第三十七話:松茸屋敷の毒の符牒 〜 The Sign of the Poisoned Matsutake 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九一年、秋の初めのことである。
ベイカー街二百二十一番地Bの居間は、この日ばかりは珍しく食欲をそそる香りに満ちていた。ハドソン夫人が、なにやら特別なきのこ料理を拵えてくれたのである。
「ホームズ」と私は言った。「今夜は上等なキノコが手に入ったそうだ。ポルチーニだと夫人が言っていた」
「ポルチーニか」と、ホームズは肘掛け椅子から顔を上げた。「ワトソン、菌類というのは興味深い」
「食べ物として興味深いのか、それとも毒として興味深いのか」
「両方だ」ホームズは細い指を立てた。「ヨーロッパだけで三千種を超える菌類のうち、食べられるものは数百種、毒を持つものは百種以上にのぼる。中には外見がまったく同じで、食べられる種と致死的な種が並んで生えることもある。自然界において、これほど巧妙に偽装した殺し屋が他にあるかね」
「ずいぶん物騒な食前の話だ」
「おっと、失礼」ホームズはわずかに笑った。「では食後に続きを話そう」
私たちは和やかに夕食を終えた。ハドソン夫人のポルチーニ料理は、バターと白ワインで炒めた風味が豊かで、申し分ない出来だった。
食後、ホームズはコーヒーカップを置いて、続きを始めた。
「毒きのこによる殺人というのは、歴史上何度も記録されている。ローマ皇帝クラウディウスを毒殺したと言われるタマゴテングタケ。フランスで百人以上を死に至らしめたベニテングタケとその親族たち——」
「ホームズ、それは食後の話題としても相当に物騒だ」
「医師が食後に毒の話を嫌がるとは思わなかった」と彼はにやりとした。「ところでワトソン、君は毒を使った殺人の最も巧みな隠蔽工作とは何だと思う」
「わからんな」
「被害者自身が、自分で毒を食べたように見せることだ」
その言葉が宙に浮いたまま、暖炉の炎だけが揺れていた。
その夜、深夜の帰路でのことだった。私が友人のグラスゴー公演の観劇に付き合ってホームズとともに劇場を出たのが真夜中過ぎで、霧深い通りを歩いていた。突然、馬車が暴走して歩道に乗り上げてきた。咄嗟に身を交わそうとしたが、馬の脚が私の外套を踏み、ホームズもろとも石畳に叩きつけられた。鈍い衝撃があって、意識が消えた。
そして——再び——気がつくと、私は別の場所にいた。
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【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
目が覚めると、鼻を刺す香りがした。
松の香と、土の香と、秋の冷気が交じり合った、清冽な匂いである。ロンドンのキノコ市場にある湿った地下室の香りとは似ているが、まるで別の——もっと澄んだ香りだった。
体を起こすと、私は板張りの縁側に横たわっていた。
縁側の向こうには小ぶりな庭が広がり、松の木が一本、秋の空に向かって枝を伸ばしている。縁側に面した座敷には、畳が敷かれ、低い膳が置かれている。畳というのは、藁を芯にして藺草を編み込んだ床材で、ロンドンのカーペットに比べると硬いが、独特の草の香りを発し、湿気の多い日本の気候によく合っている。
「麻布の武家地だ」
隣に捕霧七が座っていた。
例によって煙管を煙草盆に伏せ、縁側から庭を眺めている。着物の腰には十手。その背筋は、ホームズがベイカー街で何かを考えるときのように、妙なほどまっすぐだった。
「三太」と彼は言った。「仕事が来た」
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麻布というのは、江戸の南部に位置する武家地の多い地区で、大名や旗本の屋敷が点在している。ロンドンで言えばメイフェアやチェルシーの高級住宅街に近い雰囲気だが、こちらは煉瓦造りではなく白壁と黒塀が続く、静かな佇まいの土地である。
