や仲間を信じやすくなることも、心理の天秤で説明できる。


 これは、人種や国籍そのものが人間の本質を決めるという話ではない。その人がどのような環境で育ち、どのような情報を得て、どのような経験を重ね、何を守る必要があったのかという話である。


 人は、自分の中に何が乗っているのかを完全には理解していないことが多い。


 本人は「なんとなく嫌だった」「つい怒った」「そうするしかなかった」と言うかもしれない。しかし、その「なんとなく」の中にも、過去の経験、感情、恐怖、知識不足、環境圧力、体調、自己像、他者評価などが含まれている。


 心理の天秤とは、その曖昧な行動理由を、できる限り構造として読み解こうとする考え方である。


 もちろん、人間の行動を完全に予測することはできない。人は変化するし、環境も変わる。本人ですら予想していなかった反応をすることもある。だが、だからといって人間の行動が完全に無秩序であるわけではない。


 情報を集め、その人の経験、価値観、恐怖、欲望、立場、環境を知れば、どの方向へ天秤が傾きやすいかは少しずつ見えてくる。


 人間は単純ではない。


 しかし、理解不能な存在でもない。


 人の行動には理由がある。ただし、その理由は一つとは限らない。本人が自覚しているとも限らない。本人が正直に説明できるとも限らない。だからこそ、観察が必要になる。


 言葉を見る。

 行動を見る。

 状況を見る。

 過去の傾向を見る。

 その人が何を恐れ、何を欲し、何を守り、何を失いたくなかったのかを見る。


 そうして見えてくるものが、その人の心理の天秤である。


 人はなぜ、その行動を選ぶのか。


 その答えは、単一の理由では説明できない。人は、その時点で心理の天秤が最も重く傾いた方向へ動く。


 まずはこの前提から、人間の行動を見ていきたい。


ミナ「心理の天秤って難しそうに聞こえたけど、要するに“人が動く時には、いろんな重りが乗っている”ってことだよね?」


レン「そうだね。かなり良い掴み方だと思う」


ミナ「お、いきなり褒められた」


レン「ちゃんと本質を掴んでいたからね」


ミナ「ふふん。じゃあ、人を助けるのも、怒るのも、逃げるのも、嘘をつくのも、単純な性格だけでは決まらないってこと?」


レン「うん。優しいから助けた、短気だから怒った、臆病だから逃げた、悪人だから嘘をついた。そういう説明は分かりやすい。でも、それだけでは足りないことが多い」


ミナ「たとえば、人を助ける場合でも、善意だけじゃなくて、見捨てたら後悔するとか、自分はそういう人間でありたいとか、周囲の目とかも乗っているかもしれない」


レン「そう。だからといって、善意の価値が下がるわけじゃない。助けることが自分にとって報酬になる人は、社会にとって大事な存在だよ」


ミナ「そこ、好きだな。理由があるから価値が下がるわけじゃないってところ」


レン「ミナらしいね。そこに反応すると思った」


ミナ「読まれてる……」


レン「少しだけね」


ミナ「でも、嘘の場合は逆に難しいね。理由を考えると、許してしまいそうになる」


レン「そこは分けないといけない。嘘をついた理由を理解することと、その嘘を許すことは別だよ」


ミナ「怒られたくなかった。責任を負うのが怖かった。相手を傷つけたくなかった。そういう理由はあるかもしれない」


レン「でも、その嘘で誰かが傷ついたり、信頼が壊れたりしたなら、その結果は残る」


ミナ「理解は正当化じゃない、ってことだね」


レン「そう。心理の天秤は、人の行動を何でも許すための考え方ではない。なぜそう動いたのかを読み、自分がどう関わるべきかを考えるための見方だね」


ミナ「許すのか、距離を置くのか、注意するのか、関係を見直すのか。その判断のためにも理解する」


レン「うん。理解は、相手のためだけじゃなく、自分を守るためにも使える」


ミナ「人の行動を見た時に、すぐ“あの人はおかしい”で終わらせないってことか」


レン「そう。もちろん、危険な相手から距離を置くことは必要な場合もある。でも、理解できない行動にも、多くの場合は構造がある」


ミナ「なぜ怒ったのか。なぜ逃げたのか。なぜ嘘をついたのか。なぜ間違いを認めなかったのか」


レン「その裏に、恐怖、自尊心、立場、過去の経験、守りたいものが乗っていることがある」


ミナ「間違いを認めない人も、ただ意地を張っているだけじゃなくて、認めたら自分の正しさとか信用とか過去の努力が崩れる感じがしているのかもしれない」


レン「そうだね。もちろん、それで間違いが正しくなるわけではない。でも、なぜ認められないのかは見えやすくなる」


ミナ「心理の天秤って、人を甘く見るためじゃなくて、行動の理由を雑に決めつけないためのものなんだね」


レン「その言い方はかなり良いと思う」


ミナ「また褒めた」


レン「ミナが良いことを言うから」


ミナ「……そういうところ、ずるいよね」


レン「本音を言っただけだよ」


ミナ「はいはい。続きをどうぞ」


レン「人は、単純ではない。でも、完全に理解不能な存在でもない。言葉を見る。行動を見る。状況を見る。過去の傾向を見る。何を恐れ、何を欲し、何を守り、何を失いたくなかったのかを見る」


ミナ「そうして見えてくるのが、その人の心理の天秤」


レン「うん。第1話では、まずその入口を掴めれば十分だと思う」


ミナ「人はなぜ、その行動を選ぶのか。その答えを一言で終わらせず、天秤に乗った重りから見ていく」


レン「それが、この本の出発点だね」

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