第四十八話:横浜異人館の怪奇符牒 〜 The Sign of the Zulfar 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九四年、春の午後のことである。
ベイカー街二百二十一番地Bの居間で、ホームズは珍しく上機嫌だった。テーブルの上には、アジアの各地から取り寄せた地図と文献が広げられ、彼はその中央に座って、細長いパイプをくゆらせながら何事かを考えていた。
「ワトソン」とホームズは言った。「『ズルファル』という言葉を知っているか」
「知らんが、アラビア語か何かかね」
「そうだ。もともとはアラビア語で、特定の薔薇の品種を指す語だったが、幕末の日本では、外国人を呼ぶ合言葉のように使われていたらしい」ホームズは地図を指でたどった。「日本の横浜の開港当時——一八五〇年代から六〇年代にかけて——外国人居留地と呼ばれる区域が設けられて、英国人をはじめとする西洋人が生活した。彼らを江戸の人々は『異人』と呼び、その居留地周辺では様々なトラブルが起きた」
「なぜそんな話を」
「先日、横浜に住む日本人の商人からロンドンの知人宛に手紙が届いたのだが、その中に『ズルファルの怪談』という言葉が出てきてね。日本語の"怪談"とは、怪奇な出来事の話という意味だ」
「つまり、異人絡みの怪奇事件か」
「そうだ」ホームズは目を細めた。「聞くところによると、幕末の頃、横浜の近くで英国系の商人と日本の武士の間で刃傷沙汰——刃物による争い——があり、その後に奇妙な呼び声が聞こえるという噂が広まったという。呼び声の主は異人か、それとも……」
その夜、ホームズは珍しく熱心に日本語の辞書を引いていた。
私はそれを横目で見ながら、こんな夜に何かが起きそうな予感がすると思った。
直後、ベイカー街にある薬品保管庫の奥で、ホームズが長年蒐集してきた異国産の揮発性薬品が、春の急な気温上昇により連鎖反応を起こした。窓が吹き飛び、私たちは衝撃で宙を舞い——気づけば、どこか別の場所にいた。
春の匂いがした。しかし潮の匂いが混じっていた。
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【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
潮の匂い、というのは江戸の下町に漂う特有の香りである。
私が目を覚ましたのは、横浜——江戸から東海道を南へ向かった先にある港町——の近く、神奈川の宿場の外れであった。捕霧七はすでに起きており、蒸し暑い初夏の空気の中で、煙管に火をつけていた。
「また転生した」と私は言った。
「そうだ」と捕霧七は答えた。「今回は場所が少し違う。江戸の中心部ではなく、横浜に近い」
横浜について、少し説明が必要だろう。
安政五年(一八五八年)に日米修好通商条約が結ばれて以来、横浜は日本を代表する開港地となった。外国人が生活を許される居留地が設けられ、英国・米国・仏国・蘭国などの商人や外交官が、独自の街を作って住んでいた。ロンドンで言えば、大英帝国が各地の植民地に作った商業区画に似ているが、日本の場合は幕府の許可のもと、あくまで「外国人が立ち入ってよい区域」として区切られていた。
江戸の人々はこの外国人たちを「異人」または「毛唐」と呼んだ。攘夷——外国人を排除しようという思想——の気運が強い時代であり、居留地の近くでは、異人と武士の間で刃傷沙汰が幾度か起きていた。
私と捕霧七がこの地に転生したのは、ちょうどそのような事件の直後であった。
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事の発端を私に話してくれたのは、捕霧七の知人の同心——奉行所の下級役人——、岩田という男であった。
「写楽さん、ちょうどよいところへ来なさった。難しい一件が起きておりましてね」
岩田の話によれば、事件は次の通りであった。