依頼を持ってきたのは、近所の商家の若い使いの者だった。相談の主は、麻布に屋敷を構える旗本、成田重左衛門家の番頭格の男、惣兵衛という人物だった。
惣兵衛は五十がらみの、小太りで目元の柔らかい男だった。しかし今日は、その目の周りに深い隈をつくり、顔色が土のように白い。
「捕霧七の旦那、折り入ってお頼み申します」
彼が語り出した話は、これだった。
成田重左衛門は先月、にわかに病に倒れた。高熱と吐き気と腹の激しい痛みを訴え、三日ほど生死の境をさまよったが、今は何とか快方に向かっているという。町医者は「疫病」と診断したが、惣兵衛にはどうしても腑に落ちない点があった。
「旦那様が倒れる前の晩に、松茸をお召し上がりになりました。どこか別の旦那様のお宅からの贈り物でして、良質のものと聞いておりましたが——」
「松茸に毒があったと思うか」と捕霧七は言った。
「わかりません。ただ……」惣兵衛は声を落とした。「旦那様が倒れた翌日から、ご親族の間で相続の話が出始めまして——」
松茸と相続。捕霧七の目が、静かに光った。
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成田家の家族構成を整理しておこう。
当主の重左衛門は五十二歳、妻のお静は四十五歳。二人の間に実子はなく、三年前に遠縁の若者を養子に迎えていた。養子の名は仙之介、二十三歳の青年である。
養子縁組——これはロンドンでも広く見られる制度だが、江戸では特に武家において重要な意味を持つ。武家は家を存続させることが第一義であり、実子がいない場合は親族や縁者から養子を迎えて家を継がせる。養子は跡取り(あとつき)として家督と財産を相続するが、それゆえに養子縁組の周辺には、利害が複雑に絡み合う。
成田家には、この養子縁組に反対していた人物がいた。重左衛門の弟、成田弥右衛門である。弥右衛門は四十七歳、独り身で、兄の屋敷から半丁ほど離れたところに住んでいる。仙之介が養子に入る前は、自分が兄の死後に家督を継ぐものと思っていたらしい。
「弥右衛門様は、養子縁組のときから仙之介様を目の仇のようにされておりました」と惣兵衛は言った。「旦那様が倒れた翌日、弥右衛門様がいち早くお屋敷に来られて、仙之介様に向かって……その、縁組を解消せよと、あからさまに申されたそうで」
「松茸の贈り物は、誰から届いたのか」と捕霧七は訊いた。
「近所の商家、津の国屋からで……ございました」惣兵衛は言いにくそうに続けた。「ただ、あとで津の国屋の旦那に確かめたところ、そのような贈り物をした覚えはないと……」
捕霧七は煙管をくるくると回した。
私は彼の横顔を見た。ホームズが「さて、問題が出揃った」というときと、まったく同じ表情だった。
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「三太、行くぞ」
捕霧七は立ち上がった。
「どこへ」
「現場だ。毒きのこの話は食後にするものだが、調べは早いほどよい」
ホームズのその言葉をそっくり引いたような口ぶりに、私は苦笑しながら立ち上がった。
成田家の屋敷は、麻布の奥まった場所にあった。
武家屋敷というのは、表門から玄関まで長い砂利道が続き、庭には松や庭石が配されている。建物は木造平屋建てで、広い縁側が庭に面し、各部屋は襖と呼ばれる木枠に紙を貼った引き戸で仕切られている。ロンドンの邸宅と異なり、廊下と部屋の境がなく、開け放てばひと続きの大きな空間になる。これが武家屋敷の基本的な構造である。
当主の重左衛門は、奥の間に床を取って横になっていた。まだ顔色は悪かったが、話をする気力はあった。
「捕霧七殿か。惣兵衛から聞いた」と重左衛門は枕から顔を上げた。「正直に申せば、あの松茸が怪しいとは思っておる。しかし確証がない以上、誰かを疑うわけにもいかず……」
「松茸はまだ残っているか」と捕霧七は訊いた。
「食べ残しが少し、台所に」
捕霧七は台所を調べた。私もついていった。
