第17話 罠
それは、夕刻ぎりぎりに届いた。
封蝋付きの緊急案件。
地方港湾の再整備計画に関する最終承認書。
「期限は本日中、ですか」
エリシアは、封を切りながら確認する。
「ええ。明朝には発布予定です」
書類を運んできた文官は、どこか落ち着かない様子だった。
時間がない。
形式は整っている。
関係部署の承認印も揃っている。
一見、完璧な書類。
――だが。
ページをめくった瞬間、エリシアの指が止まった。
数字の配分。
契約条項。
責任所在。
表面上は問題ない。
むしろ、よく練られている。
だが、条件の一つに、致命的な盲点があった。
補助金の交付基準が、前年の規定に基づいている。
だが、今年度から法令が改正されている。
このまま承認すれば、形式上は合法。
だが、数か月後、監査が入れば違反と判断される可能性が高い。
責任は――最終承認者にある。
エリシアは、ゆっくりと息を吐いた。
これは、単なる不備ではない。
今年度の改正を知らないはずがない。
内部共有も済んでいる。
つまり。
――意図的に、旧基準を混ぜている。
「殿下」
レオンハルトは、書類を受け取ると、数秒で異変に気づいた。
「……巧妙ですね」
「はい」
声は落ち着いているが、胸の奥は冷たい。
「承認すれば、後日問題が発覚。責任は殿下、もしくは補佐に」
レオンハルトは、机に指を置いたまま、動かない。
「期限は」
「本日中」
沈黙。
今から差し戻せば、発布は間に合わない。
第二王子側の判断が遅れたと記録される。
通せば、後で違反の責任を問われる。
どちらも傷になる。
――完成している。
エリシアは、静かに理解した。
これは、失敗を誘う罠だ。
「あなたは、どうしますか」
レオンハルトの問い。
助け舟ではない。
委ねている。
エリシアの脳裏に、あの言葉が浮かぶ。
“必要な場面では、声を上げる人になれ”
深く息を吸う。
「差し戻します」
即答だった。
「理由は」
「法令改正への不適合。監査リスクの回避。発布遅延の責任は、形式上こちらに生じますが、後日の損失より軽微です」
迷いはない。
レオンハルトは、わずかに目を細めた。
「……覚悟はありますか」
「はい」
声は、揺れなかった。
「承認しない理由を、正式文書で提出します」
即座に机に戻り、筆を走らせる。
法令番号。
改正日。
影響範囲。
想定リスク。
時間は、刻一刻と過ぎていく。
外はすでに夜。
王宮の回廊の灯りが揺れている。
提出期限まで、あとわずか。
文書を書き上げた瞬間、エリシアは立ち上がった。
「これで、通します」
「行ってください」
レオンハルトの声は、静かだった。
廊下を急ぐ足音が、石床に響く。
提出先の窓口で、文官が目を見開いた。
「……差し戻し?」
「法令不適合のため、再検討を求めます」
「だが、期限が――」
「承知しています」
エリシアは、はっきりと言った。
「それでも、通せません」
文官は、しばらく彼女を見つめ、そして書類を受け取った。
その目には、わずかな驚きがあった。
執務室へ戻る途中、回廊の影に、ひとりの男が立っていた。
穏やかな微笑み。
「……迅速な判断ですね」
オズワルド・レイン。
声は柔らかい。
「急な案件で、さぞ大変だったでしょう」
「仕事ですので」
エリシアは、視線を逸らさない。
オズワルドの目が、わずかに細まる。
「差し戻しは、賢明とは限りませんよ」
「承知しております」
「発布が遅れれば、責任は?」
「記録に残ります」
淡々と返す。
一瞬の沈黙。
そして、オズワルドは微笑んだ。
「……なるほど」
それ以上は何も言わず、彼は去った。
背筋を、冷たいものが伝う。
罠は、破られた。
だが、相手は確実にこちらを見ている。
執務室へ戻ると、レオンハルトが言った。
「反応は」
「確認されました」
「そうですか」
彼は、静かに書類を閉じる。
「第一段階は、越えましたね」
エリシアは、椅子に腰を下ろした。
手の震えが、遅れてやってくる。
だが、目は逸らさない。
これは事故ではない。
戦いだ。
そして。
自分は、もう駒ではない。
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