第一話:お文の魂の冒険 〜 The Adventure of Lady Fumi's Spirit 〜
一部AIにより作成
【冒頭:ロンドン時代】
一八九一年、十一月の夜更けのことである。
ベイカー街二百二十一番地Bの居間には、暖炉の炎がちろちろと揺れ、煙草の煙が天井に向かって青白くたなびいていた。
シャーロック・ホームズは肘掛け椅子に深く沈み込んで、例によってバイオリンを膝に乗せたまま、弦を爪弾くでもなく、ただ物思いに耽っていた。私、ジョン・H・ワトソンは、医師としての記録を整理しながら、友人のこの静謐な様子を横目で眺めていた。
「ワトソン」と、ホームズは突然口を開いた。「幽霊というものを信じるかね」
「信じない、というのが医師としての立場だ」と私は答えた。「が、説明のつかない現象というものは存在する。それは認める」
「賢明な答えだ」ホームズは微笑んだ。「私が信じるのは、証拠だけだ。しかし証拠がないからといって、現象まで否定するのは早計というものだ。幽霊と呼ばれる現象の九割九分には、人間の意志か、あるいは人間の恐怖か、その二つが絡んでいる」
「残りの一分は?」
ホームズはバイオリンの弦を一本、低く鳴らした。
「それを解明するために、われわれは存在するのかもしれん」
その夜、ロンドンに霧が出た。テムズ河から這い上がってくる十一月の霧は、ガス灯の光を輪のように滲ませて、街を白い沈黙の中に沈めた。
私たちが屋根馬車でセント・ジェームズ公園の近くを通りかかったのは深夜のことで、どういう手違いか、御者が橋の欄干を見誤った。凄まじい衝撃があった。馬車は傾き、私はホームズとともに暗い水の中へ沈んでいった。
テムズの流れは思いのほか深く、冷たかった。
そして——気がつくと、私はどこか別の場所にいた。
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【本編:江戸での事件】
——和登三太の語り——
私が目を覚ましたとき、最初に気づいたのは、自分がひどく見知らぬ匂いの中にいるということだった。
生魚と潮の匂い、炭の煙、そして何か甘い香が混じり合った、なんともいえぬ複合的な香気である。ロンドンのテムズ河岸にも似た匂いはあるが、まるで違う。あちらは腐臭と煤煙であり、こちらは——なんと言えばよいか——生きた市場の匂いとでも言うべきか。
私は路地に横たわっていた。
頭を起こすと、目の前に広がっているのは、煉瓦造りでも石畳でもない、板塀と木造の家々が軒を連ねる細い通りであった。着物——ロンドンではチャイナやジャパンの展示会で見るような——を着た人々が行き交い、木の歯が二本ついた奇妙な履き物を鳴らしながら歩いていく。女たちは髪を高く結い上げ、長い袖の衣をまとっている。
「ここは……」
「江戸だ」
声の主を見れば、私の傍らに、見知った顔の男が座っていた。
やや痩せた長身の男で、目が異様に鋭い。ホームズだった。いや、正確には——ホームズであった者、というべきか。彼の手には、ロンドンで手にしていたパイプの代わりに、細い煙管が握られていた。着物の腰には、なにやら鉄の棒のようなものが差してある。
「捕霧七さん」
どこからか声がして、私はぎょっとした。「ほむしち」——それは私たちの、江戸での名であった。写楽捕霧七と、和登三太。なぜそれを知っているのか、今もってよくわからない。転生というものは、名前から始まるらしい。
捕霧七は立ち上がり、着物の裾を払った。
「三太、ここがどこかはわかった。では何をすべきかも、おのずと明らかだ」
こうして私たちの江戸での生活が始まったのである。
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まず私が面食らったのは、この「江戸」という都市の構造であった。
ロンドンにも貧富の差による居住区の棲み分けはあるが、江戸はより明確に土地が分けられていた。武家地——武士と呼ばれる支配階級の屋敷が占める区域——、寺社地——寺や神社のある区域——、そして私たちのような庶民、江戸では「町人」と呼ばれる人々が住む町地。江戸の総面積のうち、武家地が実に七割近くを占め、残りを寺社地と町地が分け合っているというのだから、庶民の暮らす空間は驚くほど狭い。
その狭い町地の中に、長屋と呼ばれる集合住宅が建ち並んでいる。ロンドンのテラスハウスに似ているが、はるかに簡素で、壁一枚隔てて隣人の声が筒抜けに聞こえてくる。私と捕霧七が住まいを与えられたのも、神田の裏手にあるそんな長屋の一角であった。
