第6話 涙もろい恋人たち
「どうして勝手に話しちゃったのよ!」
女性の声が、喫茶店に響いた。
「だから、俺は聞いてないって言ってるだろ!」
「嘘よ!ちゃんと伝えたじゃない!」
「そんなこと言われたって、覚えてないものは覚えてないんだ!」
向かい合う二人の間には、険悪な空気が流れていた。
女性は今にも泣き出しそうな顔で、男性を睨みつけている。
対する男性も、困惑したように眉を寄せていた。
「もういい!あなたとは話にならない!」
「待てよ!」
女性は椅子を引くと、勢いよく立ち上がった。
男性が引き止める声にも振り返らず、彼女は喫茶店を出ていく。
残された男性は、しばらくその場に座ったままだった。
やがて、深く息を吐く。
「……どうすればよかったんだよ」
その呟きに答える者は、誰もいなかった。
◇
「ミエラ!一生のお願い!」
午後の診療が終わり、もう誰も訪ねてこないはずの診療所の扉が、勢いよく開いた。
聞き慣れた声に、机の上で書類を整理していたミエラは顔を上げる。
「……リゼ。また?」
「また、とは何よ!」
そう言いながらリゼットは、ずかずかと診療所に入ってきた。
スコルの妹であり、ミエラの親友でもある彼女は、昔から何かとミエラを頼ってくる。
そして、こういうときの決まり文句は、いつだって同じだった。
「一生のお願い!」
「その一生のお願い、何回目?」
「細かいことを気にしてる場合じゃないのよ!」
リゼットは悪びれもせずに言い切った。
ミエラは小さく息を吐く。
「それで、今日はどうしたの?」
「知り合いの子なんだけど……ちょっと、困ったことになってて」
先ほどまでの勢いが、ほんの少しだけ弱まった。
リゼットは診療所の入り口を振り返り、人がいないことを確認する。
話を聞くと、どうやら恋人同士の喧嘩らしい。
リゼットの友人である女性が、仕事の都合で近々、隣国へ移ることになった。
そのことを恋人に打ち明けた彼女は、周囲にはまだ秘密にしておいてほしいと頼んだという。
ところが、後日。
彼女の恋人は、友人たちを集めて送別会を開くことになったと報告した。
当然、彼女は激怒した。
秘密にしてほしいと伝えたはずなのに、どうして勝手に話してしまったのか。
しかも、送別会まで開くことになってしまった。
対する恋人は、そんな話は聞いていないと言い張った。
言った、言わない。
聞いた、聞いていない。
話し合いは平行線をたどり、ついには顔を合わせることさえ難しくなってしまったらしい。
「遠く離れちゃうのに、喧嘩別れにしたくないでしょ?」
「それで、二人の記憶を鑑定してほしいってこと?」
「そう!お願いできない?」
リゼットは両手を合わせた。
ミエラは少し考えてから、頷いた。
「わかった。本人たちがちゃんと納得しているなら、鑑定する」
「ありがとう、ミエラ!」
リゼットの顔がぱっと明るくなる。
その表情を見て、ミエラは苦笑した。
まったく。
この親友には、昔から敵わない。
◇
しばらくして、診療所の待合室には二人の男女が並んで座った。
女性は腕を組み、隣の恋人とは目も合わせようとしない。
男性のほうも、気まずそうに視線を落としていた。
そんな二人を囲むように、ミエラとリゼットが座る。
「それでは、お二人の記憶を拝見させていただきます。彼女が隣国へ行くことを打ち明けたときのことを、思い出していてください」
ミエラの説明に、二人は揃って頷いた。
まずは女性から鑑定することになった。
男性には待合室で待っていてもらい、ミエラは女性を鑑定室へと案内した。
リゼットも、鑑定中の様子を見守るために鑑定室へと入った。
ミエラは、目の前に座る女性の目を見つめた。
「――メモリア」
ミエラの意識が、女性の記憶の中へと沈んでいく。
***
目の前に広がったのは、喫茶店の店内だった。
向かいには、恋人の男性が座っている。
窓から差し込む柔らかな光。
けれど、その景色には薄く白いモヤがかかっていた。
「――クリア」
ミエラは、視界を鮮明にすると周囲を確認した。
すると、女性は少し言いにくそうに、口を開いた。
『実はね……仕事の都合で、隣国に行くことになったの』
男性の表情が変わる。
『隣国?』
『うん。まだ、あまり人には言っていないんだけど……』
女性はテーブルの上で指を組んだ。
『すごく悩んだよ。でも、このチャンスを逃したくないって思ったの。それに、あなたならきっと私を待っていてくれるって、信じてるから。そうでしょ? 私たち、こんなことでダメになるような関係じゃないって思うの』
女性は一息つくと、あらためて男性を見て続けた。