——三日前の夜、横浜の居留地に近い、山下町の外れの路地で、一人の武士が倒れているのを発見された。名を内藤武之進、藩の指定のない浪人——主君を持たない武士——で、三十がらみの壮健な男であった。浪人とは、ロンドンで言えば職のない退役将校とでも言うべき存在で、江戸の町には様々な浪人が流れ込んでいた。
内藤の死因は刀傷であった。しかも傷の向きと角度から判断して、刀ではなく、西洋剣——サーベルか長剣——によるものではないかと検視の医者が言っていた。
「つまり、異人に斬られたかもしれない、ということか」と、私は言った。
「そう見えなくもない。ところが……」岩田は少し声を低めた。「内藤の倒れていた場所の近くで、不思議な声が聞こえると、近所の者たちが騒いでいるのです」
「声、というのは」
「夜中に、路地の奥から『≺≺≺、待て、待て』と呼ぶ声が聞こえる、というのです。しかも日本語でも中国語でもない、おかしな言葉で最初に何か言ってから、続いて日本語で呼ぶと……まるで地の底から這い出てくるような、妙な形の呼び声だと、町の者たちは言っておりまして」
捕霧七は煙管をくるくると指で回した。
「その声を直接聞いた者は何人いる」
「三人……それぞれ別々の夜に、一人ずつ聞いています。すぐに怖くなって逃げ出してしまうので、声の出所まで確かめた者はおりません」
「声が出る方角は常に同じか」
「同じです。路地の奥の、古い木の柵のあたりだというのですが——その柵の先は、もとは南京菓子を売る店の倉庫だったのが、今は空き家になっておりまして」
捕霧七の目が、静かに光った。
「三太、行ってみよう」
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私たちが山下町へ向かったのは、夕方のことであった。
横浜は江戸の町とは明らかに雰囲気が異なっていた。居留地に近いこともあり、石造りの洋館と木造の和風建築が混在し、道路の幅も江戸より広い。西洋人の男女が馬車に乗って通り過ぎ、桟橋の方からは港の汽船の汽笛が遠く聞こえてくる。私はロンドンの面影をわずかに感じて、なんとも言えない気持ちになった。
「捕霧七さん、ここは少しロンドンに似ているな」と私は言った。
「似ているようで全く違う」と彼は答えた。「ロンドンは帝国の中心から外に向かって力が広がっている。ここは外から力が押し寄せてきて、土地が揺れている。その違いが、人々の目の色に出ている」
なるほど、と私は思った。横浜の町の人々の目には、江戸の人々のそれとは違う、緊張と好奇心とが混じり合ったような複雑な光があった。
内藤武之進が倒れていたという路地は、居留地の境界線に近い裏通りにあった。薄暗い木塀が続き、軒が低く、石畳が途中で途切れて土道になる。江戸の路地とも、西洋の街路とも違う、どちらにも属さない不思議な空間だった。
捕霧七は現場を仔細に観察した。
倒れていた場所とされる地面の血の痕を確認し、周囲の板塀の傷を指でなぞり、近くの水路を覗き込み、やがて岩田が言っていた「古い木の柵」の前に立った。
柵の向こうは確かに廃屋の倉庫であった。戸口の木は腐りかけており、蝶番が錆びて半ば開いたままになっている。
「倉庫の中を見てもよいか」と捕霧七は岩田に確認した。
「いえ、どうぞ」
捕霧七は倉庫の中に入った。薄暗い内部には、かつて菓子を入れていたらしい木箱の残骸が散らばっており、壁には古いカレンダーの紙切れが一枚貼られたままだった。
彼は床を踏み確かめ、壁の隅を調べ、高窓から差し込む光の角度を確認した後、あるものの前で立ち止まった。
倉庫の奥の棚に、一本の大きな枝の木が立てかけてあった。その枝には細工が施されており、風が吹くと揺れて、何かが触れるような仕組みになっているようだった。
「三太、これを見てくれ」と彼は言った。
私が近づくと、枝の先端に紐が結ばれており、その紐の先に、管のような竹の筒が吊り下げられていた。筒には小さな穴が開いており、風が当たると、中で空気が振動して、奇妙な音を発する仕組みになっていた。
「これが……声の正体か」と私は言った。
