混乱
リング上に横たわるチアキ先輩は、ピクリとも動かなかった。リングドクターやスタッフが駆け寄って、処置をしている。
俺も西野も応援席のみんなも、ただ言葉をなくしていた。棒立ちのまま、呆然とリングの一点を見つめている。
みゆきは、腰が抜けたように、座席に座り込んでいた。
「チアキ先輩は、大丈夫なんでしょうか?」
みゆきの声は、囁くように小さく、覇気がない。もし、みんなに聞こえるような声だったとしても、誰も答えることはできなかっただろう。
やがて、担架が運ばれて来て、チアキ先輩が乗せられた。花道の上を担架に乗って去って行く異常事態。
担架から、ダラリと垂れ下がったチアキ先輩の腕が、力なく揺れていた。
チアキ先輩の所に行かなきゃいけない。そんな気がした。放心状態の西野の手を引き、みゆきを引き起こして、控え室を目指した。
観客をかき分け、通路に出る。大きな会場だけに、控え室がどこにあるのか、見当もつかない。
トイレの前を通り過ぎ、売店の前を横切って、とにかく先へ先へと進んで行った。
すると、通路に「関係者以外立ち入り禁止」の看板を見つけた。この先に、チアキ先輩がいるはずだ。
近くの係員に事情を説明した。事情が事情なだけに、すぐに通してもらえた。
大きな会場だけあって、選手1人1人に控え室が与えられている。ドアの脇にかけられている名札を確認しながら、奥へと進んだ。
緩やかに曲がった廊下の先、チアキ先輩の部屋はすぐにわかった。関係者がドアの外まで溢れかえっていたからだ。
「あの、チアキ先輩は、松丸千秋選手は大丈夫なんですか?」
「君たちは?」
「チアキ先輩の後輩です」
「申し訳ないが、今、中には入れない」
スーツを着た関係者の1人が、渋い顔をして、首を横に振る。
「中では何が?」
「リングドクターとスタッフが検査をしている。詳しいことは、私たちでもわからない」
「何でこんなことに……」
突然、西野がヒステリックに声を上げ、その場にへたり込んでしまった。すぐに、みゆきが駆け寄って、西野の背中にさすっている。
「彼女は?」
「チアキ先輩、いや、松丸選手の彼女です」
「そうか……」
関係者の顔が、さらに渋く、苦々しげに歪んだ。
「彼女は、ここにいない方が良いかもしれない。別室を用意させるので、そこに移動してもらえないだろうか?」
確かに、そうかもしれない。西野にとっては、ショックの連続で、精神的にも、相当、参ってるはずだ。別室で、少し休ませた方がいい。
「わかりました。どこに行けばいいですか?」
「ちょっと待っててくれ。おい、君」
別の関係者に説明をしてくれたようで、何やら2人で相談している。相談はすぐにまとまり、1人の男性スタッフがやって来た。
「では、こちらに」
俺は西野とみゆきに簡潔に説明した。両脇から、西野を抱えるように立たせて、スタッフの後について行った。
通路を進むと、名札がかかっていない部屋が出てきた。その中の一室の鍵を、男性スタッフが手早く開ける。ドアを押し開いて、俺たちに声をかけた。
「こちらで、お待ちください」
「ありがとうございます。あの、俺だけは戻ってもいいですか?」
西野も心配だけど、みゆきがいれば大丈夫だ。俺は少しでもチアキ先輩の側にいたいと思う。
男性スタッフは、少し思案したあと、許可してくれた。ドアの前までという条件付きだった。
再び、チアキ先輩の控え室の前に戻ると、「さいたま市消防局」の文字が入ったヘルメットをかぶって人がストレッチャーを押して走って来た。
救急車が呼ばれたのだ。控え室の中のリングドクターでは、事足りないということなんだ。
足元から、不吉な予感がじわじわと這い上がってくるのを感じた。




