第4話 それでも私は、何も言わなかった
第二王子レオンハルトの言葉が落ちたあと、広間は異様な沈黙に包まれていた。
誰もが息を潜め、次に発せられる言葉を待っている。
その沈黙を、最初に破ったのは第一王子アルベルトだった。
「……意味のない口出しはやめろ、レオンハルト」
苛立ちを隠そうともせず、そう吐き捨てる。
「これは私の婚約だ。私が決めたことに、お前が関わる理由はない」
「そうでしょうか」
レオンハルトは、静かに首を傾げた。
「兄上は今、“彼女がいなくとも国政は回る”と仰った。その点について、事実ではないと申し上げただけです」
淡々とした口調。
感情を煽るでもなく、断定するだけの声音。
だが、その一言が投げ込まれた瞬間、空気は確実に揺れた。
「……何が言いたい」
アルベルトが睨みつける。
レオンハルトは答えなかった。
代わりに、視線をエリシアへと向ける。
ほんの一瞬。
だがその目は、問いかけるようでも、慰めるようでもなく――ただ、確認するようだった。
エリシアは、その視線を受け止めながら、小さく首を振った。
これ以上、誰かに庇われるつもりはなかった。
この場で争いが起きれば、それは彼にとって不利益になる。
それだけは、分かっていた。
「……殿下」
エリシアは、静かに声を上げた。
「どうか、これ以上は」
広間の視線が、一斉に彼女へ集まる。
「私は、殿下のお言葉を受け入れました。婚約は解消され、私の役目は終わったのです」
その言葉に、ざわめきが走る。
「エリシア」
マリアが、堪えきれずに名を呼ぶ。
だがエリシアは、振り返らなかった。
「これ以上、この場を乱すことは望みません」
それは、自分のための言葉であると同時に、レオンハルトを制する言葉でもあった。
彼は、ほんのわずかに目を細めた。
だが、それ以上は口を開かない。
アルベルトは、鼻で笑った。
「聞いたか。本人がそう言っている」
勝ち誇ったような声。
「ならば話は終わりだ。――下がれ、エリシア・フォン・アルヴェーン」
その言葉は、命令だった。
エリシアは、深く一礼した。
何も言わない。
言い訳もしない。
抗議もしない。
ただ、踵を返す。
背中に突き刺さる無数の視線を、感じながら。
広間を出るまでの距離が、ひどく長く感じられた。
一歩進むごとに、胸の奥が静かに削られていく。
廊下に出た瞬間、張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。
「……はあ」
息が、こぼれる。
足が、少し震えていた。
だが、それでも歩みは止めなかった。
ここで立ち止まれば、本当に崩れてしまう気がしたからだ。
「エリシア様!」
駆け寄ってきたマリアが、声を震わせる。
「どうして……どうして、あんな……!」
「マリア」
エリシアは、彼女を制した。
「大丈夫よ。私は、平気」
その言葉は、半分は嘘だった。
だが、半分は本当でもあった。
泣き叫びたいほどの衝撃は、もう通り過ぎている。
残っているのは、冷え切った現実だけだ。
「これから、どうなさるおつもりですか……?」
マリアの問いに、エリシアは答えられなかった。
考えていなかったのだ。
婚約者であるという立場がなくなった自分が、どこへ行くのか。
伯爵家へ戻る?
それとも、しばらく身を隠す?
選択肢はいくつもあるはずなのに、どれも現実味がない。
「……今夜は、部屋に戻りましょう」
それだけを告げ、歩き出す。
だが――
「少し、時間をいただけますか」
背後から、落ち着いた声がかかった。
振り返ると、そこに立っていたのは、レオンハルトだった。
人払いをするように、周囲には誰もいない。
彼は、エリシアから一定の距離を保ったまま、言う。
「正式な話ではありません。あくまで、私個人のお願いです」
その言葉に、エリシアは一瞬だけ迷った。
だが、逃げる理由もなかった。
「……何でしょうか」
「今後しばらく、私の執務室で、補佐として働いてほしい」
あまりにも淡々とした提案。
恩着せがましさはなく、同情もない。
ただ、事実を並べるような口調。
「一時的なものです。立場も保証はできません」
それでも、と彼は続けた。
「あなたの能力が必要です」
エリシアは、その言葉を、すぐには理解できなかった。
能力。
それは、今しがた否定されたばかりのものだ。
「……私で、よろしいのですか」
思わず、そう尋ねていた。
レオンハルトは、迷いなく頷く。
「はい」
短い返事。
だが、その中に、揺るぎはなかった。
エリシアは、胸の奥に、かすかな痛みと――それ以上に、小さな戸惑いを覚えた。
救われた、とは言えない。
まだ、何も始まっていない。
それでも。
「……承知いたしました」
そう答えた自分の声が、少しだけ、前を向いているように感じられた。
その夜、エリシアは王宮の一室で、ひとり天井を見つめていた。
婚約者ではない。
守られる立場でもない。
だが、完全に捨てられたわけでもない。
その曖昧さが、不安で――そして、わずかに、希望でもあった。