「音の一部だ」と捕霧七は答えた。「しかし声には言葉があったと証言者たちは言っている。この竹の筒だけでは言葉にならない」
彼はさらに奥を調べた。
倉庫の一番奥の壁の裏に、ぽっかりと穴が開いていた。人一人が通れるほどの大きさで、その先は隣の敷地、つまり今も使われている南京ふうの商家の倉庫に繋がっているようだった。
「誰かがここに隠れており、穴の向こうから声を出している。そして竹の筒が風で鳴る音と合わさって、地の底から聞こえてくるような不思議な響きになる——」
捕霧七は低く言った。
「三太、隣の商家を調べる必要がある」
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隣の商家の主人は、陳という名の清国——中国——出身の商人であった。
清国人が横浜に住んでいることは珍しくなかった。居留地には英米人だけでなく、清国人も多く住んでおり、日中の貿易を仲介する商人として横浜に定着していた者も少なくない。陳は五十がらみの、白い長衫——清国風の上着——を着た、温和そうな男であった。
捕霧七は陳に、倉庫を見せてほしいと頼んだ。
陳は少し躊躇したが、十手を示すと観念したように案内した。
倉庫の奥には、確かに穴があった。ただし、陳の倉庫側から見ると、穴は棚の陰に隠されており、注意しなければ気づかない。
「この穴は誰が作ったか」と捕霧七は訊いた。
「……わたしは、知らなかった」と陳は答えた。
捕霧七はその答えを聞いて、少し考えるような間を置いた。
「知らなかった、というのは本当か。倉庫を普段から使っていれば、気づくはずではないか」
陳は沈黙した。
捕霧七は陳の顔をしばらく観察した後、ゆっくり言った。
「あなたの倉庫の壁の傍らに、人が長時間座っていた痕跡がある。埃の積もり方が違う。そして、棚の裏の穴の周囲には、新しい木屑が散っている——最近、穴が広げられた跡だ。あなたが知らなかったとすれば、誰かがこっそりここに出入りしていたことになる」
「……」
「その人物の名を知っているか」と、捕霧七は静かに言った。
陳は長い沈黙の後、低い声で答えた。
「……息子です」
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陳の息子、陳福は二十五歳の若者で、父とは違って日本語と英語を流暢に話した。捕霧七が声をかけると、彼はほどなく姿を現した。
捕霧七が話を聞くと、事件の全貌が見えてきた。
——陳福は横浜の居留地で、英国商人の店に雇われていた。仕事は輸入品の記帳と通訳である。その英国商人——名をロバートと言った——の下に、最近、江戸から一人の浪人が押しかけてきた。その浪人が内藤武之進であった。
内藤は三年前に、ロバートの前身にあたる別の英国商人との間で商取引をめぐる揉め事があり、その際に大金を騙し取られたと思い込んで恨みを募らせていた。実際には、内藤が誤解していた部分が大きかったのだが、内藤は「異人め、恨みを晴らしてくれる」と息巻いて、居留地の近くをうろついていた。
陳福はその両者の間に挟まれ、仲裁しようとしていた。しかし内藤の気性は激しく、ある夜、陳福が止めるのも聞かずにロバートの屋敷に押し込もうとした。ロバートの護衛として雇われていた英国人の兵士が、サーベルで応戦した。内藤は重傷を負って路地に倒れ、翌朝息が絶えた。
「ロバートの側の人間はすでに横浜を離れて、英国へ帰った。私は……この事件が表沙汰になれば、父の商売にも悪影響が出る、それに何より、内藤さんが死んだことに……私にも責任があると思って」
「それで、声の仕掛けを作ったのか」と捕霧七は訊いた。
陳福は驚いた顔をした。
「わかりましたか」
「初めから見当はついていた。廃屋の竹の筒と、あなたの倉庫からの声を組み合わせれば、路地に不思議な呼び声が響く。町の人々が怖がって近寄らなければ、事件の現場が荒らされず、証拠が保たれる——というのがあなたの目的だったのだろう」