「三太、これを見ろ」
捕霧七は或る朝、腰に差した鉄の棒を取り出して私に示した。
「十手というものだ」
枝のように横に小さな鉤が出た、一尺ほどの鉄の棒である。ロンドン警察の警官が持つ警棒に似ているが、それよりずっと細く、刀の刃を受け止めるための形をしている。
「我々は岡っ引だ」と、彼は言った。「町奉行所——ロンドンで言えばスコットランド・ヤードに相当する——の与力や同心という役人を補佐して、町の治安を維持する民間の協力者だ。正式な役人ではないが、この十手を預かることで、町人を取り調べる権限が与えられる。俸給はなく、謝礼でやっていく」
「ということは、我々は……」
「探偵業に近い。ただし証拠を集めてレストレード警部に引き渡す、というわけにはいかない。何か問題が?」
何も問題はなかった。私は笑って首を振った。
こうして私は、江戸のワトソンとなった。
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その頃のことである。
私のところへ、ある縁者を通じて相談が持ち込まれてきたのは。
相談主は、番町——江戸でも比較的格式の高い武家地の一角——に屋敷を構える旗本、松村彦太郎という人物の縁者で、Kという翁であった。
旗本というのは、将軍に直接仕える武士のうち、知行——すなわち封土——を持ち、将軍の御目見え(おめみえ)が叶う格の者である。ロンドンで言えばナイトの家柄というところか。
Kの翁は、私が長屋の板縁に腰かけて煙管を一服やっていると、遠慮がちに訪ねてきた。七十を超えたかと見える老人で、着物の上に羽織を重ね、よく手入れされた白髪を無造作に結っていた。私が捕霧七を呼ぶと、二人で翁の話を聞いた。
「おふみの一件、とでも申しましょうか」
翁は言いにくそうに、しかし一言一言確かめるように話し始めた。
事の起こりは三十年ほど前に遡る——ちょうど元治元年(一八六四年)の三月半ばのことだという。
番町に住む旗本、松村彦太郎の家に、妹のお道が三歳になる娘のお春を連れて帰ってきた。お道は小石川の旗本、小幡伊織の家に嫁いでいたが、夜な夜な、その枕元に奇怪なものが現れるというのだ。
「散らし髪のびしょ濡れの女が、枕元に立つというのです。しかも、一緒に寝ているお春までが、『ふみが来た、ふみが来た』と叫ぶのでございます」
「ふみ、とは?」と私は訊いた。
「わかりませぬ。お春はまだ三つ。ふみなどという名の者に、心当たりはございませぬと、お道もお兄の彦太郎どのも申しております」
捕霧七は煙管の雁首を指でくるくると回しながら、目を細めていた。ロンドン時代のパイプをひねる仕草と、まったく同じ癖である。
「お道の方が嫁いだのは、いつのことか」
「三年ほど前でございます」
「小幡の家には、以前にも奥方がおられたか」
翁は少し驚いた顔をした。「それが……先妻がおられました。おふみ、とおっしゃる方で、二年ほど前に亡くなられました。子はありませんでした」
捕霧七の目がわずかに光った。
私はそれを見逃さなかった。この男が目を光らせるとき、すでに答えは出ているのだ。ロンドン時代から変わらぬ、彼の推理の速さであった。
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「しかし、三太」と、捕霧七はその夜、私に言った。「証拠がなければ話にならん。私の推測など、医者が口頭で診断を述べるに等しい。現場を見る必要がある」
「現場、とは?」
「小幡の屋敷だ。そして——おふみの墓だ」
翌日、私たちは小幡の屋敷に出かけた。
武家屋敷というものを間近に見たのは初めてだったが、なるほど、ロンドンの中産階級の邸宅とは作りがまるで異なる。石造りではなく木造で、大きな門と、白壁に囲まれた敷地を持ち、庭には松や梅が配されている。内側に入ると、廊下が縁を伝って各部屋に繋がり、畳の上に座って生活する様式は、椅子と机のロンドン生活とはまるで違う感覚だった。
当主の小幡伊織は四十がらみの、どこか疲れた目をした武士であった。お道は三十前後の物静かな女で、目の下に隈をつくっていた。
「お春の一件は、本当なのです」と、お道は言った。「笑われるとは存じますが、あの子は嘘をつく年でも、つく理由もございません」
捕霧七は屋敷の中を一通り見て回った。
