救急搬送
知り合いが救急車で運ばれるのを見るのは、はじめての経験だ。
ストレッチャーに乗せられたチアキ先輩は、首をガッチリ固められ、体をバンドで固定されていた。意識は戻っていないようで、傍らの救急隊員さんの呼びかけには答えていない。
つくづく、西野をこの場に残していなくて良かったと思う。こんな光景を目にしたら、彼女はきっと半狂乱になってしまうだろう。
チアキ先輩の側に行かなければと思った。後輩なんだから、当然、救急車に一緒に乗って行けると思っていた。
しかし、関係者の男性が同行すると言うのだ。
「何でですか?俺はチアキ先輩の後輩なんです。側にいなきゃいけないんです」
自分では、冷静なつもりだった。ただ、叫んだ言葉は思いのほか大きく、数人の関係者に取り囲まれてしまった。そのうちの1人は、背後から俺を押さえつけている。
「落ち着いてください。後で、こちらで責任を持って、病院までお連れしますから」
先ほどの男性関係者が言った。この人は、かなり地位の高い人なのかもしれない。
「後でって、いつですか?」
「まだ搬送先が決まっていないので、それがわかり次第、お連れの女性も一緒にお連れします」
そうしているうちに、救急車はサイレンを鳴らして、走り去って行った。サイレンの音が遠くなるにつれ、体から力が抜けていく。
「先ほどの控え室でお待ちください」
もう答える気力もなかった。俺は関係者の人に連れられて、控え室に戻った。
部屋に戻ると、西野は顔を手で覆ったままで座っていた。どうやら、泣いているようだ。
みゆきは、隣に座って、背中をさすっている。
「チアキ先輩、救急車で運ばれて行ったよ」
俺の言葉に、西野がビクッと反応した。しかし、顔を上げようとはしない。
「後で、スタッフの人が病院まで連れて行ってくれるって。それまで、ここで待ってろって言われた」
今度は、もう反応はなかった。みゆきは、目で了解の合図を送ってくれた。
俺は2人から離れたところにある長椅子に腰を下ろした。
どれだけの選手が、この椅子から、あの戦いの場に旅立って行ったのだろう。どれだけの選手が、この椅子で勝利を祝ったのだろう。そして、どれだけの選手が、この椅子に血を染み込ませたのだろう。
控え室の中は、白一面で塗り固められている。しかし、一皮剥けば、剣闘士たちの流した血で赤く染まっているのではないだろうか。
沈黙が流れた。壁にかけられた時計の音だけが、やたらと大きく響いている。この部屋に、3人もの人間がいるとは思えないほどの静かさだった。
時間が経つのが遅い。息をするのさえ、重苦しく感じる。
どのくらい時間が経ったのだろう。不意にドアがノックされた。
「失礼します。大変、お待たせしました。病院までご案内させていただきます」
男性スタッフが部屋の中に入って来て言った。まるで、この部屋の雰囲気を察していたかのように、落ち着いた所作だった。
もしかしたら、格闘技イベントのスタッフをしていたら、今回みたいなことは、想定の範囲内なのかもしれない。
「西野、病院に行くって。どうする?」
西野に声をかけた。すると、西野は力なく顔を上げて、ゆっくりと立ち上がった。すかさず、みゆきが支える。
いつも、クールな西野が、こんなに憔悴している姿を見るのは、はじめてだった。
スタッフの男性が、俺たちを先導する。
立ち入り禁止の看板のところに来た時、金髪スカジャンさんたちが警備員に止められいるところだった。
「あ、修さん。総長は、総長は大丈夫なんですか?」
「わかりません。チアキ先輩は、救急車で運ばれました。これから、俺たちは病院に行きます」
手短かに状況を説明した。
「あの野郎」
「ぶっ殺してやる」
「敵討ちだ、生かして帰すんじゃねぇ」
物騒な声が、次々とあがる。
「そんなことをしても、チアキ先輩は、喜びませんよ。絶対、無茶はしないでください」
「てめぇら、修さんの言う通りだ。総長の顔に泥塗るんじゃねぇぞ」
金髪スカジャンさんが、一喝すると、みんなおとなしくなった。
「修さん、よろしくお願いします」
「病院のことは、スタッフに聞いてください。あまり大勢で来るのはダメだ思います」
「わかりました」
みんなと別れたあと、スタッフ専用の通路を抜け、駐車場に出た。そこに待機していたタクシーに乗せられて、病院へと向かった。
タクシーの車窓から見る、さいたま市の景色は、夕方とは違って、灰色にくすんで見えた。