残された松茸の切れ端を、彼は虫眼鏡で丹念に調べた。虫眼鏡は江戸では珍しい道具で、オランダ製の拡大鏡が伝来したものである。捕霧七はこれを常に懐に入れていた——ホームズの虫眼鏡と同じように。
「三太、来て見ろ」
松茸の切れ端のひとつを指差した。確かに、他のものと比べて色が微妙に違う。そして——匂いが、僅かに異なる。松茸の澄んだ香りの中に、どこか苦みのある、鼻を刺す匂いが混じっていた。
「これは——松茸に別のものが混ぜてあったのか」
「或いは、松茸に見せかけた別の菌類だ」と捕霧七は静かに言った。「いずれにせよ、疫病ではない。誰かが意図してこれをやった」
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捕霧七の調べは、そこから素早かった。
まず、偽りの贈り物を仕立てた人物を探すため、私たちは近所の商家をいくつか回った。「津の国屋」の主人に事情を聞くと、確かにそのような松茸を贈った覚えはないという。しかし、三日前に見知らぬ男が店の名前を騙って何か届けに来たという話を、隣家の者が見ていた。
その男の人相について、目撃者の話を聞いた捕霧七は、ひとつことを確かめるために惣兵衛を呼んだ。
「惣兵衛さん、弥右衛門殿の身辺に、どんな人間が出入りしているか知っているか」
「さようで……弥右衛門様はご自宅に一人でおられますが、最近、見慣れない若い男が出入りするようになりまして。名は知りません」
「その男、猫背で、左の手首に古い傷跡があるか」
惣兵衛は驚いた顔をした。「……どうして御存知で」
「目撃者の話と合った」と捕霧七は落ち着いて言った。「その男が津の国屋の名を騙って松茸を届けたのだろう。弥右衛門に雇われた者か、弥右衛門の知り合いか——どちらにせよ、弥右衛門が仕組んだ」
「では、弥右衛門様が——」
「証拠を固めてから、奉行所の同心に引き渡す」
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しかし事はそこで複雑になった。
証拠を固めるべく、捕霧七は成田屋敷の中をさらに詳しく調べた。そのとき、思わぬことが浮かび上がってきた。
養子の仙之介が、深夜にひそかに屋敷を抜け出す習慣があるというのである。
惣兵衛はそれをずっと知っていて、黙っていた。
「惣兵衛さん」と捕霧七は静かに言った。「仙之介殿が夜中に出かける先を、知っているのではないか」
惣兵衛は長い沈黙の後、うなだれた。
「……知っております」
「話してくれ」
「仙之介様は、麻布の外れに住む書家の先生のところへ通っておいでです。学問の先生で……。旦那様はご存知ありませんでした。仙之介様が、こっそりと」
書家——文字を書く技芸の師匠のことだが、この場合は単なる習い事ではなかった。捕霧七がさらに問うと、その書家の先生というのが、実は昔、重左衛門に義理ある立場だった人物の子息であることがわかった。重左衛門に恩義を受けながら落ちぶれた家の息子で、今は書の師匠として細々と暮らしていた。仙之介は養子に入る前からその師匠を慕い、今も縁を続けていたのである。
「旦那様に言えなかったのは——師匠の家のことを話せば、旦那様が無理に援助しようとなさると思ったからだと、仙之介様はおっしゃっておりました」
「義理堅い青年だ」と捕霧七はしみじみと言った。「その夜中の外出が、弥右衛門に知られていたのだな」
「はい……」
「弥右衛門は、仙之介が夜中にこっそり屋敷を抜け出すことを知って、それを利用した。仙之介が外に出ている隙に松茸を届けさせ、台所に差し込ませた。怪しまれないよう、贈り物の形を取って」
私はそこで気づいた。
「しかし、毒を盛った相手は仙之介ではなく、重左衛門だった」
「そうだ」と捕霧七は言った。「弥右衛門の目的は、仙之介ではなく重左衛門を先に片付けることだった。重左衛門が死ねば、仙之介は養子として家を継ぐ。しかし養子縁組の書類には、重左衛門存命中に解消できるという条件が付いておったのだ。重左衛門が死んだ後では弥右衛門はその条件を使えなくなる——ならばまず兄を、と思ったのだろうが、毒の量が足りなかったか、あるいは重左衛門の体が丈夫だったか。命は取り留めた」