「……その通りです」と陳福は言った。「内藤さんは確かに気性の激しい人でしたが、生来の悪人ではなかった。私が上手く立ち回れば、死なずに済んだかもしれない。せめて彼の死んだ場所を、誰にも踏み荒らされたくなかったのです」
しばらくの沈黙があった。
横浜の港から、遠く汽笛が聞こえた。
捕霧七は煙管を一服やって、静かに言った。
「あなたが仕掛けた声は『ズウフラ』という言葉から始まっていると聞いたが」
「……はい。アラビア語で薔薇という意味の言葉だと、ロバートから聞きました。なぜかわかりません。ただ、その言葉が内藤さんには合う気がして——野の薔薇のように、扱いによっては棘が出るが、それ自体は美しい……そういう人でした」
捕霧七は静かにうなずいた。
「陳福どの、あなたが証拠を守ろうとしたことは理解した。しかし、仕掛けを作って人々を恐怖させたことは、正しいやり方ではなかった。——岩田どの、今の話を奉行所に正確に伝えていただけるか。ロバートという英国商人の名前と、その護衛の者が江戸で起こした刃傷の件を。外国人の関わる事件は、奉行所ではなく、外国奉行の管轄になるはずだ」
外国奉行とは、幕末に新設された役職で、外国との交渉・紛争処理を専門に担う機関である。ロンドンで言えば外務省(Foreign Office)に相当する。
岩田はうなずいた。
陳福は深く頭を下げた。
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帰り道、私と捕霧七は横浜の海岸沿いを歩いた。
夕暮れの海は橙と朱に染まり、沖には帆船と蒸気船が並んで停泊していた。江戸の内側から見る川とはまったく異なる、開けた水の広がりだった。
「捕霧七さん」と私は言った。「この事件で一番気の毒なのは、誰だと思う」
「内藤だろう」と捕霧七は即座に言った。「彼は誤解に基づいて恨みを抱き、誤解に基づいて死んだ。しかし誤解を解こうとしてくれた人間も、確かにいた——陳福が、そうだ」
「異国の者が死んだ武士のために」
「人の善意に国籍はない」と捕霧七は言った。そして少し間を置いて付け加えた。「ただし、善意が必ずしも正しい方法をとるとは限らない。陳福が声の仕掛けを作ったことは、恐怖で人を遠ざける行為だ。それが善意から来ていても、手段を間違えれば害になる——私たちも気をつけなければならんことだ」
海風が吹いて、私の着物の裾を揺らした。
ロンドンにも港があり、テムズ河沿いに歩くと潮の匂いがする。この匂いはどこへ行っても同じだと、私は思った。
「ズウフラ、か」と私は呟いた。「薔薇という意味だったとは、知らなかった」
「薔薇は棘がある」と捕霧七は言った。「それでも人は薔薇を植える。なぜか、三太」
「美しいからだろう」
「そうだ。棘があると知りながら美しいものに近づく——人間という生き物の、どうにも変わらない習性だ」
夕暮れの海が、静かに光っていた。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
ホームズのアジア関係の書物が相変わらずテーブルに広がっていた。彼は窓の前に立ち、外を眺めていた。
「ホームズ」と私は言った。「ズウフラというのは、薔薇のことらしい」
「知っていた」とホームズは振り向かずに言った。「しかしそれが事件の鍵になる夢を見た——君もか」
「横浜の夢だった。港の匂いがした」
「ああ」ホームズはゆっくり振り返り、私を見た。「三太——いや、ワトソン。善意が間違った手段をとるとき、それを正すのが我々の仕事だ。しかしその善意を頭ごなしに否定してはならない。両方を理解して初めて、事件の真実が見える」
「江戸でも同じ結論に至ったよ」と私は言った。
「当然だ」とホームズは言った。「真実に国境はない」
窓の外に、ロンドンの春の夕暮れが広がっていた。遠くテムズ河の方から、船の汽笛が一声、長く尾を引いて聞こえてきた。
横浜の港で聞いた音と、まったく同じ響きだった。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