『それでね、このことは、まだ誰にも言わないでおいてほしいの。あなたにしか言ってないから』
しかし、男性から返事はなかった。
不思議に思った女性は、少し身を乗り出して、男性の様子をうかがった。
『……ねえ、聞いてる?』
『……わかった』
男性は俯いたまま、小さく頷いた。
俯いた男性の表情はうかがえない。
けれど、固く結ばれた唇からは、何かをこらえているようにも見えた。
女性は心配そうに、もう一度声をかけた。
『ねえ、大丈夫?聞いてる?』
その声に、男性がはっと顔を上げた。
『……ああ、聞いてる』
しかし、二人の視線が合うことはなかった。
『わかったから。あとは俺に任せて』
そう言うと、男性は話を切り上げるように席を立った。
『えっ!ちょっと……』
女性が呼び止める。
けれど、男性は聞こえていないのか、そのまま店を出ていってしまった。
記憶の中の視界は、しばらく空席を映していた。
やがて、テーブルの上に置かれたコーヒーへと移る。
ミエラは静かに目を閉じた。
彼女は確かに、恋人に『他の人には言わないで』と伝えていた。
「――レディトゥス」
ミエラは静かに唱え、意識を現実へと戻した。
◇
続いて、男性の記憶を鑑定する。
ミエラは男性を鑑定室へ案内し、目の前に座った。
「それでは、彼女に隣国へ行くことを告げられたときのことを思い出してください」
男性が頷くのを確認すると、ミエラはその目を見つめた。
「――メモリア」
ミエラの意識が、男性の記憶の中へと沈んでいく。
***
目の前に広がったのは、先ほどと同じ喫茶店の店内だった。
けれど、その景色にも薄く白いモヤがかかっている。
「――クリア」
ミエラは視界を鮮明にした。
向かいには、恋人の女性が座っている。
『実はね……仕事の都合で、隣国に行くことになったの』
女性が隣国へ移ることを告げた瞬間、男性の視界が大きく揺れた。
女性の声が遠くなる。
テーブルも、店内も、目の前の彼女の顔も、灰色のモヤに覆われていく。
ミエラは、その光景を見つめた。
――灰色のモヤ。
強い感情に心や脳が支配され、記憶が曖昧になっている状態。
男性は、何も聞いていなかったわけではない。
突然の知らせに、頭の中がいっぱいになってしまったのだろう。
彼女が遠くへ行ってしまう。
これからは、今までのように会えなくなる。
その事実が、男性の心を占めていた。
『ねえ、大丈夫?聞いてる?』
女性の声が響いた。
その瞬間、男性は、はっと顔を上げると我に返った。
灰色のモヤが薄くなり、目の前の光景が鮮明になっていく。
『……ああ、聞いてる』
男性の口から、言葉がこぼれ落ちた。
目の前の彼女は、少し怒ったような顔で自分を見ていた。
『わかったから。あとは俺に任せて』
男性は慌てて視線を逸らすと、席を立った。
背後から女性の声が聞こえてくる。
けれど、男性は振り返らなかった。
ミエラは、そっと息を吐く。
彼は、彼女の話を聞いていなかったわけではない。
ただ、彼女が遠くへ行ってしまうという事実に、心を奪われていたのだ。
そして彼女は、そんな彼の心の内を知らなかった。
「――レディトゥス」
ミエラは現実へと意識を戻した。
◇
ミエラが鑑定室を出ると、待合室では女性が静かに座っていた。
ミエラは男性に声をかけ、女性の隣に座るよう促した。
ミエラとリゼットも腰をおろし、四人が席に着くと、女性が不安そうに口を開いた。
「……どうでした?」
ミエラは、目の前に座る恋人たちを交互に見た。
「まず、彼女は『誰にも言わないでほしい』と、彼に伝えていました」
「やっぱり!」
「そんな!僕は聞いていない!」
二人は同時に身を乗り出し、今にも互いに言い返そうとする。
「落ち着いてください」
ミエラは、そんな二人を制止するように声をかけた。
「ただ、彼の記憶では、彼女が『誰にも言わないでほしい』と話している場面が、はっきりとは残っていませんでした」
二人は、揃って眉を寄せた。
「……どういうことですか?」
女性が尋ねる。
「人の記憶は、とても繊細で、それでいて曖昧なものです。強い感情に心や脳が支配されてしまうと、目の前で起きていることさえ、はっきりと記憶に残らないことがあります」
「強い感情……?」
女性が、隣に座る男性を見た。
「彼女が隣国へ行くと打ち明けたとき、何か強い感情に心を奪われませんでしたか?」
ミエラは、男性に視線を向けた。
「……それは」
男性は俯いたまま、静かに口を開いた。
「言いたくありません」
膝の上に置かれた拳が、かすかに震えている。
「……なっ!」
女性が勢いよく立ち上がろうとする。
「ちょっと、落ち着いて!」
リゼットが慌てて、女性の腕を押さえた。
