第35話 触れない距離
夜の港は、昼間の騒ぎが嘘のように静かだった。
臨時に用意された執務室。
灯りは抑えられ、波の音だけが遠くに響く。
エリシアは、包帯の巻かれた腕を机の上に置き、資料に目を通していた。
「休むように言われたはずですが」
扉の向こうから、落ち着いた声。
「横になっても、思考は止まりません」
視線を上げる。
レオンハルトが入室し、扉を静かに閉める。
「痛みは」
「支障はありません」
短い応答。
だが沈黙が長く続く。
彼は、机の向かいではなく、横に立った。
近い。
触れない距離。
「今日の件は」
低い声。
「私の想定が甘かった」
「違います」
即座に否定する。
「混乱は意図的でした。責任は密輸側にあります」
「それでも」
視線が交わる。
「あなたが傷ついた」
その言葉は、静かだが重い。
エリシアは、包帯に触れる。
「浅い傷です」
「深さの問題ではない」
珍しく、即答だった。
空気がわずかに張り詰める。
「殿下」
ゆっくりと息を吸う。
「私は、守られるだけの存在ではありません」
「分かっている」
「ですが、前に出ることを止めないでください」
まっすぐな視線。
「私が選んだのです」
その言葉に、レオンハルトは一瞬目を伏せる。
やがて、静かに言う。
「……あなたは、強い」
「強くありません」
小さく笑う。
「怖いと思いました」
素直な告白。
「それでも、立ち止まりたくなかった」
沈黙。
彼は、ほんのわずかに手を伸ばしかける。
だが止める。
触れない。
「私も」
低く、落ち着いた声。
「冷静ではなかった」
エリシアは、わずかに目を見開く。
「あなたが倒れた瞬間、判断より先に身体が動いた」
事実を述べるような口調。
「王子としてではない」
一瞬、言葉が止まる。
「……個人として」
空気が変わる。
波音が、遠くなる。
「殿下は、十分冷静でした」
「いいえ」
小さく首を振る。
「感情は、時に判断を鈍らせる」
「ですが」
エリシアは言う。
「感情がなければ、国は守れません」
その言葉に、彼は静かに息を吐いた。
「あなたは、危うい」
「自覚しています」
「それでも」
視線が絡む。
「隣に立ちますか」
問いではない。
確認。
エリシアは、迷わない。
「はい」
短く、はっきりと。
それ以上の言葉はない。
触れない距離。
だが確実に、越えかけている線。
レオンハルトは、ほんのわずかに笑った。
「……ならば、守ります」
「守られます」
返す。
その応答に、彼の目が柔らぐ。
夜は深い。
港の灯りが揺れる。
傷は浅い。
だが心の奥に残ったものは、はっきりしていた。
失いたくない。
その感情は、まだ名を持たない。
けれど、確実に形を取り始めている。
触れない距離のまま。
二人は、並んで立っていた。




