第45話 守る理由
第三者監査の開始は、王宮全体に波紋を広げていた。廊下の囁きは、露骨になる。
「補佐官が捏造を?」
「第二王子は感情で動いている」
エリシアは、足を止めなかった。視線は慣れている。だが今回は違う。彼女個人への攻撃が、明確だった。
執務室に戻ると、机の上に匿名の投書が置かれていた。
“野心家の女”
“王位を操る影”
紙を静かに折りたたむ。字は整っていて、書き慣れた手だった。
「読む必要はない」
背後から声。レオンハルトだった。
「事実ではありません」
「事実でなくとも、広まれば事実になる」
低い声だった。事実でなくとも、という前置きが、この王宮の全部だ。机に置かれた投書を取り上げ、無造作に引き裂く。珍しい動作だった。普段の彼なら、もっと冷静に処理する。
「殿下」
「監査は形式だ」
言葉が重い。形だ、と言い切れるだけの材料を、彼はもう持っている。
「兄上は、あなたの名誉を削ることで私を揺さぶる」
「理解しています」
「理解しているから退く、とは言わないな」
一瞬、目が合う。訊いた側が、答えを知っている問いだった。
「言いません」
静かな答えだった。彼は、ゆっくりと息を吐いた。
「……今日の議場で」
低い声。
「あなたが職務停止を受け入れると言った瞬間」
視線が逸れる。この人が言葉の途中で目を逸らすのを、初めて見た。
「胸が冷えた」
エリシアは、わずかに息を止める。冷えた、という語を、この人は自分の身体に使った。
「殿下の立場を」
「違う」
遮る。珍しく、はっきりと。
「立場ではない」
沈黙。その先を、彼は言わない。言えば、何かが変わる。
「兄上があなたを独善だと評した」
静かな声だった。独善、という評を、彼は持ち帰ってきていた。
「それは違う」
視線が戻る。逸らしていたのは、ほんの数拍だった。
「あなたは、誰よりも他者を見ている」
強い言葉だった。他者を見ている、という評は、独善のちょうど裏側にある。
「だから」
一瞬、躊躇う。だから、の先に置く語を、彼は探していた。
「守る」
短い。だが重い。
「政治的必要だからではない」
息が詰まる。政治の言葉で説明されるほうが、まだ楽だった。
「……では」
エリシアの声が、わずかに揺れる。訊けば戻れなくなると、分かっていて訊いた。
「なぜ」
長い沈黙。廊下の足音が遠くに響く。彼は一歩、近づく。触れない距離。だが、以前より近い。
「あなたが傷つくのは」
低く。
「許容できない」
はっきりと。心臓が強く打つ。
「それが、理由だ」
合理ではない。政治でもない。感情だ。エリシアの喉が、わずかに熱くなる。
「私は」
言葉を探す。守られる側に立った覚えは、一度もない。
「殿下を守る立場です」
「守られている」
即答だった。守っているつもりだった側が、そのまま裏返される。
「港で、王宮で」
視線が揺れない。港でも王宮でも、と場所の名だけを並べた。
「あなたがいなければ、私はここまで踏み込まなかった」
静かな告白だった。踏み込まなかった、という仮定を、この人は初めて口にした。
「……それは」
「事実だ」
重ねる。
「だから、守る」
単純な論理。だがそこに、揺るぎない意志がある。
「足枷ではない」
「強みだ」
以前の言葉。だが今は、温度が違う。エリシアは、ゆっくりと息を吸う。
「殿下が傷つくのも」
視線を上げる。同じ言葉を返すのが、いまできる精一杯だった。
「許容できません」
空気が、張り詰める。一瞬。何かが越えそうになる。だが、踏み込まない。踏み込めば、戻れない。
扉の外で足音。現実が戻る。彼は、わずかに距離を戻した。
「監査が終われば」
静かな声だった。監査の先の話を、彼はもう見ている。
「次は、王位だ」
「はい」
短い応答。だが胸の奥は、もう隠せない。
扉の外の足音は、通り過ぎていった。
引き裂かれた投書の筆跡を、エリシアは指で追った。字の間隔が、公文書の罫に合っている。王宮の書式に慣れた手だ。
気づいたことは、言わずにおいた。
彼が距離を戻したぶんだけ、部屋の空気が元に戻る。エリシアは机の上の、引き裂かれた紙の欠片を集めた。
捨てずに、引き出しの奥へしまう。なぜそうしたのかは、自分でも説明できなかった。
匿名の投書が届く回です。
書かれている中身は、実は的外れでもありません。野心がないとは言い切れないところに彼女は立っているので。だから読ませずに折りたたませました。
そのあと、一度だけ何かが越えそうになって、越えません。踏み込めば戻れないと分かっている人たちなので。