ミエラは小さく息を吐くと、俯いたままの男性を見つめた。
「無理に話していただかなくても大丈夫です。ただ、彼女が隣国へ行くと告げたとき、記憶の中のあなたはとても驚いていたようでした」
男性は、俯いたまま唇をぎゅっと噛み締めた。
「記憶の中では、灰色のモヤが視界を覆い、周囲の様子がはっきりと見えなくなっていました。彼女の声も遠くなり、話の内容を十分に受け止められなかったようです」
ミエラは、女性に視線を向けた。
「決して、話を聞く気がなかったわけではないと思います。ただ、突然の知らせに、心が追いつかなかったのかもしれません」
女性は、目を瞬かせた。
「……じゃあ、私が秘密にしてって言ったことも?」
「あなたの記憶には、そう伝えている場面が残っていました。でも、彼の記憶では、その場面がはっきりと残っていませんでした。彼は、その言葉をきちんと受け止められていなかったようです」
女性の視線は、ゆっくりと恋人へと向いた。
男性は俯いたまま、何も言わなかった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……悪かった」
その声は、小さかった。
「ちゃんと聞いてなかった。いや……聞こうとはしてたんだ。でも、お前が遠くへ行くって聞いたら、頭が真っ白になって……」
彼は、拳を強く握りしめた。
「お前がいなくなるのが、嫌だったんだ」
女性の表情が揺れる。
「……だったら、そう言ってくれればよかったのに」
「言えるわけないだろ」
男性は顔を上げた。
「お前は、自分の夢のために行くんだ。俺が寂しいなんて言って、困らせたくなかったんだよ」
男性の目に、みるみる涙が溜まっていく。
やがて、その一粒が頬を伝ってこぼれ落ちた。
男性は慌てたように袖で涙を拭う。
「な、なんで、あなたが泣くの!」
「そんなの……!」
男性は、女性の顔を見た。
そして、言葉を止めた。
彼女もまた、涙を流していたのだ。
「お前だって、泣いてるじゃないか!」
男性は思わず声を上げた。
女性は、唇を震わせた。
「だって、私だって寂しいに決まってるじゃない!」
涙が、ぽろりと頬を伝う。
「私だって、離れたくないよ!でも、夢のために行くって決めたから……だから、笑って送り出してほしかったの!」
「……!」
男性は、言葉を失った。
女性は涙を拭いながら、続ける。
「送別会なんて開かれたら、私、泣く……!」
その言葉に、男性の顔がくしゃりと歪んだ。
「……なんだよ、それ」
「だって、絶対に、泣いちゃうじゃないー!!」
女性は、とうとう両手で顔を覆った。
男性はしばらく彼女を見つめていたが、やがて大きく息を吐いた。
「……俺だって、最初っから泣いてるんだからな!」
その声は、少し震えていた。
「もういいだろ!お前も当日は、存分に泣けよ!それ以上に、俺が泣いてやるよ!」
「……っ、何よ、それ……!」
女性は泣きながら笑った。
「そんなの、馬鹿みたいじゃない!」
「いいだろ!俺はそうするって決めたんだよ!」
二人の間に、ようやく笑い声が戻った。
ミエラは、そっと視線を落とす。
相手を大切に思うからこそ、伝えられない気持ちがあって、言えない言葉がある。
けれど、言わなければ伝わらないこともあるのだ。
「……それで、送別会はどうするの?」
それまで黙って二人を見守っていたリゼットが、口を開いた。
女性は涙を拭きながら、恋人を見た。
「……やる。せっかくだから、みんなに見送ってもらいたい」
「……そうか」
男性は、少しだけ寂しそうに笑った。
「じゃあ、俺が最高の送別会を用意してやるよ」
「うん……。ありがとう」
二人は、今度こそ、しっかりと顔を見合わせた。
◇
帰り際、二人は何度もミエラとリゼットに礼を言った。
そして、手を繋いで診療所を出ていった。
扉が閉まる。
静かになった待合室で、リゼットは二人が去っていった扉を見つめていた。
「……いいな」
ぽつりと、呟く。
「泣くくらい、相手のことが好きだなんて」
リゼットは、目の前をぼんやりと見つめながらため息をついた。
「……うらやましい」
ミエラは、親友の横顔を見つめた。
その声は、いつもの明るいリゼのものとは、少し違っていた。
……これは、もしや。
ミエラが口を開くより先に、リゼットが言った。
「あたし……別れたの」
ミエラは、小さく頷いた。
「……やっぱり」
それ以上、何も聞かなかった。
今は、理由を尋ねるよりも先に、するべきことがある。
リゼットは、くるりとミエラに向き直った。
「ミエラ。今日は飲みに行くわよ」
「……だね」
ミエラは、こくりと頷いた。




