第八五羽 首輪をつけた三毛猫編
やって来るにはやって来たが美鶴は座ろうとしなかった。彼女はイスを置いて背もたれに手をかけている。
「ライチョウもお疲れさまだな」
タンチョウはそう言って労った。
「タンチョウもね。無事に依頼を達成したそうじゃない。なにか思わぬ出来事もあったみたいだけど」
「大丈夫だった。良かったよ」
「そう、良かったのね」
「疲れただろう? 団長と依頼の仕事を同時にやるだなんて」
「大丈夫よ」
「そうか? 三毛猫を捕まえた後はちょっとだけ心配していたんだ。平気だろうかって」
「平気って言ってるでしょ」
「でも、負担にはなっただろう?」
タンチョウはしつこく尋ねた。まるで美鶴の肯定を望んでいるかのように。
美鶴は折れなかった。
「なってない」
「まあ、頑張ってたよ」
タンチョウが慰める様に言うと美鶴は酷く憤慨した。
「どういうつもり? 慰めてるの?」
「いや、違う。労おうかと思ってたんだ」
「ふん、労いも慰めも要らない」
「ちょ、ちょっと待てって」
「知らないわ、馬鹿!!」
美鶴は怒ってイスを持ち上げると走るような速度で歩き出した。
タンチョウは美鶴を引き留めた。腕を掴もうとしたが彼女の腕を掴む直前で思い留まって引っ込めてしまった。
それでも彼は食い下がった。止まろうとしない彼女の傍を歩いて弁解した。
「ごめん、気に障ったのなら謝る」
タンチョウは素直に謝った。だが、美鶴は許しはしなかった。無視を決め込んで返事をしようとしない。止まらないのが最低限の意思表示だった。
玄関の前で美鶴はイスを持ち手を変えるために立ち止まった。決してタンチョウの話を聞くためではない。だったがタンチョウは更に言葉をかける。
「なあ、悪かったよ」
男にはよくあるが不機嫌に対して謝る事がある。タンチョウもその例から漏れなかった。いわゆる失言に対しては謝らない態度だった。美鶴はそんな様子が見て取れるのでますます苛立ちは増していく。
問い質すわけにもいかない。痴話げんかや負けた腹いせのように思われるのも癪だった。だが、タンチョウは付きまとう。
タンチョウは再び謝った。次は真面目で誠意のこもった謝罪だった。
だが、そんな深い謝意がより彼女を傷つける。
美鶴は立ち止まってイスから手を離して右手を振り上げると勢いよくタンチョウの頬をめがけて振りぬいた。
ぱしんと乾いた音が鳴った。弱々しい音だった。強烈な一撃とはとても言い難い。
だが、与えた影響は双方にとって甚大だった。
タンチョウは手が振りあがった瞬間から美鶴が本気で叩く事を理解してすんでのところで避けようと体を少しだけ反らしたが、途中で避けるのを止めて平手打ちを頬で受け止めた。
美鶴は避けるタンチョウに気が付いて手の勢いを少しだけ緩めた。まだ冷静だったのだ。後頭部がヒヤッとする感覚を美鶴はタンチョウの頬に自分の右手が辿り着く前に覚えた。その感覚が右手の勢いを緩めさせたのである。
よもや叩かれるなどとは微塵も考えていなかったタンチョウは痛むよりも驚いて叩かれた左頬を押さえた。
タンチョウよりももっと驚いていたのは美鶴である。ハッと手を口に当てて目を伏せると叩いた右手を隠すように体の後ろへ置いた。
美鶴は謝らなかった。急いでイスを持ち上げると口元を押さえたままで玄関に入った。
何かが煌めいて彼女の靡く髪に乗って零れ落ちていくのが見えたがタンチョウにはそれが何かは分からなかった。見えていたのにそれを認めないように信じなかった。
玄関の前でタンチョウは立ち尽くしていた。左の頬がジンジンと熱を帯びていく。混雑は解消されて既に生徒は残っていない。目の前が開かれているのにタンチョウはイスを持ち上げて入る気にはなれなかった。
体育祭はそんな風にして終わった。
長い長い1日だったと帰り際に思った。