「この辺境から、どちらの方向に妙な風が吹くか、教えていただけますか」という、奇妙な質問をした後、彼は縁側の柱の傷を指で撫で、井戸端の底を覗き込み、お道の部屋の行灯の油の減り具合を確かめた。
行灯というのは、油を入れた皿に灯心を浸し、それに火をつけて紙張りの箱の内部を照らす照明器具である。ロンドンのガス灯と比べれば頼りないが、温かみのある光を放つ。
「幽霊は何時頃に現れるか」と、彼は訊いた。
「丑三つ時ごろ——今で言えば夜中の二時から三時のあいだ、でございましょうか」
「その時刻に、屋敷の中から外を見た者は」
「……御座いません」
捕霧七はうなずいて、それ以上は何も言わなかった。
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おふみの墓は、市谷の方にある寺にあった。
私たちが寺に着いたのは昼過ぎで、秋の傾いた日差しが松の枝を黄金色に染めていた。寺というのは、ロンドンの教会に当たる宗教施設であるが、教会が礼拝を中心とするのに対し、江戸の寺は墓地を管理する機能を持ち、庶民から武士まで、死者の弔いは主に寺が担っている。
「おふみ之墓」と刻まれた石碑の前で、捕霧七はしばらく無言で立っていた。
やがて彼は、墓の周囲の地面を注意深く観察した。落ち葉の散り方、土の踏み固められ具合、そして供えられた花の種類と鮮度を、一つ一つ確かめた。
「誰かが最近、花を替えている」と彼は言った。「しかも定期的に。この菊の花は三日と経っておらん。だが小幡の家から供えに来る者がいるとすれば——」
「なぜ定期的に? 亡くなってもう二年になるというのに」
「それが問題だ、三太」
私には、まだ何もわからなかった。
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その夜、捕霧七はある人物を長屋に呼んだ。
呼ばれたのは、小石川のあたりで小間物の行商をしているという、五十がらみの男であった。小間物とは、日常生活に使う細々とした品物——簪や白粉、手拭いや香袋などを売り歩く商売で、特に女性の多い武家屋敷の周囲を回る者は、屋敷の内情に詳しくなりやすい。
捕霧七はその男に、例によって鋭い質問をいくつか浴びせた。
「小幡の先妻、おふみというお方のことは御存知か」
「さようで……存じております」男は少し体をこわばらせた。
「先妻が亡くなる前後、屋敷に出入りする者に変化はあったか」
「それは……」
「正直に話してくれれば、あなたを咎めはしない。十手を持つのは、犯人を捕まえるためだけではない。真実を守るためでもある」
捕霧七は懐から十手を取り出し、静かに膝の上に置いた。
行商人は観念したように、重い息を吐いた。
「実は……おふみ様が亡くなられる半年ほど前から、ある女性が屋敷の近くをよくうろついておりました。後家風の、三十前後のお方で——どうやら小幡の旦那様に、深い縁のある方だったようで……」
「名は」
「お種、と聞いております」
捕霧七の目が、再び静かに光った。
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その後、私が見ていた前で、捕霧七は見事な速さで全ての糸を手繰り寄せた。
お種という女は、小幡伊織がかつて——おふみと結婚する以前から——深い仲にあった女であった。おふみが病の床についたとき、お種はその回復を内心では恐れていた。何故なら、おふみが回復すれば、小幡がお種のもとに戻る機会は永遠に失われるからだ。
そしてお種は、おふみが弱っていた時期に、ある細工をした。
おふみの薬に、少量の毒を混ぜたのである。
江戸時代の毒殺は、現代の科学鑑定のない時代にあって、驚くほど発覚しにくい。おふみは「病気が重くなった」とされ、静かに死んだ。
しかしお種の計算が狂ったのは、お春という存在であった。三歳の子どもというのは、大人が思うより多くのことを、動物的な直感で察知する。
お春の母であるお道が小幡の屋敷に嫁いでくる前、お種はしばしば屋敷に出入りしていた。そのとき、まだ二歳のお春は、屋敷の中に出入りする女たちの顔と名前を、肌で覚えていた。お種のことを、おふみ様の友人として「ふみの人」と呼んでいたのだ。
散らし髪のびしょ濡れの女——それはお種が、おふみの霊に見せかけて枕元に立った演技ではなかった。お道が恐怖で錯乱した夜中に、お種が窓から忍び込み、無言で立っていたのだ。目的は、お道を追い出すこと——小幡との関係を復活させるためである。
しかしお春は、目が覚めてその顔を見た。そして子どもの無邪気な言葉で叫んだ。
