第一話 第十二皇子(前編)
「お生まれになりました!」
夜明け前の皇城に、赤子の産声が響いた。
「第十二皇子にございます!」
張り詰めていた空気が緩み、侍女たちの顔に安堵が広がる。
「母子ともにご無事です。」
「それは何より。」
誰もがほっと胸をなで下ろし、慌ただしかった廊下にも穏やかな空気が戻っていく。
年配の家臣が感慨深げにつぶやいた。
「また帝国の未来が一人、生まれましたな。」
隣の家臣も静かにうなずく。
「ええ。」
「この子もまた、多くを背負って生きるのでしょう。」
その言葉を聞いた若い侍女は、生まれたばかりの皇子の姿を思い浮かべ、ほんの少し表情を曇らせた。
誰もが、この皇子の未来に思いを馳せていた。
この国では代々、多くの皇子をもうけ、その中で最も優れた者が皇帝となる。皇后の子か側室の子かは関係なく、すべての皇子に皇位を継ぐ資格があった。
その静寂を破るように――
「どけどけどけーい!」
廊下中に響く大声が、その穏やかな空気を一瞬で吹き飛ばした。
「だ、大帝陛下!」
「お待ちください!」
「産室です! どうかお静かに!」
「孫が生まれたんじゃぞ! 静かになどしておれるか!」
雪のような白髪を揺らし、一人の男が家臣たちをかき分けながら歩いてくる。
先代皇帝。
大陸を統一し、帝国を築いた英雄。
大帝ヴァルディス・アイゼンベルク。
勢いよく扉が開いた。
◇
産室の中は、外の喧騒とは対照的に穏やかな空気に包まれていた。
皇后エレノアは、金褐色の髪を枕へ流し、疲れの残る顔に柔らかな笑みを浮かべながら、生まれたばかりの赤子を抱いていた。
新緑を思わせる瞳は、我が子を愛おしそうに見つめている。
その傍らには、現皇帝ジークハルト・アイゼンベルクが立っていた。
戦場から帰ったばかりなのだろう。
鎧には、まだ乾いた土が残っている。
蒼銀の髪を揺らしたジークハルトは、何も言わずエレノアの腕の中を見つめていた。
澄んだ青い瞳には安堵が浮かぶ。
だが、その奥では、皇子として歩む長い道を静かに見据えていた。
「陛下。」
侍女が遠慮がちに声をかける。
「皇子様のお名前は――」
ジークハルトは短く答えた。
「決めてある。」
「皇子として生きるにふさわしい名だ。」
その時だった。
「おお!」
赤子を見つけた瞬間、ヴァルディスの顔が大きくほころんだ。
「おった! わしの孫じゃ!」
「父上。」
ジークハルトが低い声でたしなめる。
「声が大きすぎます。」
「何を言う。元気な声で迎えてやらねばならんじゃろう。」
「生まれたばかりです。」
「だからこそじゃ。」
「生まれた日くらい、賑やかなほうがよい!」
その場にいた誰も意味は分からなかった。
ヴァルディスは寝台のそばまで歩み寄り、先ほどまでの勢いが嘘のように表情を和らげた。
「よく頑張ったのう、エレノア。」
「ありがとうございます。」
「大変じゃったのう。」
エレノアは小さく笑った。
「ええ。」
「この子が元気で、本当によかった。」
「そうか、そうか。」
ヴァルディスは満足そうに何度もうなずく。
そして、エレノアの腕の中をのぞき込んだ。
「抱いてもよいか?」
「もちろんです。」
ヴァルディスは両腕を差し出した。
節くれ立った大きな手。
その手は、大剣を振るい、多くの戦場を駆け抜けてきた。
幾つもの古傷が、その歩んできた壮絶な人生を静かに物語っていた。
そんな手が今は、壊れ物に触れるように赤子を受け取った。
大きな腕の中に、小さな体がすっぽりと収まる。
「おお……。」
ヴァルディスは目を細めた。
「小さいのう。」
赤子の手が動く。
小さな指が、ヴァルディスの太い指を握った。
……。
一瞬だけ、時が止まった。
ヴァルディスの目が大きく開く。
「ジーク!」
「何です。」
「見てみい!」
「見ています。」
「わしの指を握ったぞ!」
「ええ。」
「力強いのう!」
「赤子です。」
「離さんぞ。」
「反射でしょう。」
「夢のない男じゃのう、お前は。」
ヴァルディスは不満そうに言ったが、すぐに赤子へ視線を戻した。
「かわいいのう。」
頬を緩ませ、何度も顔をのぞき込んだ。
「目はエレノアに似ておるか?」
「まだ開いておりません。」
「鼻はジークかのう。」
「分かるはずがありません。」
「では、わし似じゃな。」
「困ります。」
「何じゃと?」
エレノアが思わず笑うと、ヴァルディスもつられて笑った。
その時、開いたままの扉から小さな足音が聞こえた。
「お母様……。」
蜂蜜色の髪を揺らした八歳のフェリシアが、おそるおそる顔をのぞかせる。
