第1話 水斗 大学3年生 7月
「ごめん。俺には、もう……一緒にいる資格がない……です」
彼女が住む二階建てのアパートの前で俺は言葉を絞り出した。
「どういう……意味?」
目を見開き、戸惑いに揺れる彼女の瞳を無視して、俺は何も説明しないまま、俯き、握り締めていた彼女の部屋の合鍵をその手に押しつけた。
「水斗君?」
戸惑いの色が増した彼女の声は俺の決意を鈍らせる。
そんな彼女の声に抵抗するように、頭を下げたまま、胸の奥にしまい込んでいた本心を吐き出した。
「ごめんなさい……俺は……嘘つきだ」
立ち去ろうとして顔を上げる。涙で滲んだ視界にぎょっとしたように目を丸くしながら、立ち尽くす彼女の顔が映った。
そんな彼女の表情は初めて見る表情で、間違いなく俺だけに向けられた表情だった。いつまでも独占したかった彼女の表情。案の定、再び決意が揺らぐ。
でもその瞬間、昼間のあの光景がフラッシュバックした。
──そうだ。彼女は俺だけにこの特別な表情を向けているんじゃなかった。
その現実に改めて気づかされると、胸の奥底から嫉妬や怒りを含んだ黒いヘドロのような悍ましい感情がどろりと込み上がってきた。そんな感情に溺れた自分を想像して、怖くてたまらなくなり、踵を返し、彼女から走って逃げた。
どれほど走ったかわからないくらいで息が切れ、つい足を止めてしまう。
息をきらしながらを顔を上げると前方から見覚えのある大学生の男女が二人きりで歩いてきた。
男子大学生は緊張で頬を赤らめながら口を開いた。
── 俺と付き合ってほしい……です
その言葉に隣の女子大学生は綺麗な切れ長の瞳をぱちりと瞬かせ、肩の上で切り揃えられた髪をさらりと揺らしながら歩く。そんな彼女は歩行速度を緩めず前を向きながら言った。
── 私、好きな人がいるんだけど
そうだった。彼女は最初から俺だけを見てはいなかった。
── 塩義さんに好きな人がいても、俺はかまわないよ。それに、付き合ってもらえるなら……そうしてくれるだけで、すごく嬉しい。
── 俺はただ、塩義さんを誰よりも近くで見ていたいだけ。その権利がほしいだけ
ますます今の自分が愚かに思えた。
本気で好きになってもらえなくてもいい。ただ少しでも近くで、できるだけ長く彼女を見ていたい。その権利が欲しかった。ただ、それだけしか主張しなかったくせに、俺は彼女を独り占めしたくなってしまって、勝手に失望して、勝手に傷ついて、そして嘘をついた。
「ごめん。ごめんなさい……愛衣ちゃん」
自業自得なのに、涙が止まらないくらいに苦しくて仕方がない。今から引き返すか。いや、そんな資格はない。
じゃあ…もし、もし彼女が追いかけてきてくれていたら?
その時は謝ろう。
土下座でも何でもする。醜態を晒してでも、もう少しだけいいから側にいさせてほしいと頼もう。
──例え、彼女が俺以外の男性を愛していてもいいから。
そんな未練がましい期待を抱きながら振り返る。けれどそこに彼女の姿はなかった。
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