第97話 嵐の前
「始まった」
その一言が、静かに残っていた。議場を出ても。廊下を歩いても。王都の空を見上げても。消えない。
レオンハルトは立ち止まる。振り返る。さっきまで議論が行われていた場所。もう誰もいない。だが確かに、何かが変わっている。
「……空気が軽いな」
第一王子が言う。勝ったのに、と続けかけて止めた。
「重くなると思っていたが」
ルークが答える。軽さの理由を、彼はすぐに言葉にできた。
「選択肢が増えたからです」
短い。だが的確だった。これまで世界は一つだった。市場に従うか、飲み込まれるか。だが今、もう一つがある。王の示した構造。だから軽い。だが。
「軽いのは最初だけだ」
レオンハルトが言う。全員が理解する。選択肢があるということは、選ばれるということだ。
王宮へ戻る。扉が閉まる。外の喧騒が消える。静寂。エリシアが小さく息を吐く。
「……終わりました」
「いいや」
レオンハルトは首を振る。同じ問いに、同じ答えを返す。
「始まった」
同じ言葉だった。だが意味は違う。エリシアは微笑む。
「はい」
それ以上は言わない。必要なかった。ルークが言う。
「連盟は動きます」
「分裂は確実です」
「だが」
一瞬、言葉を選ぶ。分裂の先を、彼はもう見ている。
「弱体化とは限らない」
第一王子が笑う。厄介、という語に、少し嬉しそうな響きがある。
「むしろ厄介になるか」
「可能性は高いです」
沈黙。その時。扉が叩かれた。強い音。ただ事ではない。
「報告!」
兵が駆け込む。扉を閉める余裕も無かった。
「西方――」
息が荒い。走ってきた距離が、その息づかいで分かる。
「暴動再燃!」
空気が一瞬で変わる。支援を入れたばかりの地域だった。
「規模は?」
「拡大中!」
「王国支援地域です!」
全員の顔が変わる。エリシアが即座に言う。
「……早すぎる」
ルークも同時に理解する。議場を出て、まだ一刻も経っていない。
「実証だ」
低い声だった。実証、という語が、そのまま形になっている。
「連盟ではない」
「理念派でもない」
「別の動きです」
第一王子が眉をひそめる。相手の名が出ない報告を、彼は最も嫌う。
「誰だ」
「分かりません」
だが一つだけ確実なことがある。
「これは試されている」
レオンハルトが静かに言う。試されている、と認めるところから始めた。
「どこまで責任を負うか」
その問いが、もう現実になっている。さっきまで議論していたことが、もう起きている。
エリシアが言う。議論の言葉を、そのまま手順に変えていく。
「支援を拡大します」
「即時に」
ルークが続く。
「だが資源には限界がある」
第一王子が言う。
「軍は?」
「まだ不要」
レオンハルトは短く言う。
「まずは民だ」
迷いがない。だが。その時。もう一つの報告が入る。
「東方国境――」
兵が震える。
「軍が再集結しています」
沈黙。完全な。第一王子が低く言う。
「同時か」
ルークが呟く。
「……連動している」
金融ではない。思想でもない。現実の圧力だった。エリシアが静かに言う。
「始まりましたね」
レオンハルトは頷く。
「試される」
責任が。均衡が。そして、王が。
二つの報せの届いた時刻を、エリシアは並べて書いた。西方の暴動と、東方の再集結。差は、半刻も無い。
偶然で揃う差ではない。書きながら、そう思った。
窓の外。王都は変わらない。
静かな回に見えて、二つの報せが同時に入ります。
内側の暴動と、外側の軍。片方ずつなら対処できるものを、同時にすると急に手が足りなくなる。この物語で人が追い詰められるときは、たいてい同時に起きます。
嫌な予感がしたという方は、ブックマークをして次の数話を続けて読んでいただけると嬉しいです。




