第19話 守るべきもの
問題は、想定より早く顕在化した。
差し戻した港湾再整備計画について、第一王子側が修正案を提出してきたのだ。一見、整っている。法令改正も反映済み。だが、エリシアは、違和感を覚えた。
「……条件が、厳しすぎる」
独り言のように呟く。修正案では、補助金は段階的縮小に変更されている。しかし、その代替条件として、現地側に過剰な自己負担が求められていた。
数字上は成立する。だが、余裕のない地域では、事実上の切り捨てに近い。
――体裁だけ整えた。
そう理解した瞬間、胸が冷えた。
「殿下」
資料を差し出す。指先が、紙の角を強く押さえていた。
「法令上の問題は解消されています。ただし、現地の負担が過大です」
レオンハルトは、静かに目を通す。
「確かに」
同意の一語だけで、彼は次の紙へ指を移した。
「このまま通せば、形式上は正しい判断になります」
「ですが?」
問いに、エリシアは一瞬だけ迷った。ここで再び異議を唱えれば、対立は決定的になる。今度は“法令違反”ではない。価値観の問題だ。
「……実態としては、事業の縮小、もしくは撤退に近い結果になります」
声が、少し低くなる。
「現地の雇用が減り、住民の流出が起きる可能性があります」
それは、数字には表れにくい影響だった。
「差し戻しますか」
レオンハルトの問いは、変わらず静かだ。エリシアは、ゆっくりと息を吐く。法的には問題ない。形式的にも整っている。ここで止めるのは、政治的判断になる。
――私は、どちらを選ぶ。
自分の立場を守るなら、承認するのが賢明だ。これ以上の対立は、確実に自分を標的にする。だが、かつて、自分が処理していた案件の裏で、困るのは現場の人間だった。数字の裏に、生活がある。
「……止めます」
言葉は、はっきりしていた。言ってから、引き返せないところへ来たと分かる。
「理由は」
「持続可能性がないからです」
迷いは消えている。数えたのは昨夜のうちで、答えはそのときに出ていた。
「三年以内に再支援が必要になります。結果として、支出は増えます。短期的な体裁を整えるために、長期的な負担を増やすべきではありません」
レオンハルトは、静かに彼女を見つめる。
「対立は、深まります」
「承知しています」
返事は短くした。長く言えば、迷っていることになる。
「あなた個人への風当たりも強くなる」
胸が、少しだけ痛む。事実として言われると、覚悟のほうが薄く感じられた。
「……それでも」
目を上げる。
「守るべきものは、そこではありません」
言葉にした瞬間、自分でも驚くほど、はっきりしていた。守るのは、立場ではない。評価でもない。判断そのものだ。
沈黙のあと、レオンハルトが言う。
「では、代替案を提示しましょう」
エリシアは、目を瞬いた。止めるところまでしか考えていなかった。
「こちらから、現実的な段階移行案を出します。負担を緩和しつつ、自立を促す形で」
彼は、淡々と続ける。
「対立ではなく、提案に変える」
その言葉に、胸の奥が温かくなる。ただ止めるのではない。建設的に示す。それが、この人のやり方だ。
夜遅くまで、二人は代替案を練った。現地の収支予測。雇用維持のライン。段階的縮小の再設計。単なる反対ではなく、現実的な解を示すために。
翌日の会議。第一王子側の実務官が、明らかに不快な顔をする。
「法令上の問題は解消されています」
「承知しています」
エリシアは、静かに資料を差し出す。
「ですが、持続可能性に懸念があります。こちらが代替案です」
室内が、ざわつく。単なる否定ではない。具体案がある。第一王子側の実務官は、言葉に詰まった。
その瞬間、エリシアは理解する。これは、自分のための戦いではない。誰かが困る未来を、見過ごさないための判断だ。
会議後、廊下でカイルが低く言った。
「……そこまで踏み込むか」
「必要でした」
「自分の立場は?」
「守るものを間違えなければ、後からついてきます」
自分でも驚くほど、自然に出た言葉だった。カイルは、わずかに笑った。
「変わったな」
そうかもしれない。だが、もう迷いはない。守るべきものを、間違えない。それだけは、確かだった。