「ふみが来た!」と。
お種を「ふみ(おふみ様の人)」と呼んでいた記憶が、三歳の無垢な口から出たのである。
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「なんと……」と、翁のKは、一部始終を聞いてしばらく言葉を失った。「子どもというのは……恐ろしいものですな」
「いや」と捕霧七は穏やかに言った。「子どもは正直なのです。恐ろしいのは、人間の心の中の欲望というものでしょう」
お種はその後、北町奉行所の役人に引き渡された。
町奉行所というのは、江戸の行政と司法を一手に担う機関で、南北に二つある。月ごとに交代で勤め、刑事事件から民事問題まで扱う。長官である町奉行は、ロンドンで言えばロンドン市長と治安判事を兼ねたような存在で、幕府から派遣される旗本がその職に就く。
毒殺の証拠を集め、それをまとめて奉行所に報告する役目を担ったのは、捕霧七ではなく、本来の担当の同心——下級の役人——であったが、そもそもこの一件に目星をつけたのが捕霧七であることは、界隈に知れ渡った。
「お前さんは大した人だ」と、担当の同心が言った。「どこで見当をつけた」
「お春の言葉です」と捕霧七は答えた。「子どもが『ふみが来た』と言ったとき、周囲の大人は全員、それを幽霊のことだと思い込んだ。しかし三歳の子は幽霊などという概念を持っていない。あの子が見たのは、生きている人間に決まっている。あとは、誰が、なぜ、それをする動機を持つかを考えるだけのことです」
私は傍らで聞きながら、思わず微笑んだ。
ロンドンのホームズも、同じことを言いそうだと思ったからだ。
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秋も深まった或る夕、私と捕霧七は長屋の縁側に並んで、夕焼けを眺めていた。
江戸の空は広い。ロンドンのような高い建物がないため、西の空が橙色と朱色のグラデーションで染まるさまが、遮るものなく見える。煙草屋の屋根の向こうに、その日の終わりがゆっくりと沈んでいった。
江戸では夕方のことを「逢魔が時」と呼ぶことを、近所の豆腐売りから教わったばかりだった——魔物に逢う時刻、という意味だという。なるほど、光と闇が入れ替わるその一瞬は、どこか世界の境目のような感じがする。
「捕霧七さん」と私は言った。「私たちはなぜ、ここにいるのだろう」
捕霧七は煙管を一服やって、煙をゆっくり吐き出した。
「わからん。しかし、やるべきことはある。それで充分ではないか」
「ロンドンに戻れるとは思わないのか」
「三太」と彼は言った。「今われわれが扱った事件を考えてみろ。幽霊と恐れられたものの正体は、生きた人間の欲望だった。この世に真に怪しいものがあるとすれば、それは霊でも妖怪でもない。人の心だ。そしてその謎を解くことは、ロンドンにいようと江戸にいようと、本質的に同じ仕事だ」
私は黙ってうなずいた。
夕暮れの中に、どこかの寺の鐘の音が、ゆるやかに広がっていった。
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【結末:ロンドン時代】
気づくと、私はベイカー街の居間にいた。
暖炉の火が、相変わらず赤く揺れていた。ホームズは肘掛け椅子に沈んで、バイオリンの弦を静かに爪弾いていた。
「ホームズ」と私は言った。「今、妙な夢を見た」
「夢か」とホームズは言った。「江戸の夢かね」
私は驚いて彼を見た。
「君も見たのか」
「見た。しかし夢かどうか、私には確信が持てない」ホームズはバイオリンを下ろして、私を見た。「ワトソン、三歳の子どもが幽霊を見るとき、その子は何を見ているか、知っているかね」
「……生きている人間を、だろう」
「その通り」ホームズは満足げに頷いた。「子どもは嘘をつかない。嘘をつくのは常に、大人だ」
窓の外に、十一月の霧が出ていた。テムズ河の方から、遠く汽笛の音が聞こえてきた。
ホームズはバイオリンを再び手に取り、今度は何か哀愁を帯びた旋律を奏で始めた。まるであの江戸の夕暮れの鐘の音に、応えるように。
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本作は、アーサー・コナン・ドイル著『シャーロック・ホームズの冒険』および
岡本綺堂著『半七捕物帳』への敬意と感謝を込めて執筆しています。
著:コナン・綺堂異流(Conan Kidoyle)