松茸の秋の香が、屋敷の中にまだかすかに漂っていた。
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弥右衛門は、捕霧七が同心とともに訪ねると、最初は知らぬ存ぜぬを通そうとした。しかし雇った男の人相が目撃者の証言と一致し、さらに弥右衛門の家の土間から松茸の包み紙と同じ素材の油紙が見つかると、顔色が変わった。
「松茸に混ぜた毒は何だったのか」と私は帰り道に捕霧七に訊いた。
「ツキヨタケ(月夜茸)だ」と彼は答えた。「松茸に形が似た毒きのこで、暗闇の中で光ることで知られる。正しい松茸の中に一本混ぜれば、見た目ではわからない。ただし、匂いが若干異なる。よほど注意深く嗅がなければ気づかないが——」
「君は台所で気づいた」
「台所で松茸の残りを嗅いだとき、異質な匂いを感じた。ロンドンにも毒きのこはある。この香りの歪みは、菌類に不純なものが混じったときの特徴だ」
ホームズが毒の分類を趣味にしていたことを、私は思い出した。江戸でもその知識は変わらない。転生しても、探偵の本質は変わらないらしい。
秋の風が麻布の松並木を揺らした。夕暮れの光の中で、松の葉が金色に輝いていた。
「捕霧七さん」と私は言った。「仙之介が夜中に師匠を訪ねていたこと、重左衛門殿には話すのか」
「惣兵衛から話してもらう」と捕霧七は言った。「私から話すより、長年仕えた番頭から話すほうが、双方に傷がつかない。仙之介の義理堅さは、責められるべきことではないからな」
「そうだな」
「三太」と、捕霧七は歩きながら言った。「毒きのこというのは、食べられるきのこと、見た目が変わらない。しかし香りが違う。真実というのも同じだ。表面は嘘に見えても、よく嗅げば、必ず本物と偽物の間に、僅かな歪みがある」
秋の夕暮れの中、私たちは長屋へと向かった。
その夜の長屋の縁側には、惣兵衛が礼として届けてくれた本物の松茸が、竹籠に盛られて置いてあった。捕霧七は珍しく自分で火鉢を起こし、網の上に松茸を並べて炙り始めた。
香りが立つと、あの毒の混じった歪みは一切なく——ただ、秋の山の清冽な香りだけが、夜の空気を満たした。
「見事だ」と私は思わず言った。
「当然だ」と捕霧七は言って、静かに笑った。「本物は、本物の香りがする」
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉の前の小テーブルに、食べかけのポルチーニ料理が残っていた。ホームズはその傍らで、小さな試験管を手に持って、何か黄色い液体を検分していた。
「ホームズ」と私は言った。「松茸の夢を見た」
「君もか」とホームズは試験管を置いて私を見た。「ツキヨタケか」
「そうだ。きのこに毒を混ぜるという話だった」
「実に江戸らしい事件だ」ホームズは指を組んだ。「ワトソン、私が今しがた分析していたのは、ポルチーニ料理の残りの煮汁だ。念のため、毒性を調べてみた」
私は思わず椅子から立ち上がりかけた。「それは——」
「陰性だ。安心したまえ」ホームズは静かに笑った。「ハドソン夫人が毒を盛るはずがない。ただ、食後に毒の話をした後で、確かめずにはいられなかっただけだ」
「……君は本当に変わっていない」
「三太と同じことを言う」とホームズは言った。「あちらでもそう呼ばれたのだろう?」
私は答えなかった。窓の外、ロンドンの秋の夜気が、窓ガラスを曇らせていた。
「ホームズ」と私は言った。「本物と偽物の見分け方が、きのこと真実とで同じだと思うか」
「同じだ」とホームズは即座に答えた。「表面ではなく、香りを嗅げ——そういうことだろう、ワトソン」
暖炉の火が、静かに揺れた。ポルチーニの残り香が、まだほのかに漂っていた。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