その後ろには、漆黒の髪を整えた十歳のレオヴェインが、背筋を伸ばして立っていた。
「母上のお体に障る。騒ぐなよ。」
レオヴェインが小声で言う。
「うん。」
フェリシアは素直にうなずき、寝台へ歩み寄った。
「入ってもいいですか?」
エレノアは優しく微笑む。
「ええ。二人とも、おいで。」
フェリシアは赤子を見るなり、目を輝かせた。
「……かわいい。」
青い瞳が嬉しそうに細められ、その優しい笑みは自然と周囲を和ませた。
ヴァルディスは少しかがみ、赤子が見えやすいように腕を下ろす。
「ほれ、よく見てみい。」
フェリシアは小さく動く手を見つめ、自然と笑みがこぼれた。
「幸せになってほしいです。」
エレノアは娘を見て優しく微笑む。
ヴァルディスも満足そうにうなずいた。
「そうじゃな。」
「幸せになってもらわねば困る。」
ジークハルトは赤子を見つめたまま、静かに口を開く。
「……この子には、守る力が必要です。」
ヴァルディスはゆっくりと息子へ目を向けた。
「強くなることも大事じゃ。」
「じゃが、まずは幸せに育ってくれれば、それでよい。」
少し離れた場所では、レオヴェインが静かに弟を見つめていた。
「レオ。」
ヴァルディスが呼ぶ。
「お前も来い。」
レオヴェインはゆっくり歩み寄り、赤子を見つめた。
しばらく黙っていた。
そして静かに言った。
「……私が守ります。」
ヴァルディスは目を丸くした。
次の瞬間、大きく笑う。
「わっはっは!」
「そうか!」
「はい。」
レオヴェインは力強くうなずく。
ジークハルトは長男へ静かに視線を向けた。
「守るというなら、強くなれ。」
「力なき者は、誰一人守れん。」
「はい、父上。」
レオヴェインは迷いなくうなずいた。
ヴァルディスはそんな父子を見つめ、穏やかに目を細めた。
「父上。」
「そろそろ名付けてもよろしいですか。」
「おお、そうじゃった。」
ヴァルディスは赤子を見つめたままうなずく。
「この子は、わしが名付ける。」
部屋の空気が止まった。
ジークハルトの眉が、わずかに動く。
「父上。」
「名はすでに決めてあります。」
「そうか。」
「はい。」
「では、それは次の子につけよ。」
「次の子?」
「この子はわしが名付けるからのう。」
ジークハルトは静かに息を吐いた。
「……父上。」
「次の子ではなく、この子です。」
「私が。」
「嫌じゃ。」
ヴァルディスはきっぱりと言った。
「父上。」
「嫌なものは嫌じゃ。」
「駄目です。理由になりません。」
「わしにとっては立派な理由じゃ。」
「わしが名付ける。」
ヴァルディスは赤子を抱いたまま、そっぽを向いた。
その場にいた家臣たちは、そっと視線を伏せる。
また始まった。
誰も口にはしなかったが、全員がそう思っていた。
ジークハルトは父を見つめる。
「申し訳ありません。」
「お断りします。」
「……そうか。」
ヴァルディスは小さく答えた。
部屋にいた者たちは、これで終わったと思った。
しかし。
少しの沈黙のあと。
「いや、やっぱり嫌じゃ。」
「父上。」
「この子だけは譲れん。」
「私もです。」
「ジーク。」
「駄目です。」
「まだ何も言っておらんぞ。」
「名付けさせろ、とおっしゃるのでしょう。」
「なぜ分かった。」
「分かります。」
「ならば、わしがどれほど名付けたいかも分かるじゃろう。」
「分かったうえで断っています。」
「少しくらい迷え!」
「迷いました。」
「早すぎるわ!」
ヴァルディスは頬を膨らませた。
かつて大陸を制した男とは思えない顔だった。
家臣の一人が必死に俯いている。
笑ってはいけない。
そう自分に言い聞かせているのだろう。
「ジーク。」
「駄目です。」
「頼む。」
「駄目です。」
「一生に一度のお願いじゃ。」
「以前も聞きました。」
「あれは一生に一度ではなかった。」
「今回も同じでしょう。」
「今回は本当じゃ!」
ジークハルトは首を横に振った。
ヴァルディスは腕の中の赤子を見た。
小さな寝息が聞こえる。
少しだけ笑った。
それからジークを見る。
「……どうしても駄目か?」
「駄目です。」
「本当に?」
「本当にです。」
「……この子だけは、どうしても譲れんのじゃ。」
ヴァルディスはしばらく唸っていた。
やがて、腕の中の赤子をそっと侍女へ預ける。
名残惜しそうに小さな手を離し、ジークハルトの前まで歩いていった。
誰もが、次は何を始めるのかと見守った。
ヴァルディスは一度だけ赤子へ振り返る。
そして。
静かに両膝を床についた。
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